ダ・ヴィンチ・コードに対してどうするか

2006年6月

 たかがダ・ヴィンチ・コードという、商業映画ではあります。これをとやかく言うことが、杞憂であれば、一番いいとは思います。
 しかし、イギリスでは、すでにこの小説に触れた者の半分以上の人が、キリストに子どもがいたということをむしろ真実だと受け止めるようになっている、というデータすら耳にしました。すでに礼拝出席者が10人に1人以下と言われるイギリスではありますが、聖書が生活の地盤となっている点では否定しようのないイギリスにおいて、そうなのです。宗教的地盤のない日本では、なおさらのことではないでしょうか。いや、宗教的に問題とされないほどにまで、聖書は、どうでもよいものとして、無視されているという点こそがまた、日本での哀しさそのものではないのでしょうか。
 
 スキャンダラスなものにすれば、話題性が増します。話題に上ると、見てみたいと思うのが人情で、そこをうまく扱えば、小説も映画も大ヒットとなるでしょう。商業戦略の一つとして、反発を買えばむしろ成功というのも、嘘ではありません。
 世界各地のキリスト教会が、この映画に懸念を示したということは、興行的にはまんまと大もうけができるという保証を得たようなもので、関係者はほくほく顔なのでしょう。
 中には「おとな」も多く、「たかがファクションではないか」と、余裕をもつ人もいます。信徒であっても、エンターテインメントとして映画を楽しむのは自由であるし、作り話だけど娯楽として面白いね、と楽しむことも、可能です。そして映画製作者は、そちらの方を強調しています。
 そうした「おとな」とは、自分の地盤がしっかりしており、揺らぐことがなく、そこに影響を受けないようなものをもっている人のことです。
 
 けれども、映画評などを垣間見ると、しばしばこの言葉が見られます。「知的好奇心を満たす」と。
 初めからでたらめな(と一応言っておきます)アダルトものに描かれたところで、それは問題にならないでしょう。お笑いの舞台で出た言葉について、それほど責任を問われることもありますまい。それはそういうもの、という場面で持ち出されたのですから、漫才師が言っていたことをすっかり本当のことと信用してしまうことは、「おとな」にはないかもしれません。
 しかし、かの映画では、その「おとな」でさえ、いえむしろ、聖書や歴史になまじ知識があると、それよりやや高い知的要求を突きつけてくる映画であるゆえに、信用していく公算が大きいという、心理的事実が組み込まれている点を、見逃してはなりません。
 この映画ないし小説へたに「知的」な素材を取り入れて、知的好奇心を満足させるようにしているため、どんなに言い訳をしても、虚偽を信用させるだけの条件を整えてしまっているのです。
 
 5月31日の西日本新聞の投書欄に、その知性に誘惑のある年配の方が、ダ・ヴィンチ・コードの映画を観ての意見が載っていました。
 この人は、「ナグ・ハマディ文書」の名まで持ちだして、「聖書にないキリストの姿が明らかになってきている」と書いています。そして、釈迦に妻子がいたという事実を挙げた後、世界の人々は四大聖人の1人としてキリストを尊敬しているのだから、「聖書に残っているその言葉は光と愛に満ちており、私の心を打つ。それは妻子の有無を超えたものである」と結んでいました。
 一見穏当に見えるような意見ですが、この投書を読んだ人々はどう感じるでしょうか。世間で、キリストに妻子がいたという映画が話題になっており、ミステリーやアクションとしても面白い。欧米では(実はもちろんアジアでも)それに対して教会が抵抗しているようだが、日本ではそうした反対は聞かない。本当かなと思う反面、本当ではない、などと言うほどの信念も自分にあるわけではない。おっと、新聞にはこんな意見が出ているぞ。新聞社がちゃんと載せたのだから、大嘘なのではないだろう。やっぱりキリストに妻子がいたという可能性はかなりあるんだ。そりゃそうかもしれないな……。
 かくして、教会というところは、そうした真実の可能性の声に対して耳を塞いで、自分たちだけの信じることをひたすら邁進している、おめでたい人々という印象で見られてしまうことになりかねません。ただでさえ、そういう部分があるのに。
 
 これが、さらに経験のない子どもたちに対しては、影響が大きいはずです。かつて大人もだが、子どもたちが、ユリ・ゲラーにのめりこんだことは、偶然ではないのです。
 我が家の中学生にしても、「ええっ」みたいに特集番組を見ていたようです。もちろん、それは違う、というふうには思えても、心の隅に、「そうかもしれないな」という陰が生まれれば、将来どうなるか分かりません。これでその過激な説を多く耳にする機会が生まれたりしたら、そしてそのとき、教会に対して何か悪い印象をたまたま持っていたとしたら、「やっぱり、あちらのほうが本当だったんだ」というふうに傾いていくことは、十分考えられます。
 人間とは、そしてとくに若い精神は、そのようなものです。そんなにたくさん「おとな」がいるわけではありません。
 いくつかの歴史が、そうしたことを、教えているではありませんか。
 
 日本では、教会が抵抗を始めると、たかがフィクションじゃないか、「おとな」にならなきゃ、というふうに制されるかもしれません。それを見越してか、この映画に対して日本の教会は、欧米ほどには問題にしていないように思います。
 さほど悪影響もないのではないか、という構えをしているように見えます。
 まるで、それをなすべきことの一つとも認識していないようにさえ見えます。
 でも、そうなのでしょうか。
 
 たしかに、大騒ぎをすれば敵の思うつぼ、というのもあります。大袈裟に対処しないのが寛容であり、大人である、というのも、一面の真理でしょう。けれども、その姿勢は、いつも正しいと言えるでしょうか。教会は、これまでそういう生き方をしてきて、よいことがあったでしょうか。
 社会の矛盾に目を向けて闘ってきた、日本のキリスト教会の先人たちは、この事態を見過ごすでしょうか。
 教会は、惑わされていく子どもたちをうすうす感じていながら、まあ大丈夫だろう、と楽観しているような態度をもつことが、ベストだと断言できるでしょうか。
 
 どうせ一時の映画に過ぎません。映画をこきおろすべく熱くなるのが得策だとは思えません。でも、私はもっと、何かきちんと発言していくべきではないか、と考えます。
 よく言うのですが、「狭き門」のような誤った言葉の使われ方について、正していくことは、やろうと思えばできるのです。本願寺がそれをやり、「他力本願」の正しい意味を世の中に提示していることに、成功しているのですから。
 だいぶ昔の話ですが、懺悔をギャグに使っていた人気テレビ番組がありました。あれも「おとな」の寛容で認めていたのでしょうか。いえ、今も福岡のラジオ局で、懺悔を下ネタに使っているコーナーがあるのです。
 YMCAのヒット曲が、ゲイによるものとして人気が出た、あるいは最近にもまたゲイを売り物にする芸人(本人はゲイではないという芸である点は見事かもしれない)に使われたことも、小さなことのようですが、キリスト教として何か説明が可能だったかもしれません。
 今回は、「知的好奇心」を満たすものであるだけに、もっと厄介かもしれません。知的を売り物にしているために広まっている誤った説には、知的に対処しておかないと、ますます教会は人々の意識から遠い――ひきこもった――存在となっていくかもしれません。
 これを機会に伝道をするのだ、と立ち上がった人々もいます。むしろこの話題性を逆手にとり、そうではなくて……というわけです。これが知的になされれば、確かに力になります。手をこまねいているよりは、よほど、私たちにできることをしている、というふうに見えてうれしく思います。
 
 繰り返しますが、日本人だけではないでしょうが、超能力もどきについて、人々の心に巣くったものは、小さくはありません。それらのトリックがようやく良心的な大学教授などによって暴かれ広められていますが、スプーン曲げを完全否定する人は、実はそれほど多くはないはずです。
 地下鉄サリン事件の背景の一つには、間違いなくこれがありました。
 
 子どもたちは、ハリー・ポッターを読み、あるいは映画を観ても、自分が空を飛べるというふうには、あまり考えないでしょう。
 でも、これとは次元の違うことが起こっています。表現の自由ゆえに作品の発表そのものを議論することは、自分で自分の首を絞めることにもなりかねませんし、そうしたことを問題としているわけではありません。制作者側は、それを盾にすることが多いのですが、そうではありません。
 イギリスは、王家もスキャンダルの対象となります。しかし、日本では、天皇家のスキャンダルを表現することは、今のところありません。その日本で、販促のためもあって、特集番組まで様々に流されるキリストの(嘘の)スキャンダルは、知識のない人々に、取り返しのつかない刻印を押してしまう可能性が、低くないと思うのです。
 せめて、対置的に、聖書は何であるかという説明を示さなければ……。
 たとえば、新聞の意見広告でもいいし、テレビのスポット広告で頻繁に流すことでもいい。そんな費用が出ないという言い訳は、ここではなしにしましょう。何かをするつもりがあるのか、ないのか、ということが問題です。
 
 素朴に聖書を信じている、教会の信徒への影響は、小さいかもしれません。しかし、聖書について深く学べば、逆に、ああいう説もあるということ、様々な文書もある、ということで惑わされる危険に遭います。
 このように、聖書やその背景について知的に探求する人と、そもそも聖書など全く読んだことのないような人との、心の中に何かが打ち込まれていきます。
 それどころか、素朴に信じていても、子どもたちの心はまだ軟らかいので、そして反抗期に入ってきたような青年たちの心の中にも、大きな力が及ぶ可能性があります。
 それを黙して見守っていてよい、というふうには、私は思えない気持ちです。



Takapan
沈黙の声にもどります

たかぱんワイドのトップページにもどります