赦さなかったからなのか (2)

2021年2月6日


赦さなかったからなのか (1)

聖書を、教義として信じるという考え方がある。当たり前だと言われそうだ。宗教なのだから教義を信じないでどうする。確かにそう言われても仕方がない。だが私は必ずしもそうは思わない。聖書によると、○○は××すべきである、そういう命題を掲げて信条としてよいものなのかどうか、疑問がある。
 
3:28 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。
3:29 しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。
 
これはマルコによる福音書であるが、共観福音書は皆この辺りのことに触れている。イエスは、聖霊を冒涜することだけは赦されないと言った。逆に言えば、ここにあるように、それ以外は不問に喫すのである。罪や冒涜の言葉さえも赦される。しかし、えてして信仰の教義というものは、そのようなタイプのものである。過ちや失敗を含め、悪魔に唆されたものまで、どうにも厳しく、教義違反か教会規則違反を挙げて、人間の口から断罪することが、あまりにも多いのではないだろうか。
 
この点を鑑みて、私は、特定の命題を掲げ、それを教義として、あるいは行動規定として守らねばならない、と規則化することは、必ずしも正しい訳ではない、と考えるのだ。
 
かの赦さなかった家来の話に戻ろう。このたとえを聞くと、クリスチャンたちはどう感じるだろうか。たとえばこんなふうに思う人がいないだろうか。その家来はバカだ。ああはなりたくないね。自分はそんなことはしない。もしかすると、教会員になる前は、心を痛めて、それは自分だと思ったかもしれない人が、教会生活が長くなると、もう自分はそんなことはない、と思うようになる。その聖書箇所の意味は知っているよ。そんなふうにしてはいけないね。ああ、世の中の人はまだそんなことをしているよ。だからダメなんだ。よし、聖書をもっと教えてあげよう……。
 
私もそう思ったことがある。だから痛みと共に訴える。そうは思いたくない、と。自分だって今日、ひとを赦さなかったではないか。悪口を言ったではないか。それはまるで、クリスチャン・ビギナーのままである。それでもいい。私は、今日も昨日も、この家来のようなことをしていた、と思っている。瞬間瞬間、そうだ、と。
 
だが、それでもイエスは赦している。そこは信じている。これはどういうことなのだろうか。私の態度は、まるで支離滅裂である。もしもいくらかでも好意的に解してくださるならば、これはほんの紙一重なことかもしれない。もしかすると、私がこうして反省を絶やさないことが、その紙一重であるのかもしれない、とも思う。
 
あの家来は、何がいけなかったのか。私は彼をバカだとは言わないけれども、私はイエスの十字架により、こんなにぬくぬくと喜びの中に置かれている。「赦さなかったから」悪かったのであれば、昨日も今日も赦すことのできなかった私は、牢の中に引きずり込まれているはずである。いずれそうなるのか? そう怯える人もいるが、私はそうではないと思う。赦されている、と断言したイエスの言葉を信じるからだ。
 
ではいったい、あの家来の何がいけなかったのか。
 
それは、主人の信頼を裏切ったからではないだろうか。
 
主人が赦したのは、憐れんだからである。だが同時にそれは、このわたしの痛みを少しでも感じてくれたならば、お前も人を責めないで赦すようになってくれるのではないか。いや、それを完全に成し遂げよとは言わない。だが、せめて、赦すことのできない自分を恥じること、人を責める気持ちに途中から気がつく程度には、わたしのことを思い出してくれるのではないだろうか。そんなことを考えつつ、赦されて出ていくこの家来の後ろ姿を見送ったのではないかと想像するのである。人間だもの、完全には無理だろうと認めつつも、何かしらこちらを振り返り、私のしたことを思い出すのではないかと信頼して、送り出したのではないだろうか。
 
だが、家来はその信頼を裏切った。借金を返せと迫ったことは衝動的であり仕方がなかったかもしれない。しかし、イエスはこのように触れていた。まず、家来が赦された場面である。
 
18:26 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。
18:27 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。
 
続いて、家来が仲間を赦さなかった場面である。
 
18:29 仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。
18:30 しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。
 
同じ言葉を原文で、そのニュアンスだけ伝えると、「堪忍してくれ。すべてこれから返す」となる。仲間の時にはこの「すべて」がないだけである。かの家来は、この後にこの仲間を牢にぶちこむ。先に自分が言ったその言葉を、ある意味で信じてくれた主人との交わりを、ほぼ同じ言葉を他者から聞いたとき、思い返さなかったのである。それは、主人と自分との信頼関係を蔑ろにした、さらに言えば、最初から主人との関係なんぞ、眼中にさえなかったのである。
 
いけなかったのは、信頼を裏切ったことなのだ。主人との関係を意識しなかったことなのだ。単に行動として赦さなかったことではない。
 
自分には関係がない。自分は初心者は卒業した。この聖書に出てくる罪人はけしからんね。これじゃ神に裁かれても仕方がないよ。こんな悪いこと、よくできるよね。そんな呟きが聞こえてくる。いったい、神との間に、どんな関係が存在するのだろう。神から信頼されているという基本的なことを、知っていたとでもいうのだろうか。これが人間の罪だ。聖霊を冒涜するということだ。聖霊は、それが自分の姿だとハッと気づかせてくれようとしているのに、一切神との関係を棄て去ってしまっていたのだ。
 。
教義を立て、絶対視し、それを守らない者を規則だからと機械的に処罰するようなことを是とするような教会制度は、この信頼を裏切っているのではないか。いや、制度だけのものではない。一人ひとりが、神との関係にあることを忘れ去り、神からの信頼を蔑ろにしてしまうならば、何を知っていようと、何をしていようと、決定的にまずいのではないか。
 
また、この様子を悲しく見つめ、心を痛めつつも主人に申しつけることしかできなかったというのは、本質的に、天使のような存在の仕事ではないかと思われる。神からの信頼を無にしたことに、痛みを覚えたのだ。しかし、それは私たちであってはならないとは思わない。心を痛めたのだ。自ら苦しかったのだ。その痛みは、被害者のほうに向いてもいる。この世で不条理に痛い目に遭っている人がいたときに、その人を助ける道は閉ざされなくてよいに違いない。だから心痛めることを抑える必要はない。ただそれは、教義に反したことをチクったのではない。見渡せば、この種のチクリを正義だとして前面に出す傾向が見られるが、そうではないはずだ。



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