祝福を信じること

2026年8月24日

「アメーン」という語から始まる、マルコ伝11:23が、イエスの言葉の中で特に受け止めたい箇所だと言えるであろう。
 
よく言っておく。誰でもこの山に向かって、『動いて、海に入れ』と言い、心の中で少しも疑わず、言ったとおりになると信じるならば、そのとおりになる。(マルコ11:23)
 
説教者は、この言葉を胸に刻んでほしい、と言う。否、書いて貼っておけ、それを日々見つめて生活してほしい、それくらい強く言って、この言葉を重要視した。事実、今日はこれに光が当てられるのであるが、問題は、これが、イエスの呪いと共に発された、ということではないかと私は感じた。
 
呪いというのは、いちじくの木に向かってイエスが言ったことに基づく。同じ11章の12節からであるが、ベタニアを出たとき、「葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである」(11:13)と記されていた。
 
確かに不条理である。そもそもいちじくの実のなる季節ではないという。だがこの様に、イエスは「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」(11:14)と言ったのだ。イエスが呪いをかけたと見られるのは、ここを置いて他には思い当たらない。多価に、律法学者やファリサイ派の人々を災い呼ばわりしたことかあるが、イエスの発言によって枯れてしまうというような裁きがなされたこのいちじくの木のように罰されたのではなかった。
 
今日、説教者は幾度か「心がざらつく」という表現を使った。これが印象的であった。「ざわざわする」のなら私も想像がつくが、「ざらつく」という感覚は私の中には持ち合わせていなかった。ただ心が気持ち悪いだけではない。確かに何かに触れる触覚がそこにある。自分以外の何ものかに触れている。そのときに、つるりと呑み込めるような感じ方はできず、心地よい触感でもなかった。引っかかる。抵抗がある。受け容れられない気持ち悪さと、それに価値を見出せないような感情が伴うのだ。
 
それが残る限り、私の心は二つに分裂する。ヤコブ書などにある「二心」の表現は、案外誰にもあることだろうし、本音と建前を使い分ける私たちの文化からすれば、当然の社会常識だと言えるにかもしれない。
 
「心の中で少しも疑わず」、それが実のところ不可能であることを、説教者は知っている。私たちの状態も見抜いていると共に、それが自分の中にある、一種の悔しさのようなものも届いてくる。それがよいのだ。自分がさもできているかのようにして、さあ皆さんも信じましょう、などと呼びかけるのは空々しい。傲慢の塊である。他方、自分には全くできません、という一見喧噪な態度も、恐らくは傲慢なのだ。「そんなことはないですよ」と褒められたいだけだからである。
 
私たちは信じたい。だが、神の前に自分を誇ることはできないし、逆にまた神からの恵みを受けながら、どうせ自分は、などといじけているわけにもゆかない。説教者は「疑う」という邦語の由来として、「内・違ふ」という節を紹介した。恐らくそれは一般的ではないのだが、ヤコブ書などの「二心」とのリンクは確かだった。
 
そして、この二つの矛盾する心を「ひとつにしてください」と私たちは祈るべきなのである。イエスが弟子たちに、しきりに「一つにしてください」という願いを父なる神に向けていたヨハネ伝を思い起こさせるような口調である。それは、私たちは変わることができるということと、それは自分で変わるのではなくて、神に変えてくださいと祈ることなのだ、ということとを意味している。
 
さて、その場面であるが、また次の朝であることが分かる書き方から直ちに、「見ると、いちじくの木が根まで枯れていた」ことからここは始まる。「根まで」とは恐ろしい。いちじくがイスラエル民族を象徴しており、特にその指導者層を批判しているという点を踏まえると、それが「根まで枯れていた」というのは、もうそこからは立ち直りのない有様であることを突きつける。

主の呪ったいちじくの木が枯れています――弟子たちは驚きの眼差しで報告する。イエスはこれに対して真っ先にこう言った。「神を信じなさい」と。神を信じることが求められているのだ。そしてそれができないからこそ、根こそぎ枯れてしまったのだ。人間の思いだけで営む宗教や政治は、とことん腐っているとされたのである。
 
よく言っておく。誰でもこの山に向かって、『動いて、海に入れ』と言い、心の中で少しも疑わず、言ったとおりになると信じるならば、そのとおりになる。(マルコ11:23)
 
やっぱりこのイエスの言葉は、聴いて気持ちがいい。山が動いて海に入る、というのは確かにユーモアに満ちた表現かもしれない。この言葉は、ある発言から、日本中に知られるようになった。社会党委員長の土井たか子氏が、選挙で躍進したときに、「山が動いた」と言った言葉である。新鮮だったために、この選挙と政治の舞台の象徴となった。
 
「山が動いた」は、与謝野晶子の詩に由来する、としばしば解説されている。社会の変革と共に、女性が立ち上がることを含意するために、土井たか子氏自身も愛していた詩の言葉があったのは確かである。だがそれは「山の動く日来たる」と言っても人は信じない、という意味のフレーズであった。だが与謝野晶子自身、聖書に関心をもっていたこともあり、この信仰で山が動くという背景を抜きにしては、クリスチャンたる土井氏の言葉は説明できないのではないか、と私は考えている。
 
それから、「この山」に向かって命じる、というところにも説教者は光を当てた。実に、その山だからこそ、動くのである。ベタニアもまた標高が比較的高い場所ではあるのだが、エルサレムはそこよりもさらに150mくらいは高かっただろうと思われる。つまり、イエスが「この山」とそこから言い得たのは、見上げたエルサレムの街だったはずなのである。つりイエスは、エルサレム神殿という、イスラエルにとって歴史のある要の場所であっても、固定したものではなく、動くものなのだ、と宣言したことになる。伝統的なユダヤ教が人々を追い詰め、また自ら高慢になっていっていたとしたら、イエスの福音によって、その古い教義はもう山ではなく、海に沈むようなものである、という見解がそこにあるわけである。
 
このときイエスは「神を信じなさい」と言ったことも、印象的であった。説教者が指摘する。私たちが神に祈るとき、それが実現することを求めているし、叶うものだと信じることが大切だ、と思いがちである。だが、説教者の指摘する信仰は、そういうものではなかった。「神を信じる」のである。
 
この点については別の箇所を傍証として挙げつつ、祈ったことが実現することを信じるのではない、という点を明らかにした。祈ったことを神は聞き入れなかった。もちろん聞き入れてくれたら嬉しいだろうが、祈った通りになるかならないか、で差が付くものではない、というのだ。「たとえそうでなくても」のようなフレーズを挟んで、ただ「神を信じる」ことが、イエスの教えたかったことなのだ、と説教は説く。
 
何故ならば、イエスのゲッセマネの祈りこそ、父なる神が聞き入れて実現させなかったものだったからである。説教者はこれを、「山が動かなかった」事例だと言う。十字架を取り除けてほしい、という血の汗を流すほどのイエスの祈りに対して、神はそれを実現させなかったのである。神は沈黙していた。山は動かなかった。――そうだろうか。イエスの十字架は、人類の救いの歴史を変えた。永遠の命を与える信仰の道を、イエスは新たにつくった。山は動いた、という捉え方も可能ではないのか。私はそういう受け止め方をしてみたい、とも思った。もちろん、地上での現象としては、イエスの祈りは山を動かさなかったのではあるが、霊的な世界では、山が確かに動いたと見ることもできるのである。
 
神を利用しようとして祈る者もいる。自分の欲望や願いを実現させるための道具だと、神のことを見なしているのである。私が時折触れることがあったはずのことがある。もし神がなんでも願うことを聞き入れて実現させてくださっていたら、それはもはや神ではなく、人間の僕、魔法のランプの巨人のようなものに過ぎないのだ。説教者もその点を強調してくれていたのだと思う。
 
そして、説教は「神を信じなさい」に戻る。「神を信じる」という言葉は一般的に、「神さまはいるかいないか」というレベルで使われる言葉である。イスラエルそして聖書が有する視点には、そのようなレベルの話は一切ない。あるとすれば、敵がせせら笑う悪口くらいのものだろうか。
 
「信じる」という言葉は、「信仰する」よりも広い包摂力をもつ。「信頼する」ことをも指すことができるし、西欧語ではどちらも同じ語で賄っている。新約聖書の言葉で言えば、同じ語を日本語訳で、「信実」ならまだいいほうだが「真実」と普通に訳しているし、「真理」の意味でも使っているように見えることがあるから、もしかすると時に誤解を生じかねない事態となっている。
 
「神を信じなさい」だと、恐らく「信頼する」の日本語感覚が相応しいのではないか、と思っている。時に、神の方が人間を「信じる」という表現もあるから、すべてを「信仰する」と訳してしまうことができない事情にある。人間が神を信じ仰ぐから「信仰する」という語が宗教的には一般的になっていると思われるのだが、いっそ「信頼する」で統一した方が、ややこしくないのではないか、と思うのだ。
 
説教者の今回の提言としては、この「神を信じなさい」について、「神の祝福を信じる」という捉え方をしよう、という心を聞いたように思う。イエスは身を以て、正に命を懸けて、信頼する者に祝福を与えたのだ。こうした背景を弁えて、教会では、礼拝の終わりの方でのプログラムを「祝祷」とは呼ばないという。それは「祝福」であって、愛の宣言なのだ。
 
そして、説教が力強く最後に推し続けたメッセージは、「祝福はびくともしない」ということだった。
 
地震や大雨のような災害が続く晩夏に、痛みを負い、生活財を失って希望を奪われている人が多くいる。なんとか扶けたいと願い、ささやかながらできることをする私たち。しかしまた、災害は、自然災害や人為災害を含めつつ、いつどのような形で襲ってくるか知れない。神に祈れば災難を免れるという御利益があるわけでもなく、厄災消除を私たちは願っているわけではない。災いを受けた人が神から見放されているという捉え方はしない。そうした差別の視線が、人間たちをどれほど殺伐とした冷たい集団にしてきたか、歴史から学ばなければならない。
 
福岡で、飲酒運転の車が他の車を海に落とし、幼い子ども三人が、親の目の前で命を失った事故から、この25日で20年を数える。時間が心の疵を癒やすということもなく、失われた命はこの世に戻ってくることはない。さらに、その親に対する誹謗中傷すら向け続ける社会の冷たさというか、悪魔的な仕業にも、心が凍りそうになる。
 
私たちも、覚悟を以て外に出る。家の中で覚悟しつつ暮らす。不条理な出来事が襲うことに対しては、いくら心を備えていたつもりでも、たまらないのは確かである。こうした背景を踏まえながらも、説教者は宣言するのだ。「祝福はびくともしない」と。
 
イエスが十字架の上で「わが神、わが神」(マルコ15:34)と叫んだその声を聴こう。私たちも叫ぶのだ。それが私の神だから、叫ぶのだ。それが、「神を信じている」ということなのだ。神の祝福を疑わない、ということにつながるのだ。
 
あのエルサレムを支配していた、神の名を掲げる宗教でさえ、動いて海へ入る。それが神を信じるということなのだ。海は得体の知れない存在が渦巻く、薄気味悪いところ。自らを誇り、弱者を追い詰めるばかりの「神への信仰」は、そういう暗闇に捨ててしまえ。そう、「神を信じる」ということは、それができる、ということなのだ。そしてその信頼には、神からの祝福という核が備わっているのである。
 
いちじくの木への呪いから祝福へ。なんと劇的なメッセージであったことだろう。



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