見えないものを大切にしていく教会でありたい

2003年2月

 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。(ヘブライ人への手紙11:1,新共同訳聖書-日本聖書協会/以下同書)

 有名な箇所であり、キリストを信じる者は誰しも、「見えない」という部分に注目します(見えないものに注目するということ自体ユニーク?)。
 星の王子様の言葉を引用するまでもなく、「大切なものはいつも目に見えない」ものだと言われます。そして、現実にそれとは反対の原理で世の中が、そして私たちが動かされているかということも、押さえておかなければならないものですが、私たちはやはり、子どもたちに何かを教えようとするときに、「見えないものの方が大切だ」と言いたくなる気持ちが自分の中にあることを覚えます。
 星の王子様にしても、聖書の風土・スピリットの中に生まれた物語でしょうから、聖書にあるこの「見えない」ものについて考えることが大切であるという考え方は重要です。今回は、このことについて理解を深めていきましょう。

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 そもそも私たちは、「希望」というものに対しても、誤解しています。「希望がない」という言い方をしますが、希望というのは存在するかしないかというはかり方ができるものではなく、せいぜい、もてるかもてないか、しか選択できないものでしょう。今ここには「ない」ことについてしか、希望はもつことができないのですから。
 パウロは、キリストを信じて以来さまざまな苦難に遭う中で、希望をもつしか生きる力がないのだ、と思ったかもしれません。パウロはつねに、現状に悲嘆せず将来に期待していく眼差しをもっているかのようです。

 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。(ローマの信徒への手紙8:24-25)

 パウロはまた、もっと積極的に、キリストを信じる者は、見えないものにこそ目を注いでいくものだという宣言をしています。

 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。(コリントの信徒への手紙二4:18)

 きれい事であるようにも見えますが、救いとか希望とかいうことは、今ここに誰もが認める形で転がっているものではない、と考えるなら、これはこれで誰もがうなずかなければならない性質のものではないでしょうか。

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 車を運転しているとき、ふと思います。狭い鉄の箱の中で、ドライバーが同乗者すべての生死の鍵を握っているのではないか、と。つまりある意味でドライバーは全員の運命を決定する存在であり、場合によってはそれを「神」のようだと見なすことさえできるでしょう。
 車で街を走っていると、さまざまな風景に出くわします。
 たとえば、ウィンカー。出さない車が多くあります。対車でも出さないものがありますが、そこに人しかいなかったら、出さない率が高いようです。歩行者は、身を守るために、出てくる車がどちらへ曲がるのか、ウィンカーを見ているものです。ですが、出さない車が少なくありません。運転者自身は自分がどちらに曲がるか知っていますが、それを知らせようとしないのです。知らせる義務があることは明確であるのに、です。
 店の前に「ちょっと」駐車する人がいます。たとえ横に駐車場がちゃんとあっても、です。役場の駐車場に止めず、役場前の道路に「ちょっと」留める。自分では、ちょっとの間だと認識していますが、その間、何十台、何百台という車が通過していきます。歩行者を、車を避けて道路にはみ出て歩くように強いています。そういえば、歩道に乗せて留める車も、どこにでも見かけます。車椅子が通れないことは明らかです。歩道に立ち並ぶ自転車もそうでしょう。
「車椅子なんて、自分が留めたときには通っていなかった」と、正当性を主張する人がいます。通る可能性すらないかのように。
 弱い立場の人の困惑を想像できないのかな、という気がします。スーパーマーケットの駐車場でも、車が多いときならまだしも、いくらでもスペースが空いているときにすら、入り口付近の駐車禁止とわざわざ店が記している場所に平気で留めている人がいます。実際、そこに留められると、入ったり出たりする車の進行に差し支えが出ますし、そこを通行する人にとってもよけいな危険を背負い込むことになるのですが、留めている人にはそういう点への想像力がありません。

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 電車の中にも、こういう例は無数にあります。
 横長の座席に、半人分のスペースを空けて座る。女性が男性にくっついて座るのを避けるというのはまだ分かるのですが、必ずしもそういう理由でなく、そうなっています。私はというと、できるだけ詰めるようにしています。今立っている人がいなくても、です。次の駅で人がそこに気持ちよく座れるように、です。
 二人がけの椅子の、窓側に詰めればよいものを、通路側に座って窓側を空けているというのもよく見ます。後から来た人が「詰めて下さい」とは言いにくいですし、窓側に入り込むのも「すみません」などと断らなければなりませんから、弱気な人は、そこに席が空いていても座ることができません。
 電車の中で携帯電話を使う人が多すぎます。東京は、いくらか少ないと聞いています。福岡は、多いです。私は、その点に田舎臭さを感じます。都会というのは、人と人との交流が浅い面がある代わりに、ルールを守ることで互いの権利を支えることになっている世界であると感じるようになりました。人間同士の交流の濃い田舎では、これくらい、という甘え(それは悪い意味とは限りませんよ)があるから、多少のわがままも許してもらおうとすることがあります。ただ、携帯電話の場合は、人間同士の交流が薄い場で甘えた(これは少々悪い意味です)ことをしている点に問題があります。
「喋ってないよ。メールだからいい」と思って、みんな親指でカチカチやっています。そうでしょうか。医療器具(たとえばペースメーカー)に携帯電話の電磁波が影響を与えるというデータもありますから、22pが云々とかいう距離に関係なく、何かが起こる可能性は考えられませんか。電車の車両の中で何人も電磁波を出すと、反射に反射を繰り返して、人体に危険を及ぼすほどの数値の電磁波の中に他の乗客も晒されているということは、考えられませんか。「それはどこそこが安全基準を満たしていると言っている」と、都合のよいことだけを信じていませんか。それでほかの人の不安を和らげたことになるのでしょうか。する側の理論で、害を受ける側の心配は解決されるのでしょうか。
 まして、座っている乗客の頭の横で携帯電話を使うというのは、一番電磁波が強い場所に他人の頭を置いているという点で、私はほとんど犯罪だと理解しています。そして実際、私は電磁波の飛び交う車両内では、気分が悪くなります。気のせいかもしれませんが、そういう人はほかにもいると聞いています。

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 駅の風景にもいろいろあります。
 ホームでタバコを吸う。風に乗って、煙が流れていく。遠くで咳き込んでいる人がいても、吸っている当人は気づかないし、気づこうともしません。喘息で苦しんでいる人などは、自分の近くにはいるはずがないと思っています。ある意味で、それも強い信仰なのかもしれません。はたして、それは妥当性があるでしょうか。
 障害者用のトイレをわざわざ使う人がいます。ほかのが空いていてもです。今車椅子の人が来ているわけではないから、というのがその理由かもしれません。私は、できるだけそこは空けておくようにしています。もし足の悪いひとが今来たら、と思うからですし、それに、たとえ見た目には健常者であっても、足が痛い人、つかまって用を足したいと思っているような人がそこにいないとも限らないからです。明らかに障害者用でなければ、という見た目でなく、もしかしたら必要な人がいるかも、とまず考えるのです。
 障害者のために使われたらいいなと思えるエレベータについては、私はまず使いません。自分が歩ける以上、わざわざそうした人が必要としているエレベータを使う気にはなれません。
 マンションのエレベータでも、ボタンを二つ押して、2機とも呼び出して平気な人かいます。私はその神経が理解できません。自分は一つにしか乗らないはずです。どうして、ほかに乗りたい人がいるかもしれないという想像ができないのでしょうか。

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 さて、こんな例を探せば何MB分でも文が書けそうですが、肝腎の教会において、これはどう考えていけばよいのでしょうか。
 目の前の兄弟を愛することの必要性が、たとえばヨハネの手紙には何度も記してあります。偉そうなことばかり言って、目の前の現実の人に対して何もしないというのはよろしくない――分かりやすい説明です。ヤコブはこの点を強調して、ルターの軽蔑を買いました。しかし、ある意味でそれは当たり前すぎることであり、教会に集う人は、互いに「ほっとする」ひとときを受け、また与えることが大切だと考えています。
 祈りにしても、抽象的な祈りもまた必要ですが、目の前の具体的な人・事柄のために祈るということは何よりも大切だとされています。そこにある問題のために具体的に祈ることは、信仰が必要ですし、エネルギーも使います。「人々が救われますように」と祈るのは、ある意味で簡単ですが、「○○さんが救われますように」と祈ると、プレッシャーがかかります。
 しかし、それにも増して、「見えないもののために祈る」ことに、今回注目してみたいと思っています。あまりに見える人間のために祈ることばかり考えていると、人の顔色を見ることに終始してしまうこともあるかもしれませんし、御利益的にのみ考えていくようになるかもしれません。神の経綸、神の意志などへ目を向けるという意味もあるでしょうが、ここでいう「見えないもの」とは、地上のことでありながら、今ここにないもののことをいいます。
 こんな伝道会をしても誰も来ないだろうと予想できても、「今教会に来ようと思って迷っている人」がいるかもしれません。車椅子用トイレがまだなくても構わないと思っている教会に、「行きたいと願う車椅子の人」が近くにいるかもしれません。ワーシップのためにドラムスを叩く教会の横で、「うるさいと耳をふさいでいる人」がいるかもしれません。表向きにこやかに笑っていても、「死にたいくらいの悩みを抱えている人」がいるかもしれません。
 考えると、きりがありません。気にしすぎると、ノイローゼになりそうです。
 おおらかに、人を信用することは必要でしょう。けれども、「これくらいいいさ」という思いが起こったとき、少し立ち止まってみませんか。その「これくらい」のことをやめたとき、今まで見えなかった新しい世界が開かれていくということが、ありはしないか、と。


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