日本的キリスト教という現象

2009年1月

『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』という本を読みました。マーク・R・マリンズという、日本に住む研究者による著作です。トランスビューという出版社から3990円で販売されており、2005年5月に発行されています。
 これは、私にとり決して安くない本なので、買おうかどうかだいぶ迷っていたのですが、このたび思い切って購入したのです。
 
 日本における宣教というものを考えるとき、たしかに現場の牧師の方々の経験や感じたことは尊重できますが、いわばそれは、当事者の一方的な視点です。たとえば相撲協会が内部問題について、内部のしきたりに従ってのみ対策を練っているのと同じようなことになります。相撲を愛し相撲を理解する外部の人の視点というものを必要として、横綱審議委員会を発足させたり、今また大きく変わろうとしていたりするのと同様に、日本の宣教問題についても、それをよく理解し、なおかつ外部の知識者の視点というものは、貴重なものだと思うのです。
 
 この本は、その一つの視点であると思っています。内村鑑三を根底に置いて、そこに見られたひとつの姿が、日本人のキリスト教がどういうものであるかを方向付けているとしています。その結論が正しいのかどうかはまた別として、訳者の言葉でいうと「土着」のキリスト教が日本人に受け容れられるものとしての役割を担ったこと、しかしまた、現在それも世代的な問題もあり行き詰まっていること、そうした点が指摘されています。
 
 日本人は、欧米の宣教師により明治期以降にキリスト教を伝えられたと言えるが、どうも欧米の鋳型にそのまま入れられるという形で受容し続けることができなくなった。そこで、日本人に受け容れられやすい形にキリスト教を解釈して、伝えようとする、日本人的な聖書理解に基づくグループが登場した。そういう視点で本が綴られています。
 思えばかつても歴史上、とくにカトリックはそうでしたが、聖書を広めるにあたり、その土地の伝説や宗教地盤を適宜認め利用して、そこにおいて受け容れられやすいものを尊重することがありました。聖母への傾倒もそのひとつであると思われます。クリスマスの祝い方も、ケルトをはじめ、実に土着的なものが表に出てきてしまっています。
 純粋に、ユダヤの聖書理解のままに広まっているわけではないでしょう。
 
 日本人には日本人の福音がある、と時折言われます。しかしそれは、一歩踏み外せば、聖書から外れたものを教義とする、「異端」のような存在になってしまいます。この本に紹介された多くの団体は、すでに異端視されているものも含め、その境界線上にあるようなところばかりです。
 しかし、著者は、これらが異端である、とするドグマを掲げようとしているのではありません。むしろ、昨今のアジアにおける宣教拡大など、全世界的な傾向として、今はその土着的な宣教こそが主流なのではないか、という見方を提示しているように見えます。それを、規定の教義に照合してこの本で正統か異端か片を付けよう、などというのではなくて、現象として比較文化的に論じているというわけです。却って、欧米の教会が、そのような立場から学ぶところが大きいのではないか、とも言っているようにも見えます。
 
 たしかに、「聖書を神の言葉として信じる」という福音主義の立場は、必要で大切な基本線でしょう。しかし、そのように自分では思っていながらも、知らず識らずいかにも日本独特の「土着」のあり方を「聖書の伝統」として強調しすぎてしまうところに、異端への罠が仕掛けられています。この本には、追悼礼拝についての日本の教会の独自性や執着性が例として挙げられています。日本人の死生観がそこに反映されているというのです。それは、聖書の一定の箇所を、欧米の教会が黙殺していた点を見出すという、聖書理解の上でも良い点がありましたが、だからといってそれこそが福音の真実だと強調しすぎてよいのかどうかは未定です。
 
 イギリスでは、「神はいない」という広告を記したバスが走り始めました。これは教会側のアピールに対する反対の立場の行動ではありますが、かなり大きく日本にも伝えられていますから、キリスト教についてのイメージはあまりよくないふうにも思われます。
 日本国内でも、ご存じのとおり、牧師やそのような立場にある人が、犯罪を起こしたことが、たとえ一般にあまり広まっていないようでも、ネットの中できちんと伝えられています。聖書に反することに媚を売る必要はありませんが、従来のその追悼礼拝のように、日本人の心を大切にすることも受け容れてきた歴史があるわけですから、はたして今どういう形の変化がありうるのかどうか、見つめて舵を取っていく必要があろうかと思うのです。
 
 自分が聞き知ったキリスト教の教義がすべてであるのではありません。聖書は、つねにその時代や環境に応じて解釈し直されています。すでに、路傍伝道などという方策が奇異に見えるような時代変化も遂げていますから、とくに今後の若い世代や子どもたちの未来にどう関わっていくか、思索と祈りが求められます。
 自分だけが幸せになりたい、ということが露骨に現れ、なおかつ依然として本当の自分というものを探し続けているような、スピリチュアルに染まっているような空気の中で、何を伝え、私たちがどう生きていくのか、考え直す分岐点にあるような気がしてなりません。


Takapan
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