日曜日の午後でした。珍しく次男と三男がサッカー遊びをしました。青くて軟らかなボールです。3歳の三男もなかなか蹴るのが上手いのですが、時にわざとのように、違う方向に蹴ることがあります。こら、と言いつつ私が拾いに走りました。駐車場の溝を転がっていってしまうと、下を走る大きな溝に落ちてしまいますから。
私が蹴り上げると、ボールは金網を越えて、なんとその川のような溝に落ちてしまいました。かろうじて何かに引っかかり、止まっていますが、今にももう取り戻せないところにまで流れてしまいそうでした。
私が頼みもしないのに、中学生の次男が駆け寄ってきました。彼は躊躇せず金網を乗りこえて、下へ降りていきました。
水で足が濡れるかもしれないようなブロックを足場にして降り、ボールを拾い上げました。99円のボールのために怪我でもしないかと私は心配でした。なんでもないことのような顔をして戻ってきた彼を、我が息子ながら、カッコイイと思いました。
神さまは、私のようにボールを蹴り損なうようなことはないでしょうが、ボールが溝に落ちているのを見せることがあります。さあ、あなたはどうするかな。拾いに行ってくれるかどうか、と神さまが見守っているような気がしました。あなたのそばに、青いボールが、揺れていませんか。今にも流されそうな不安な姿で。
オモチャを散らかして片づけず、叱られた3歳児。でも、これくらいのことでは泣きません。ただ神妙にしています。少しすると、私に近づいてきて、もそもそと膝に乗ってきます。半ば強引に座ってきます。
この一見厚かましく見える姿が、幼子です。屈託のない表情で「甘えさせてね」と言いたげです。自分で自分をさばくこともしません。怒るか怒らないかは親次第、結果は親に任せます。ある意味で親を信じているからこそでしょう。
この3歳児、絵を描くのが大好きです。きれいに膝を巻いて、テーブルに向かっています。しばらくすると何か様子が変。足が汚れた、みたいに訴えますが、見たところどうということはありません。
母親は、ははんと分かりました。「足がしびれたんでしょう?」と訊きました。なにせ、生まれて初めて、足がしびれたのです。これまで感じたことのないことを訴えるのに、なんと言えばよいのか、分からないでいるのです。
でも、母親はそれを分かってくれました。人間でも、わが子のことですから、なんとか理解できるのです。何と祈ってよいか分からないでいる人間の祈りを、神さまが分かってくれないはずはありません。
自分がどうであれ、神に祈り求めることを控える理由は、ないようです。
日本漢字能力検定協会が公募した2006年の「今年の漢字」は「命」と決まり、清水寺で発表されました。本来暗い言葉ではないでしょうに、張りつめた意味が迫ってくるのは、自ら命を絶つ生徒たちのせいでしょうか。
リセットされて生き返るとの望みをもっていたのか、生まれかわることにしか平安を見いだせなかったのか、あるいは安易に霊魂めいたものを宣伝する大人もそれに加担しているのか、よく分かりません。
飲酒運転でいとも簡単に人の命を奪うことも、大人の無責任のなせるわざでした。いずれも、福岡県から大きな悲しみが全国に広がりました。
漢字の「命」は、「令」つまり神のお告げを受ける人が「口」つまり器に祈りの言葉を入れる姿と言われます(白川静)。人のいのちは神のおおせであるという意味だそうです。中国の人の知恵にも驚くばかりです。
聖書は「永遠の命」を告げています。今年、聖書の言葉を重んじて学びませんか。人の思いつきではなく、少なくとも人類の文化史からして永遠に等しく伝えられ続いている聖書というものそのものの告げるメッセージの意味を読みたいものです。イエスとの出会いも、意図的な訳や解釈からは、できないか、歪んだものとなりかねませんから。
もう年末。大人にとって、一年はあっという間です。子どもたちは、日に日に新鮮なことが起こるので、時間を長く感じますが、大人には、代わりばえのない毎日が矢のように過ぎ去るものです。
同じ季節が巡ることから、一年というサイクルが刻まれます。今私たちが使っている暦は、ローマ時代に基づきます。冬至の頃、つまり昼が最も短く最も暗い日からは、今後だんだん明るくなっていくという希望をもつようになりました。キリストが生まれた日は、その時期が相応しい、と暫定的に決められました。
灯火は、真っ暗な場所ほど明るく輝きます。私たちが自分の心の中に醜さと絶望しか見いだせないときにこそ、キリストの救いが喜びに覚えられます。罪に悲しむ魂でなければ、神を知ることも、愛を覚えることもないのです。
クリスマスは、そんな一時であり、どんちゃん騒ぎをする時ではありません。お金をただ浪費させようとする企業と、欲望を満たそうとする人々ほど、キリストから遠いものはありません。
静寂を取り戻しましょう。しーんと張りつめた空気の中、星の光が針のように瞬く光が見えるでしょうか。おびただしい星の群れが、神の前に引き出される人間のようであり、そのうちの一人が自分であると、気づくでしょうか。今年も、聖夜を待ち望みます。メリー・クリスマス。
イジメは、いつ何時襲ってくるか、分かりません。それまで仲良しだったはずのグループから突然はじき出され、1人への、集中砲火が始まるのです。1人をはじき出すことで、自分を守るのです。
しばしば、いじめられる方にも問題がある、などという声も出ます。自分の心をごまかせないという人が、排除されるべき問題なのでしょうか。
悲しいニュースが続きます。苦しんで行き場をなくした中学生が、自殺したというのです。報道を聞いて、もしかすると死んだら誰か味方になってくれるかも、と思って死ぬ人もいるのでしょうか。でも、一番その痛みを分かってほしい「偉い」人は、たぶん理解してくれません。
どこからがイジメで、どこからがイジメでないか。その線引きは、簡単ではないでしょう。一本の棒の左が白く、右が黒だとします。黒がイジメという判定です。この境目は「偉い」人たちにとって、うんと右端の方にあるのです。いじめられている人の味方をする人は、左のほうに境目を考えるか、左のほうからすでに灰色になっていると考えています。でも、ここは「偉い」人には、真っ白にしか見えないのです。
聖書には、世界で一番いじめられた人のことが書いてあるのを知っていますか。いじめられて、ついに殺されてしまったのです。でも、その人は、世の中に勝利している、とも言いました。私もまた、その人をいじめた一人なのだと分かったとき、私も、その人から勝利を与えられるというのです。
最近よく耳にする言葉、「ふつう」。「ふつうにしとったらこうなった」「ふつうそんなことせんやん」。一時「マジ?」としか口にしなかった若い世代が、今や「ふつう」を連呼しています。
ある人はこれを、自分が「出る杭」ではなく仲間から外れるような存在ではないことの証明であるように捉えています。またある人にすればその逆に、あまりにも普通でしかない自分に何か特別なアイデンティティが欲しい心理の裏返しであると読むこともできるそうです。画一に収まろうとする心理と、画一でありたくない心理というところでしょうか。
よく聞いていると、その「ふつう」がどうしても普通に思えないケースが多々あることに気がつきました。「ふつう鍵かかってない自転車があったら、乗っていくやん」などと。自分の思っている常識、あるいは自分のしたことは何でも「ふつう」と呼ぶのでしょう。社会から見れば非常識極まりないことでも「ふつう」である、つまり正当性がある、という気持ちなのでしょうか。
これは大人も同様です。「普通ちょっと酒飲んだくらいなら運転するだろう」と管を巻き、その「ちょっと」の量が加算されていきます。「普通運転中にケータイで話したりメール見たりくらいするだろう」とも言います。
自分のすることは、すべてが「ふつう」になります。自分が世界のルールとなり、自分は何をしても許されるように自分が決めます。しかし、聖書はこれとは正反対の世界なのです。
山間部を走る中国自動車道には、トンネルがたくさんあります。明るいところからトンネルに入ると、一瞬真っ暗に見えることがあります。目が、明るさの変化についていかないのです。しかし目が慣れても、トンネルの中は暗いものです。トンネルの中では、ライトを点灯することが義務づけられています。
が、中には点けない車もあります。ちょっとスイッチを入れることが面倒なのでしょうか。電灯もあるし、自分の目からはわりと見えるから、点灯しなくてもいいと思うのでしょうか。
いいえ、自転車もそうですが、ライトの点灯は、自分が見るためではなくて、自分を他人から見てもらうためにこそ、必要なものです。赤いテールランプを見て、後続の車は、どこへ向けて走るのか、どのくらい先まで安全か、確認することができます。
信じる人の中には、神さまが不思議な光を与えてくださっています。あなたがたは世の光である、とキリストは言いました。自分など無力でしかないと思っていませんか。あなたには、キリストの光が備わっています。あなたは、ちゃんとライトを輝かせて走っています。
時代が暗くなり、トンネルの中にいるかのように思えることがあります。人々が暗闇の中で光を見失っているならば、なおさら、その中であなたには価値があります。世の人々が、何に従って進んでいけば安全であるのかを、示すことになるからです。ただあなたが、信じるというスイッチさえ入れるならば。
8月の西洋での呼び名は「オーガスト」。これは皇帝アウグゥストゥスの名に由来しています。皇帝の誕生月だったとか、戦勝の記念とか、諸説あるようです。
戦勝とは逆に日本では、この8月は、本土における敗戦を伝える月となりました。原爆の痛みも受けました。しかし考えてみれば、この戦争を、私は体験しておりません。すでに自身の父母も体験なしという若者も多くなってきました。
今、戦争を可能にしかねない法律を配備しようとする動きが強まっています。どうか戦争体験のある方は、より若い世代にかの戦争のことを教えてください。。
戦争体験のない人が、戦争を次の世代に伝えていかなければなりません。当然それは難しいことです。昔の戦争なんて自分には「関係ねーよ」と一蹴して、なるべく考えようとしない性向の若者もいます。
かつて、キリスト教の名で、惨劇が繰り返されました。魔女裁判や異端審問しかり、南米の帝国の滅亡しかり。それに対して、今のクリスチャンが「関係ねーよ」と口走るなら、先の若者と同じです。
歴史上の過ちに対しても、それは自分に責任がある、と考える心が必要です。あの「荒れ野の40年」というドイツ大統領の名演説は、人の心をうちました。自分に責めがある。その痛みを抜きにしては、歴史に由来するトラブルを解消することはできません。戦争から平和へと、道を一方通行にするためには、この痛みを欠かすわけにはゆきません。
サッカーのワールドカップ、日本はいいところなく敗退してしまいました。1次リーグ最終戦の対戦相手はブラジル。世界最高のチームを相手に先制点を入れる意地を見せたものの、力及びませんでした。
大会初戦で決勝のゴールを決めたブラジルの貴公子カカ選手など4選手が「『CHAMPION!!!』ドイツワールドカップ2006」という伝道用パンフレットに証詞を載せています。カカ選手は、六年前に半身不随に陥った後、奇蹟のカムバックを遂げました。人々に早くこのイエスの「チーム」に加わるよう呼びかけています。
サッカーの強い国は、キリスト教文化の国が多いようですが、日本はそれらのチームに対抗できませんでした。初戦の最後の数分間で立て続けに3点を決められた脆さもありました。なんとか勝てるのではと油断したのでしょうか。
審判のミスもそこに関係していたといわれますが、思い出されるのは今年の野球のW杯。不条理な審判により苦境に立たされた日本が、逆転優勝を手にしたのです。最後まで諦めてはいけないことを学びました。
そのときは、イチローというリーダーが極めて熱くなり、仲間の求心力を保っていました。教会のリーダーの牧師や役員さん、教会学校の教師も、冷静な判断力と共に、熱いハートで、チームを勝利に導きましょう。総監督の指示を仰いで。
かの『ナルニア国物語』は聖書的でお薦め!との動きで始まった最近の映画に対する世界のキリスト教界は、今や、『ダ・ヴィンチ・コード』への反対運動で大騒ぎ。その運動自体が映画の宣伝になってしまい、よけいに人が映画館へ押し寄せる始末。
もともと日本には聖書を神聖視するハートもあまりなく、スキャンダラスな空想を面白がっているようです。青森にはキリストの墓がある、という伝承があるくらいですから。
この十年にも、無責任な商業本が出版され、マスコミも盛んに話題を煽っていました。マグダラのマリアの特別視についても、「話題作りのテクニック」としては新しくはありません。でもこれを「本当かも」というふうにしか紹介しない日本の報道のあり方は、特に子どもたちに、悪影響を与えます。
ジョークというのは、真実を弁えている人に対してのみ有効であり、面白味があるというものです。近頃ブームのお笑いの世界で、そこにいない人の悪口を言いコケにすることが目立ちますが、様々な事柄への悪影響を懸念せざるをえません。
教会に集う私たちは今や、流行映画のもたらす不信への罠に対する姿勢をも考慮しなければならなくなりました。もっとも、レオナルド本人も、自分の名前でとんでもない誤解を撒き散らされて、不愉快に思っていることと推測しますが。
教会の記念誌のための原稿が、集まり始めました。この地に十字架が掲げられて半世紀を経ていても、教会が社会的な組織となったのはさほど昔ではありません。皆様の原稿には、それぞれの熱い心があふれていました。たったこれだけの字数では、とても述べ尽くせない。そんな声が行間から聞こえるようでした。
今回の記念誌の見つめているものは、「いま」という時と場所から見つめた、これまでの10年とこれからの10年です。それはよいのですが、子どもたちの声はどこに、とふと思いました。いま、ここにいる子どもたちの声を、一人一人が短くてもいいから、記念誌に載せたい、と思ったのです。
子どもたちのことを、こんなに温かく同じ高さの視線から見守り育んでくれる教会も珍しいかもしれません。子どもたちと一体になって、聖言葉に耳を傾ける子どもメッセージの時間の空気には、子どもたちは別だ、というにおいは感じられませんから。
10年後、成長したいまの子どもたちが、教会を引っ張っていくようになっているような気がしてなりません。でも、そのときにだって、いまの大人たちも、負けてなどいられません。子どもたちから、若さを吸い取っていくようにしていきます。自分が何かを教えるというのでなく、自分もまた成長していくことさえ、忘れなければよいのです。
ゲームであれば、リセットしてやり直しができます。でも、人生はリセットができません。だからやり直しができない……ならば、傷ついたこと、傷つけたことは、もう取り返しがつかないのでしょうか。
初め、それが虐待のことを歌った曲、子どもを救うキャンペーンの曲だとは気づきませんでした。ただ聴く度に訳もなく涙があふれて仕方がありませんでした。「スタート・ライン」(平原綾香/洗足学園音楽大学)、二十歳そこそこの女性が泣きじゃくりながら書き上げたその詞が、バラードに乗って響きます。「走り続けたい どんなに傷ついても / いつか僕は新しい スタート・ラインに立つ / 走り続けたい どんなことがあっても / 神さまがくれた スタート・ラインだから」。
この4月、私たちはイースターを迎えます。うれしい祝祭ですが、十字架という壮絶な死を経てのみ、この復活がありました。罪なき者が犠牲になることによって死罪を免れない者が救われるという、愛の原理を全うするものでした。
イエスさまは、ボロ雑巾のように自らを捨てることで、私たちを再びスタート・ラインに立たせてくださったのです。どんなに傷ついても、やり直せると信じられるように。特に新しい学校、学年、職場などを迎えた人は、新しい歩みを喜びましょう。あのナルニア国のように、あなたを呼び迎え、成長させてくれるような出会いが、待っているに違いないと思うのです。