共に生きる覚悟

2004年3月

 NHKスペシャルで見たことですが、都市再生のテーマの番組に興味をもちました。
 最初は、数字で都市を読むという取りかかり方に、数字で何が分かるのだろうか、という気もしましたが、数字をきっかけにして現場に赴くことは的確なことだと教えられました。
 大都市の中心部に、所得の低い層の人々が集まっているというのです。つまり、数字で所得を細かく表すと、大都市の中心部に、ぽっかりとドーナツのようにへこんだ部分ができるというわけです。
 アメリカ合衆国の、フィラデルフィアのレポートから番組は始められました。かつて独立宣言を行った、若いこの国の中でも、由緒ある町です。中心部に工場がひしめきあい活気のあった時代が、やがて工業の衰退と共に荒れ果てていきます。他方、郊外はゆったりとした土地を構え、ある地域は裕福な者でなければ住むことができないきまりとなっています。しかし、課される税金が高いため、結局このフィラデルフィアを出て行く金持ちが現れ始め、町が困難に面しているというのです。
「貧しい人を助けるために自分たちから税金を一方的に取っていくのは、まるで金持ちが罰されているみたいだ」と。
 冷たい考えだとお思いでしょうか。でも、私もその立場だったら、同じように考えたかもしれません。「もしも」などと考えること自体、失礼で不謹慎なことなのかもしれませんが。そう、たぶん今このとき、私はまさにそれをやっているのだと思います。
 番組でも、問いかけていました。どうしてこんなことになっていくのか。
 それは、所得により分かれた層が、完全に別の区域で暮らすようになっているからだ、といいます。貧困にある人と、まったく出会うこともなく、その顔が、その生活が見えない状態で考えると、なぜ自分がその人たちのために何かしなければならなくなるのか、と疑問が起こるというのです。
 ところが、相手の顔が見えてくると、何とかしてあげたいとか、少しでもできるなら、という思いに変わっていくことがあります。
 ここに、「共に生きる」ことの手応えみたいなものが感じられます。

ライン 教会 ライン

 学校でもそうです。同じクラスの中に、学習に長けた子とそうでない子とがいるとき、互いにどうしたら助け合えるかを考えるでしょう。学習できる子だって、早く皆がクリアできて先へ進むことができる方が楽しいでしょうし、おそらくそれ以前に、なんとかしようという気持ちが起こるのが普通でしょう。
 障害のある子がクラスにいれぱ、どこで障害者を見ても、自分の身近に感じることでしょう。養護学級などについても同様です。
 そうした子を、隔離することは、たしかに能率的で、より安全なのではありますが、どちらかというと、この「共に生きる」機会を奪っていくことになります。塾は、まさにそれをやっているにほかならないわけです。

ライン 教会 ライン

 教会ではどうでしょう。同じような層が集まった、仲良しグループ的な教会だと、しだいに自分たちの利益に沿った方針で動いていくことになるでしょうし、それに合わない考え方の人々を排除していくことも考えられます。実際、そんなことはよくあるように思います。
 老若男女さまざまな人が集まるから、教会っていいものです。互いに顔が見えるから、いろいろな人の立場で考えられるようになります。小さな出来事の中からその都度、こんなことが影響する人がいるのだと気づかされていきます。ますます、人間の視点なんて限られたもので、視野が狭いことを痛感させるでしょう。人間は、神のようにすべてを見渡すことなどできないのだ、と。
 好みの合う仲間どうしでなく、ときには理解できないタイプの人がいる。その人の顔を前にして、どうしてそうなのだろうと考える。あるいは尋ねる。話し合う。それはすでに、相手を排除したり切り捨てていったりすることから、自由になっています。見て見ぬふりをする過ちを避けることができるようになっています。

ライン 教会 ライン

 先ほどの番組について、再び。
 友愛という意味の町フィラデルフィア、それは聖書に出てくる町の名。黙示録にもある、神に褒められた町の名前です。以前町工場で働いていた人が、町を離れられずに今牧師としてこの町の人と共に生きていることを、番組は追いかけていました。
 ところがこの牧師の甥が、凶弾に命を奪われました。麻薬のトラブルのため、まったく関係のない彼が巻き込まれてしまったのです。生活保護を受ける貧困の中から、やっとそのバスケットボールの才能で、新しい学校に入ることが認められた直後のことでした。涙と共にゴスペルを皆で歌いつつ葬儀を行う場面が放映されていて、私はまともに見ることができませんでした。
 きれいな響きをもつ「共に生きる」という言葉ですが、人の顔が見えて、その痛みを覚えつつ共に生きるものだという、一種の覚悟みたいなものが必要になってくるのです。イエスさまは、すべての人間と共に生きて、死んで、生きてくださいました。それだけの覚悟が、あのゲッセマネの祈りだったのです。


Takapan
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