パワー・フォー・リビングの功罪

2007年3月

 クリスチャン新聞に、『パワー・フォー・リビング』(Power For Living)が評論してありました。それには功と罪があった、というタイトルです。

 この伝道の仕方には、特徴がありました。その主体の正体が隠されていたことです。神のことを伝道しているようだということは十分臭わせながら、その主体がはっきりしない。たとえばインターネットで調べても、その主体は秘密めいたものとしてしか認識されていないことが分かる。

 となると、多くの人が「怪しい」と感じるのは事実です。カルト宗教が、殺人をも正当化しているという話は、記憶に新しいものです。また、合同結婚式などという怪しい騒がれ方をした統一協会は、有名タレントを広告塔に置きました。そのことからも、今回の『パワー・フォー・リビング』が、何人もの有名人を広告に使ったことに、警戒を抱かせるには十分でした。

 

「キャンペーンの目的や財団の信仰的立場などを隠すことで、クリスチャンの間にまで「怪しい団体では?」「カルトかもしれない」などと警戒を招いてしまった」と、クリスチャン新聞は告げています。

 クリスチャン新聞は、「自分たちの立場や正体を明かさないというのはいただけない」として、「この財団が日本の教会やクリスチャンにきちんと自己開示し、連携をとるつもりが初めからないこと」が、問題の根本であることを言います。それは「旧タイプのアメリカの伝道センス」であるのだとして、「日本の教会の声に耳を貸して連携協力する謙虚さを持ち合わせていれば、これほどの巨大キャンペーンをもっと効果的に展開できたのでは」と疑問を付しています。

 

 

 ところが、このキャンペーンは、日本人のキリスト者の協力を当然受けながら行っていたわけですから、その協力した日本人のキリスト教会などからも、意見が挙がってきます。

 神の名を出すことを、放送局が許してくれない、という根本的な理由がありました。また、たとえCMでそれを明かさなくても、キャンペーン中に、「これはキリスト教の伝道なのです」と発表してしまうと、結果的にCMがキリスト教のものだということを明らかにしてしまいますので、そのことでもしも放送局がストップをかけてくるようなことがあってはならない、という悩みもありました。

 ドイツでも、放送は禁止にされているそうなので、宗教に関して一定の秩序を設けること自体は、非難すべきことではありません。

 かくして、関係者の間では、箝口令が敷かれていたわけです。

 

 関係したキリスト教会の伝道者たちは、その放送期間が終了した時点で、説明をすることにしました。もちろん、怪しんでいたけれども理解をまず示してくれるであろう、キリスト教の関係者に対してという形にしました。

「ただ神に栄光を帰し、個人に栄光を帰すことを嫌うという方針のため、『パワー…』 は宣伝しても団体の宣伝はしない。また寄付は拒否し、書籍は無料で配布する」のは、自らに栄光を帰すことがあってはならないという、財団の基本姿勢を貫くためのものでした。

「メディアの広告では宗教的な内容が制限されるため、結果としてメッセージが伝わりにくくなってしまった」ことは、たしかに惜しまれるべき問題である、と言います。

 

 ところでこのキャンペーン、実は申し込みは、それほど多くなかったように聞いています。実数の発表などはありませんので、不明ですが、やはり個人情報を怪しむなどのこともあってか、あるいはそもそもキリスト教への関心が低いからか、コールセンターへの連絡は、期待したほどにはなかったといいます。

 財団あるいはそれの依頼を受けた日本の伝道者たちは、日本にある一般のキリスト教会への配布を始めました。中には、4万冊を求めた教会もあったといいます。

 今後は、各教会でこの書物が使われることになります。テレビCMや広告などでこの本を宣伝することは、もうないそうです。

 

『パワー…』はこれまで17カ国で配布されているそうです。

 日本の前にはアジアで初めてタイで配布され、200万部以上の注文があったということです。

「もっと日本にあったやり方はなかったのか」

 そんな声がクリスチャンの間にもありました。

 今回のキャンペーンは財団側からのただの「プレゼント」としてのものであったために、やり方は財団側に委ねられていたそうです。今後は、これを未信者に教会が伝える番だ、というのです。

 

 

 クリスチャン新聞の論評は、かなり厳しいものでした。

 しかし、詳しく論ずるつもりは私にはありませんが、報道への配慮をナンセンス視するような、クリスチャン新聞の言い方には賛同できませんし、アメリカの古い伝道のスタイルに過ぎないと一蹴することも、私にはできません。

 クリスチャン新聞は、要するに、日本の教会にもっと協力を願い、連携する謙虚さが、キャンペーンにはなかった、と強く主張しているのですが、それはまるで、自分の縄張りに入り込まれた悔しさのように、聞こえなくもありません。

 

 では、確認したいのですが、国内のキリスト教伝道団体が、これまでに何ができたのでしょうか。それぞれの派がなかなか一緒に活動をすることができず、互いに自分たちはこのようにしたい、ということでまとまりがつかないのではないでしょうか。今回の『パワー・フォー・リビング』のようなパワーは、持ち合わせていませんでした。 

 ○○ミッション、などという大会もありました。しかし、結局、教会に通う信徒の中で盛り上がった、という程度ではなかったでしょうか。それまでキリスト教を知らなかった人に、大きな関心を寄せさせることができたものが、あったでしょうか。

 あるとすれば、星野富弘さんのカレンダーであるとか、三浦綾子さんの小説のドラマ化とか、逆にまた、ダ・ヴィンチ・コードのような、スキャンダル的娯楽映画ではなかったでしょうか。

 

 

 実は、私はこの『パワー・フォー・リビング』を、すぐに注文しました。届くのに時間がかかりましたが、たしかに届きました。

 読みやすかったのです。

 それは、私が京都の教会で聞き慣れたメッセージに近いものでした。私にとっては、信仰を養った教会で語られることと、大いに重なるものでしたし、口調もまた、それに近いものでした。

 懐かしい、というと語弊がありますが、信仰の原点に触れるような思いで読みました。違和感はとくにありませんでした。

 いわゆる「福音派」と呼ばれるグループのメッセージに慣れた人に対しては、問題なく読んでもらえる内容だと思います。それは、特に偏ったものではない、というふうに考えてもよろしいかと思います。聖書そのものから自分が変えられていくという、福音の原点を強調するというふうに捉えることが可能である、と。

 

 そこで、この『パワー・フォー・リビング』を伝道用に使うという声を聞いて、首をかしげるに至りました。

 そもそも、日本の教会が、これを「タダだから」という理由でもらい受けて、キリスト教の伝道に用いるというのは、何を意味するのでしょうか。それは、下手をすると、自分たちで伝道用のトラクトも作成できない、貧しい状況を露呈することになるかもしれません。また、財団をどこか非難しつつもその本を配るということは、つまりは財団の考えを広めることに手を貸すという矛盾があるのではないでしょうか。

 もっと、その地域に合ったものを、その教会の持ち味を活かしながら、伝道の道具として用いていく知恵があるはずなのに、安易に、「もったいないから」みたいな感覚で、財団の伝えたいことをそのまま引き受けるということで右へ倣え、というふうにして、よいのでしょうか。

 

 むしろこの『パワー・フォー・リビング』のキャンペーンに「チャレンジを受けて」(教会用語でしょうか、こういう表現があるのです)、じゃあ自分たちはこんなふうにして聖書を伝えるぞ、と立ち上がるような、気概が、必要なのではないでしょうか。

 

 

 もう一つ、大切な部分に触れておきます。

 この書物が、アメリカのアーサー・S・デモス氏が感銘したということで、人にも広めようとしたわけで、さらにそれを読んだ多くの人が教会に導かれたという背景をもつのは確かでしょう。

 しかし、その「デモス氏」ならびに「多くの人」にはあって、日本の一般の人々にはないものがあります。それは、そもそも彼らの場合は、生活の背景にキリスト教思想や文化があって、いつもそれに触れていながら、自分の問題として聖書の問いかけを受け止めていない、という段階の人が大勢いるという状況にあります。それが、「これはあなた自身の人生を変える問題ですよ」というメッセージを受けて、「そんな意味だったんだ」と気づいて、キリストに還っていくような図式が成立します。しかし、日本には、それがありません。

 

 お分かりだと思いますが、これは日本においては、たとえば仏教の場合に当てはまることです。日本で、もしも仏教の分かりやすい本が無料配布され、「そういう意味だったんだ」と納得した人が、自分の問題として仏教を受け止め始めた――そういう図式に近いわけです。

 

 そのため、この『パワー・フォー・リビング』は、少しでもキリスト教に理解のある人、キリスト教の文化にからだが馴染んでいる人のためのメッセージとなっています。

 もっと明確に言うと、まさに今、教会に通っていて、信徒である、または求めている、という立場の人に、ちょうど適切な内容となっているのです。

 さらに挑戦的な言い方をするならば、これは「リバイバル」のための本です。リバイバルというのは、それまで教会のことなど何も知らない人か信じるようになることではありません。なんとなく教会に来ているような人、教会に来てはいるけれど聖書の力が自分の生活に活かされていないような人の心が、短期間に大勢の間に、信仰に燃えるように火がつくことが、リバイバルです。信仰復興ということです。

 この本を利用するならば、信者こそ、読んで、信仰を強くするべきなのです。

 間違っても、一般家庭にどんどん配布するようなことを、してはいけません。4万冊注文なさった教会の先生、どうか手当たり次第に配るようなことは、なさらないでください。




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