赦さなかったからなのか (1)
2021年2月4日
仲間を赦さない家来のたとえというのがある。マタイ18章にある。まずペトロがイエスに質問をする。自分に対して罪を犯した仲間に対しては赦さなければならないと教えてもらったが、何度くらい赦せばよいだろうか。七回も赦せばなかなかのものだと思うのですが。
イエスは、赦すのは回数制限をしないと答えた。そして、神の国ではどういうことをすることになるのか、たとえ話で答えた。
王が、家来に金を貸していた。あるとき決済をしようとするが、下手すると今でいう兆にも達するほどの借金をした家来が連れてこられる。もちろん返済などできない。呆れた主人からは、全財産没収と一家離散を命じられるが、この家来は泣き崩れ、全部返すから待ってくれと請う。主人は憐れに思い、この家来を赦し、借金を帳消しにしてやった。
命拾いをしたこの家来、解放されて市井に戻ると、ある男を見つける。家来はその男に、百万単位の金を貸していた。家来は男の首を絞めて返済を迫る。男は、今度返すからちょっと待ってくれ、と、先ほど聞いたような言葉を土下座して返すが、家来はそれを赦さず、牢屋にぶちこんだ。
これを別の仲間たちが見ていた。そして非常に心を痛め、主人に事の次第をいうなれば告げ口した。
主人は家来を呼びつけ、借金を帳消しにしたのを忘れたかと言うと、お前を私は憐れんだではないか。お前も仲間に対して憐れんでやるべきではなかったのか、と問い、その家来を牢に入れるよう引き渡したのだった。
イエスは、心から仲間を赦すことが必要だ、と話をまとめる。神もあなたがたと同様のことをするであろうから、と。
この最後のところは、神が同様のことをする、と理由づけているが、それは、弟子たちが赦さないから神も赦さない、というのではなくて、弟子たちが人を赦すならば、つまりペトロが徹底して赦すならば、神もまた徹底して赦してくださるのだという良い知らせを与えたというふうに受け止めたいと思う。イエスは脅したのではなくて、とことん赦すことの必要を告げたかったのだ、としておきたい。
また、最初は「王」と言い、次からは「主人」という語に変わっているから、これは別人なのかと一瞬戸惑うが、話の成り行きから、同じように見てよいだろうと思う。もちろん、それは神を意味していると理解してよいはずだ。
家来が首を絞めた男は、私たちと同じような人間である。ペトロが言ったことからすると、自分に対して何か悪いことをしてきた奴である。自分はその者から害を受けた、そしてそれを赦すことが、イエスの教えのひとつのキーポイントとなるのであった。これを責めず、赦すことの大切さがいま説明されたのだ。
だが、ここにはもうひとつ別の人々が登場している。
18:31 仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。
この「仲間たち」とは誰であろう。周りの人々なのか。だとすると、それは私もなりうる存在である。つまり私は、けしからん人を見つけたら、神に告げ口をするべきだということになるのだろうか。自粛警察を奨励しているということなのだろうか。どうもそうではないのではないかという気がしてならない。
また、この話から私たちは「赦さなかったことがいけない」としか受け取れないように思えたけれども、本当にそうなのだろうか。この主人は、家来が「赦さなかった」ということに憤ったのだろうか。単純に人間の心に寄せてよいとは思えないが、もし私がこの主人だったら、きっと別の感情や思いに揺り動かされて、むしろどこか悲しむのではないかというふうに感じている。
この辺りについての考えを、次の機会にお話ししてみようと思っている。
→赦さなかったからなのか (2)