オーストラリアのブラッドバリー選手は、8歳のとき父の指導でスピードスケートを始めました。94年の五輪で国内初の銅メダルを取り、英雄となりました。が、その年、カナダの大会で他の選手の刃が足にささり、4リットルの大出血、111針を縫いました。一昨年も転倒し、壁に激突して首の骨を折りました。「よく自分でも生きていると思う」
彼は、このソルトレイク五輪の男子ショートトラック千メートルの準々決勝で、自分を追い抜いた選手が失格となり、準決勝進出。そこでも、転倒者と失格者のために、最下位の彼が決勝進出の幸運をつかみます。
何かが起こる。決勝でもあわてずに、三位を目指して滑りました。最後の1/4周、先を行く4人が次々に転倒すると、ブラッドバリー選手がガッツポーズでゴールイン。母国の応援団も呆然とする中、南半球で冬季五輪初の金メダルを得ました。
金メダル最有力候補のアメリカ選手のスケート靴を作る会社で働く彼は、その選手に、優勝したら会社の名を叫んでくれと頼んでいましたが、自分が勝ってしまいました。「神はいつか微笑むもの。この金メダルは、1分30秒のレースの結果ではなく、この10年間の五輪にかけた努力のご褒美だと受け止めたい」
神さまから金メダルを与えられる人も、きっと、いつも先を行く者、人の栄誉を受ける者とは限らないのでしょうね。
1994年、少年グループが4人の命をリンチで奪った。いわゆる長良川事件。主犯の元少年は死刑判決を受けた。実の親のいない彼は、唯一50歳の女性にのみ心を開く。彼女の影響で、彼は聖書を読み、死刑判決後はなおさら、生まれ変わって償い方を見つけようと努力している(毎日新聞)。
2000年の佐賀の針灸師刺殺事件で懲役18年を言い渡された男性の公判で、被害者の遺族が異例の減刑嘆願書を提出した。被告と養子縁組を結んだ59歳の女性が、聖書を通じて彼を諭したうえ、遺族を何度も訪ねた誠意が伝わったのだという(西日本新聞)。
年末年始に伝わったニュース。犯罪の償いは難しいもの。被害者は、元に戻せと要求しますが、不可能なことも。では、どうすれば……。誰しも無関心でよいはずはありません。いつ、自分も加害者になるか知れないのです。
被害者が訴えずとも、罪は罪。神はご存じです。神を信じる者は、罪を自分も犯していると知っているからこそ、罪を犯した人を立ち上がらせることができるのかもしれず、また被害者を癒すことができるかもしれません。二人のクリスチャン女性の働きは私たちの旗じるしです。
このクリスマス、イスラエルの学校で、宣教師からもらった新約聖書を、教師が生徒の目の前で燃やしました。校長は苦情に詫びたが、ラビは、焼くのはよいが公開でしたのがまずかった、と裁定。
直ちに問題はイスラエル国会へ。折しもアラファト議長のクリスマス出席拒否があったため、世界中のクリスチャンを敵に回した、との追究がありました。教育省は、燃やした教師と校長を停職処分にしました。すると宣教師が悪い、と反論もあり……。
新約聖書を焼くなどけしからん、でしょうか。しかし11月、オーストラリアのセブンスデー・アドベンチスト教団系の学校60校が、子どもたちをオカルトの世界に引き込むとして、『ハリー・ポッター』を図書室の蔵書にすることを禁止しました。アメリカのミシガン州では、この本を学校から閉め出し、ペンシルベニア州やニューメキシコ州の教会では、ついに本を燃やすに至りました。
自由を感じる教育のあるところには、輝いた子どもがいます。アフガンの幼い子どもたちは、日本のテレビ局の取材に応じ、元気よく繰り返し歌っていました。「ペンは私たちの剣です。本は私たちの盾です」
今年、例年より早くクリスマスが始まったような気がします。11月の声を聞いたころから、ひいらぎにベル、赤と緑……もちちんそれは、不景気な時代の商戦のためです。
長引く不況に加えて進まぬ改革、進むのはデフレ傾向。暗い世情に少しでも活気を、という商店街の願いがそういう形になって現れました。
同時多発テロで、航空業界は大打撃だと言われていますが、ある評論家は、それ以前から航空界は危機にあった、と指摘していました。社会の電子ネット化が進んだために、会議や商談に、飛行機を使う必要がなくなってきたというのです。
いわば、無駄がなくなったのに、経済は打撃を受ける。考えてみれば、何か変です。景気がいいとは何でしょう。生活に不必要なものをどんどん買い、ゴミを多く出し、わざわざ遠距離から通勤すれば、皆が金をたくさん使うから景気がよくなるというのですから。
経済とは、英語でも節約の意味。語源は、家の管理。家とは家族・同胞のこと。共に生きる人々のことを表しています。生活に必要な物を欠く人々にこそ、今年クリスマスの恵みがありますように。
キリスト教界のさまざまな情報が「ゴスペルジャパン」というサイト(http://www.gospeljapan.com/)にあります。本やビデオなどのメディアの紹介はもちろん、クリスチャン新聞の内容、世界の動向をいち早く伝えます。
求道者には近くの教会を案内します。語り合う場もありますし、各教会の行事を書き込むカレンダーがあるのも楽しい。ホームページを売り込む場所もあって、さっそく私も登録しました。何人もの人が様子を見に来てくれました (http://www3.to/takapan)。
メールマガジンでも、牧師のメッセージや、教会学校担当者の報告など、活発な声がネット上を走っています。こうした働きは、もはや無視できないばかりでなく、今後の伝道の大きな力となっていくはずです。
実際、韓国で75万人の信徒を擁するチョー・ヨンギ牧師は、今後は大きな施設より、インターネットにお金を用いるべきだと語っています。家庭礼拝も盛んにしていくためにも。
芦屋福音教会からは、サイトからの来会の増加をはっきりと認めている報告があります。特別伝道集会に来てくださった先生の教会もきれいなホームページがあります。私たちの教会もいかがでしょうか。
9月11日夜帰宅した私は、NHKのニュース映像に、何が起こったのか、すぐには理解できませんでした。せいぜい、これは映画じゃなくて、現実なんだ、と自分に言い聞かせることくらいで。
飛行機が突っ込んでも倒れないビルは頑丈だと思っていたら、なるほど熱で鉄骨がもろくなり、ビルは自分の重みで倒壊することになりました。そこまですべて、実行者たちは計算済みであったはずです。
阪神大震災と同規模の犠牲が出ました。まことに胸が痛みます。アメリカは、国の威信をかけて怒りに身を任せようとしています。そして日本の権力者も、その中に平気で呑まれようとしています。
でも、でもです。数だけでいうなら、交通事故で死ぬ人、世界中で飢え死にしている子どもは、もっと多いのです。怒らなければならないことは、別にもあるはずなのに、正義の美名のもとにすべてが隠されようとしているのではないでしょうか。
かつて東西で対立していた世界の図式は、大きく変わりました。世界の運命は、イスラエルの動きに関係するように、今後シフトされていくようです。聖書の言葉は今も生きています。
まだ暑さが残る中にも、秋の気配を感じる心。日本人が愛してきた季節の一こまです。ところがイスラエルには、この秋という季節がほとんどないそうです。旧約聖書には、秋を意味する言葉がないのです。
半年間の乾期の後、雨が降る時期へと移る。夏と冬があるだけという気候。短い秋には、雨がまず一降り。水のしみこまぬ大地に雨が急流のごとく走っていくさまの中にのみ秋はある。
カナンの勇士シセラはその雨のためイスラエルに敗れ、エリヤは手ほどの雲からその雨を知り、裾をからげて走りました。
イエスさまのたとえも、そうした季節感の中で語られました。日本の気候が当然だという錯覚に陥ってはいけません。
しかし日本人は、この「当然だ」の罠によくはまります。靖国神社に参るのは当然、新しい歴史教科書が当然最良のものだ……と。島国でのひとりよがりは、しばしばこの「当然病」に進行します。ご用心を。
マンションのエレベータに同乗した、若い母親と幼児。男の子は、エレベータのボタンをいろいろ押したくなりました。母親は言います。「じゃあ12階でも押しときなさい」。降りた後、私は無人のエレベータが上昇するのを悲しい目で見ていました。
また、最近幼児に、車や家の鍵を持たせている姿をよく見ます。何かを手に握って安心する気持ちは、よく分かるのですが、鍵のような貴重品を持たせることは、私には信じられません。もしも紛失したら、どうするつもりでしょう。
二つの事例は、共通の根をもっているように感じました。親が子どもを制しようとしないこと。わが子さえ叱れないのは、たぶんおとなが、自身を制することができていないせいです。
夏休み、子どもの自由が成長する機会です。でも、自由には責任が伴います。それを子どもに教えることにやぶさかであってはならないと思います。
大阪池田での事件には、驚き、悲しみ、そして怒りがあふれました。直後の小郡での事件も、やるせなさが感じられてなりません。
命が軽く見られることは、今に始まったことではないにしろ、世間に漂うこのおかしな空気は、何なのでしょう。人間同士の対話が成立せず、理性のかけらも見られない。
算数や国語を教えていて感じるのは、推論と言葉の能力が、年々下がっていること。論理的に順を追って思考する忍耐がない。自分の考えをどう表現してよいのか分からないし、他人の考えを理解しようともしない。
通信機器が発達したのになぜ。いえ、携帯もメールも、互いに言いたいことを感情的にぶちまける場となっていることが多いらしい。
西武球場でホークス戦後、駅で殴り殺された人の父親の談。「憎しみよりも、この日本全体に、得体の知れない大きなものが流れているようで、それが恐ろしい。」
甘木方面に行くと、麦畑が両側に広がる道があります。逆光を受けた黄金の麦の穂は、なんともいえない美しさがあります。福岡県は、北海道に次いで小麦の生産が日本第二位。
麦秋。麦を取り入れる季節のことをいい、陰暦の四月ごろのこと。「秋」は稲を取り入れる時期を表す漢字で、重要な時を意味します。麦にとって重要な収穫は、この初夏の時期です。
「麦」は、天から授けくだされたムギを意味する漢字。下の「夂」は来ることを表します。「来」の字の方が本来麦を表すそうで、その後漢字の意味が入れ替わってしまった珍しい例です。
一粒の麦が地に落ちて、死んで豊かな実を結ぶ。キリストの姿は、まさに天から地上にくだられた麦でした。私たちは、その実として選ばれた存在だと聖書には記されています。
隠れキリシタンがいたという大刀洗地方にも、麦畑が広がります。今村天主堂もぜひ一度ご覧ください。
新緑の候。さわやかな風とともに、目にも舌にも心地よい季節となりました。しかし、どことなくうかない顔も世間には。そう、「五月病」。
1968年ごろ生まれた言葉のようです。厳しい受験を乗り越え、希望に胸を膨らませた入学からしばらくたち、何をする気にもならなくなる。勉強への興味を失ってきたうえ、連休がそれに拍車をかけます。
でもそれは、悪いこととは限りません。これでいいのかと悩む段階を経て、子どもは成長するからです。五月の明るい雰囲気に背を向けて、暗く落ち込む心をも見守り、また支えてあげたいものです。
子どもの心には不思議がいっぱい。「どうしてこんなことも分からないの」は禁句。「こんなこと」が変に分かった気になると、世の中こんなもんだと、とたんに人生を、そして人も神をもなめてかかります。畏敬という言葉を死語にしてはいけないと思うのです。
我が家の子育てで二つ、成功したかな、と思えることがあります。何でもよく食べることと、正座ができること。
リビングにある一人用のソファは、取り合って喧嘩するので、子どもは座ってはいけないことになっています。そのためテレビは床に座って見るしかありません。そのとき、なぜか正座をする。背筋をしゃんと伸ばして二人並ぶ姿は、どこか清々しい。
昔は正座が当たり前でした。食事も、学習も。しかし生活様式が変化して、正座をする機会が減りました。見かけでは椅子のほうが楽なようです。でも、子どもには楽ばかりさせてはいけません。
実際おとなでも、正座を日常しなくなったせいもあり、膝を痛める人が増加しているそうです。弱るのは肉体だけとは限りません。心の正座、していますか。