『ヨシュア』は現代に現れたキリストを描く

2003年10月

 『ヨシュア』(ジョーゼフ・F・ガーゾーン/山崎高司訳/春秋社/\2,300/2003.9)という本を読みました。こんな良い本に長い間触れられなかったのは、日本語訳がなかったためです。あるいは、私が英語の本を探し読もうとする気力がなかったせいだとも言えるでしょう。

 以下、「ホンとの本」にこの本を紹介した内容の引用をしてみましょう。


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 やられた、と思った。もし私がカトリックの信者だったら、これに近い物語をいつかどこかで作っていたかもしれない。カトリックの司祭が、健康上の理由で司祭を退いた後、それまでの心の中にある思い、エネルギーを、次々と著作の中に爆発させていったのがこの本だという。
 本を手に取ったとき、旧約聖書のヨシュアのことだろうか、という思いもあった。しかし、聖書でヨシュアという名は、特別な響きをもつ。これが新約聖書になると、ギリシア語のイエスという発音に変わっていくからである。
 アメリカの田舎町に、風変わりな男が住み着く。その名をヨシュアという。質素な暮らしを営むヨシュアのことは、村人の興味を引く。多分に、謎の人物ということで。ヨシュアは、木を扱う仕事をする。いわば大工である。興味本位からでも、そこを訪ねてきた人には誠実に応対し、質問されればなんなりと答える。来客は、宗教や教会についてヨシュアに訊いた。するとヨシュアは、今の教会のありかたを悲しむような言葉を出す。それは、聞く者の魂に響く、冷静な指摘であった。人間が人間を支配することのために教会があるとすれば悲しい。新約聖書のイエスは、そんなことをするために十字架にかかったのではない。聖書でイエスが教えたかったことは……。
 教会への苦言は、私も吐く。それは、ヨシュアもそうだ。教会を憎んでいるからではない。むしろ教会を愛しているためだ。そして、聖書は、あるいは聖書の中の神の子イエスは、どんなスピリットを伝えているかというと――という具合に、人々の質問には誠実に応対するヨシュアであった。
 だが、教会批判をしているとの噂とテレビ局の取材による話題の広まりによって、ヨシュアは、とくにカトリック組織の中枢部ににらまれるようになる。ヨシュア自身、さまざまな宗派の教会に顔を出す。プロテスタントでもカトリックでも、どこにも神はあるのだからといろいろに通っては、尋ねられるままに、宗教と神について思うところを語っていた。それがついにローマに呼び出され、そこで宗教陪審を受けることになる。
「あなた方は、人々の行動を規則でしばるのではなく、むしろ彼らを導いたり励ましたりすべきなのです。また人々があなた方の規則に従わないときに、神が不快に思われると言って脅すのは、精神的な脅迫であり、神に仕えることにはなりません。あなた方は羊飼いであり案内人ですが、人間が行動するうえでの最終的な裁き人ではないのです。裁くことができるのは神のみなのです」
 ヨシュアはこう言い、また、人々の私生活までも暴き出す教会のやり方に反論して、そうしたことはすべて神に委ねて、「イエスの教えを聞きたがっている数百万の人々に福音を伝える仕事に取りかかるべきではないでしょうか」と締めくくります。
 教会とはどうあるべきか、神は何を望んでおられるのか、ヨシュアはその点については何のためらいもなく言い放ちます。あたかも、著者が、カトリックの組織を離れた立場となって、自由に聖書のことや神のこと、教会のことを述べることができるようになったことを喜んでいるかのように。
 ヨシュアは、なにも批判をしようとしているのではない。ただ、ありのままに語っているだけだ。なぜそんなことができるのかは、この物語に与えられたヨシュアというキャラクターならではの理由によるものだが、おそらく著者は、キリストの弟子としてその十字架の贖いを信じる者一人一人が、真の共同体としての教会を築いていくことに希望を見いだし、実践していくことを願っているに違いない。誰もが、このヨシュアのようになって。それだから、サブタイトルとして、「自由と解放をもたらすひと」と表紙にも記されているのであろう。
 すでに1983年に書かれ、2002年には映画化もされているという、この『ヨシュア』に、日本語訳がなかったという理由でようやく今初めて出会った私は、幸運ではあったが、どこか悔しくも感じる。これは日本でももっと読まれてしかるべきだ。いや、読まれなければならない。


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 現代にキリストが現れたならば、こんなふうに登場するのかもしれない、という想像を発展させた物語。ただ、メシアとしての使命感をそこに含んだわけではなく、当然十字架に架かるわけではありません。自ら教えを広めようという生き方をするのではなく、ただ質問されるから仕方なしに応対して宗教について話すうちに、騒ぎが大きくなるといった展開になっています。もしかするとかつてのキリストにしても、そのような姿ではなかったのか、という作者の解釈がそこに混じっているのかもしれません。
 でもそんな詮索はしないでおきましょう。私はこの空想の物語の中に、たしかな教会批判を見ました。物語の中で、はっきりと、これは批判ではないとヨシュアに言わせていますが、批判という言葉は、私が繰り返し指摘しているように、相手の悪口を言うという意味は本来なく、分析するとか吟味するとかいう意味が本来ですから、教会のあり方をよく検討して考え直してみるという形であれば、この小説そのものは十分に批判をなしていることになると思います。
 この姿勢は、このコーナー「沈黙の声」とポリシーが一致します。
 ヨシュアにしても、教会を、聖書の中のイエスがファリサイ派を糾弾しているようには非難しません。さまざまな派の教会の礼拝を廻って、その中で神が礼拝されていることについては素直に喜びます。特定のどの教会が良いとか悪いとかは問題にしません。

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 このように語っていると、まるで私が現代のキリストの役割を果たしているかのように思い上がっているのではないか、というふうに聞こえるかもしれません。もちろん私にはそんなつもりもありません。私がキリストを代弁するなど、できるわけがありません。――でも、ある意味で、それはしてよいこと、あるいは、しなければならないことでもあるわけです。
 クリスチャンという呼び方は、キリストにつく者、という意味でしょう。キリストのファンでもあるし、キリストに属する者、という堅い言い方もできるでしょう。クリスチャンという立場を宣言するならば、それは、キリストのことを語らなければならないわけです。
「もし、現代にキリストが現れたらどのような語り方をするだろうか」
 そう考えるのは、クリスチャンにとって、ある意味で当然のことでもあるのです。

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 聖書にはなるほどそう書いてある。だが、歴史は流れている。今の時代はこのような意味にとらなければならない。……そういう場面はあります。社会機構が変わったために、パウロが説明してあるとおりの家族や福祉の考え方ですべてが運用できるのではありません。それは本当でしょう。ですが、救いそのもの、福音とは何かという考えにおいてまで、そのように現代のものに変わらなければならないのかどうかは、疑問です。もはやそうなると、キリストの教えとは言えなくなる可能性さえあるでしょう。
『ヨシュア』の実験は、一つの試みでしかないかもしれません。でも、私たちは絶えず気にしています。もしキリストだったらどう語るだろうか。もしキリストがここにいたらどう行動するだろうか。私はキリストの弟子として、どうすればキリストが目を細めて見てくれるだろうか。
 これを忘れてよいはずはない、というのが、私の考えです。
 はたしてそうできているかどうか、私に詰問しないでください。それは、誰にとっても課題であるでしょうから。


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 せめて、この『ヨシュア』が提示しているテーマについては、さしあたり厳粛にとらえ、改善していきたいものです。それは、「教会」が組織として偉くなり、ファリサイ派の役割を果たすようになっている、ということです。
 かつてキリストが救いの手をさしのべた、ファリサイ派と社会にはじき出された人々は、現代では教会の中というよりも、教会の外にあふれているかもしれません。皮肉なことですが、それはことさらに奇異なことを言っているようには思えなくなるのが、私には怖い気もします。自分もまた、そうなっていないかと……。
 教会が、そして教会にいる一人一人が、悔い改めをしていないかもしれない!


Takapan
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