炭火
2007.8

 マルコによる福音書を、こどもたちと読んでいます。聖書は私たちの命です。

 7月は、7章を学びました。食事の前に手を洗わない弟子たちが非難される場面です。衛生的な意味と違い、手を洗うとはつまり、世間の汚れからきっぱり分離して自分を清くする行為であったことを説明しました。ではどうして弟子たちは手を洗わなかったのでしょう。こう尋ねたら、生徒たちから答えが返ってきました。弱い小さな人たちとともに生きるからだ、と。

 その日、バルティマイのいやしの話も聞いていました。「あなたは何をしてほしいのか」と子どもたちに問いかけてみました。子どもたちからは、世界や日本の人々の幸せを願う声が返ってきました。優しい気持ちはとてもすばらしいと告げた上で、さらに考えてみました。神社で祈願する人は、はたしてこんな問いかけを受け、また答えようとするだろうか。

 私たちは、神と一対一で差し向かい合っているのです。神は私という個人に向かい、言葉を与えます。神社では味わえない、人格的な交わりを神とすることができます。これがキリスト教です。祈りは、このような一対一の交わりにおける会話です。神社でも呟けるような文句には、命がないのかもしれません。

 こどもたちの目が、キラリと輝きました。


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炭火
2007.7

 地域で一番美味しい魚を売る魚屋さんがあります。下の子を連れて公園で遊んだついでによく寄ります。ここのご主人、実に口が達者で、面白い。冗談がうまく、調子のよいホラに、ついつい笑ってしまいます。

 先日、ふとドイツ語の話になり、近頃の魚は外国産が多いことから、魚屋もネットで外国語をさかんに調べるものだと、けっこう真顔で話し始めたご主人。ホームページも作りたいのだそうです。コンピュータの専門知識も実はおありだとか。ただ者ではないと睨んでいた通りでした。

 それで、私も少し口をはさみ、教会に行っていることなどにも触れる機会となりました。するとご主人、高校生のときに教会に行ったことがあるという話を始めました。牧師に「人生で一番大切なことは何か」ときかれて、人に迷惑をかけないことだと答えたところ、その牧師が「人を愛することです」と言ったことを忘れられない、と。

 きっぱりと言い切ったその牧師は、キリストという岩にしっかり立っていたのでしょう。人の顔色を見てごまかすようなこともなく、聖書の言葉を権威的に語るのでもなく、偉人を看板のように持ち出すこともなく、高校生の心に響く言葉が、真正面から語られたのです。

 週に二三度はこの店で魚を買います。ほかの魚屋では買う気になれないほどです。どうしてここの魚は美味しいのか、その秘密が少し分かったような気がしました。


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炭火
2007.6

 世界最古の客船ドゥロス号がこのたび福岡に寄港し、350人のクルーのうち5人が、当教会を訪ねてくれました。言葉によらないパフォーマンスで、聖書の根本的なメッセージをまず伝え、それから礼拝では通訳を通じて、福音をストレートに語ってくれました。

 まぶしく輝く新緑が、心地よい風に揺れ動いています。創世記では、罪を犯した人間に、脅えとしても聞こえたそのざわめきが、今や福音を伝える恵みの風となって、教会にそよぎます。

 風は、聖書の世界の言葉では同時に息をも表し、また霊をも意味します。つまり、神さまの一つの姿としての聖霊は、風として伝わってくるというのです。ですからペンテコステの出来事のとき、激しい風の音が響きました。

 ドゥロス号の皆さんは、間違いなく、その風をもたらしました。私たちは、何度も拍手しました。でもそれは、目に見える人間に対してではありません。教会では、よいお話を聞いたときにも、人を賞賛する拍手はしないのです。私たちは、その背後ですばらしいプレゼントをしてくださった、神さまに向かって拍手をします。天に向けて、感謝をするばかりでした。

 別れ際「では、またいつか会いましょう」と私は一人と握手をしました。「天国でね」と付け加えると、彼は目を細くして「そのときには探しますよ」と答えてくれました。195cmもある天にも届くような高さから。


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炭火
2007.5

 たまの失敗や失言を大きく取り上げることを、「あげ足を取る」といいます。日頃うとましく思っている相手がしくじったときに、ここぞとばかりに責めるとすれば、それは「いじめ」にもつながります。とくに立場が上になればなるほど、自分の権威がそのような「いじめ」を犯していないか、自らを点検する責任が出てきます。

 子どもたちは、そもそも上に立つということの少ない存在でした。イエスさまが幼子をほめたたえたのは、社会の底辺で虐げられている立場であったことにも深く関係しています。

 聖書を読めば、自分に大きな価値があると思いこみ始めた瞬間、イエスさまに背を向けて歩き始めてしまうことが分かります。子どもたちは4月から、聖書通読を始めました。聖書の御言葉に立つ信仰を、子どもたちがリードしていきます。

 私たちはただ、十字架のイエスさまに罪を赦されたに過ぎません。まわりの様々な人にも、許されて、そこにいるわけです。それを基とした謙遜の中に生きるとき、神の力がはたらきます。神さまは、私たちを「通りよき管」として用いてくださるのです。

 間もなくペンテコステ。目に見えない聖霊という神が及ぶ今の時代のはじまりを覚えます。イエスさまの福音を外れることがないようにと、遅ればせながら、大人の私たちも、心を一つにして祈り始めました。


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炭火
2007.4

 教会学校では、学びのためのプリントに子どもたちが挑んでいます。その最後に、いつも「なぞ」を載せています。@家族の一人が出かけたままもどってきません。だれ? A部屋の掃除をタコに頼んだら、まん中は掃除してくれませんでした。なぜ? B「子ロバ系」ってなに?

 他愛もない問題です。ところがこの謎というのは、聖書に深い関係があることを、『<つまずき>のなかの哲学』という本から学びました。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる」(コリント一13:12)この「おぼろに」は、ギリシア語では「謎において」だというのです。

 そもそも謎とは何でしょう。今は何のことか意味が分からないけれども、後で答えを聞いたとき、なるほど、と合点するものです。パウロはこの手紙で、この世で私たちは謎を出されている、というのです。いずれ天において「なるほどそうだったんだ」と納得するような、謎を。

 教会学校のプリントに毎回掲げられる「なぞ」を、子どもたちは熱心に考えます。イエスさまからのメッセージも、この世で私たちは完全に知り尽くすことはできません。でも、聖書が語りかける意味を、いつかその謎が明かされるそのときに、思わず膝をたたくことができるように、求め続けようではありませんか。


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