(列王記下2:1-18, ヘブライ11:28-29)
彼はエリヤの身から落ちた外套を手に取って、水を打ち、「エリヤの神、主はどこにおられますか」と言った。彼が水を打ったときも、水は左右に分かれ、エリシャは渡って行った。(列王記下2:14)
◆別れの準備
エリシャはエリヤと出合い、従う者となりました。今日は、エリヤとエリシャの別れの場面から神の心を受けたいと願います。エリシャが独り立ちする、その現場に立ち合おうと思います。
エリヤは、神に見限られた、という解釈を、私は前回とりました。すっかり気が滅入った状態となったエリヤに、神は、孤独ではないから、と励ましを与え、なんとか立ち上がることができたのではないか、と推測しました。そのとき、後継者エリシャが与えられることも加えていましたし、実際、エリシャを見出したのでした。
間もなく、別れの時がきます。エリヤは、いまから別れの時を迎える、ということを、果たして知っていたのでしょうか。私は、知っていたものと理解します。
そこでいま、ほぼ同じ会話が、三度も繰り返されます。小さな子どもに読み聞かせる絵本では、この「繰り返し」がとても楽しく、子どもも喜んで絵本に集中するものです。聖書でも三度繰り返される場面は幾つもあり、神が人間に、丁寧に何かを知らせることを意味しているように見えます。
その会話とは、こういうものです。まずエリヤが、「主は私を○○○まで遣わされるが、あなたはここにとどまっていなさい」と言います。これに対してエリシャは、「主は生きておられ、あなたご自身も生きておられます。私はあなたを離れません」と答えます。恰も儀礼のようです。
その○○○では、預言者の仲間がいます。そしてエリシャに答えかけます。「今日、主があなたの主人を、あなたから取り去ろうとしておられるのを知っていますか」と。エリシャは、「私もそのことは知っています。しかし黙っていてください」と答えます。
○○○には、地名が入ります。最初はベテルでした。意味は、「神の家」。ベテルとくると、やはり思い起こすのが、ヤコブの夢でしょう。父の祝福を策略で得たものの、孤独で故郷を逃れねばならなくなったヤコブが、神からの声を聞き、天に続く梯子を見せられます。しかし後に、故郷へ帰るときにもベテルに立ち寄り、祭壇を造りました。これを契機に、ヤコブは「イスラエル」という名前を貰い受けるのでした。
これを思い起こし、イスラエルにとり重要なエポックとして、エリヤからエリシャへのバトンを演出したのかもしれません。が、エリシャの時代に近いところでは、そもそもイスラエルが南北に分かれるに至ったとき、北イスラエル王国にエルサレムがなかったため、ベテルに金の子牛を置いて礼拝所としたことの意味が大きかったかもしれません。
○○○に入る次の地名は、エリコです。意味は、「月の町」。イスラエル民族がエジプトを出て、カナンの地に向かいます。率いたモーセは直前で死にますが、モーセの後を継いだヨシュアが先頭に立ち、まずエリコを陥落させて、神が約束したカナンに第一歩を踏みしめるのです。このとき、ヨシュアは、エリコを再建する者へ呪いをかけています。そしてエリヤの時代、アハブ王のときにエリコを再建したベテル人ヒエルが、二人の子を喪います。ヨシュアの言葉のとおりだった、と列王記16:34は評しています。
その後エリコは、場所を示すほかには大きな役割は果たしていないようです。イスラエル民族が、約束の地に入るときの入口としてのエリコ、これも少し意味深長な気がします。エリヤとエリシャは、新しい地に入る入口を訪ねたとでも言うのでしょうか。
そして三番目、最後の○○○は、ヨルダン川でした。これについては、次に展開する場面で触れることにしましょう。このとき、次のような預言者仲間とエリシャとの対話だけが書かれていません。
「今日、主があなたの主人を、あなたから取り去ろうとしておられるのを知っていますか。」するとエリシャは、「私もそのことは知っています。しかし黙っていてください」と答えた。(列王記下2:3,5)
ただ、その代わりに「預言者の仲間五十人も付いて行った」と書かれています。二人は、ヨルダン川のほとりに立ち止まります。五十人も立ち止まります。但し、「遠く離れて」のことでした。
◆水が分かれた
8:エリヤが自分の外套を取り、丸めて水を打つと、水は左右に分かれた。そこで二人は乾いた所を渡って行った。
水が左右に分かれた、とくれば、モーセが手を上げて、海を二つに分かれさせた場面が有名です。古い映画でしたが、大スペクタクルの映像は、世界中の人々に強烈な印象を刻みました。エジプトを脱出して間もなく、目の前の海で行く手が遮られ、エジプト軍が背後から迫る中、危機一髪のところで、海の中を歩いて通る道が現れた、という物語です。
それに比べるとずいぶんと規模が小さいように読めますが、出エジプトのこの旅の最後に、ヨルダン川の水を左右に分けたという記事も聖書にはありました。
一応旧約聖書の記録に従えば600年ほど遡りますが、かつてイスラエル民族が、このヨルダン川を渡ったことがあったのです。モーセに率いられてエジプトを脱出して40年、モーセ自身はマゼランのように目的を果たせませんでしたが、後継者ヨシュアがリーダーとなって、イスラエルの民はヨルダン川を超え、神が約束した地に一歩を踏みしめたのでした。
ヨルダン川は刈り入れの季節の間中、水が岸まで満ちていた。ところが、箱を担いだ者たちがヨルダン川に達し、その水辺で、箱を担いだ祭司たちの足が水につかるや、上流から流れて来る水が、遠く離れたツァレタンのそばにある町アダムのところでとどまり、一つの堰となった。アラバの海すなわち塩の海へ流れて行く水は完全にせき止められた。民はこうして川を渡り、エリコに向かった。(ヨシュア3:15-16)
ヨルダン川の幅は、数十メートルと言われますが、「水が岸まで満ちていた」とあるからには、キロメートル単位の幅にまでなっていた可能性があります。それだと、モーセのときに海が割れたのと、引けを取らない規模だと言えないでしょうか。
このとき、「箱を担いだ者たち」という表現があるのですが、これこそ、モーセの十戒の板を入れた、「主の箱」と呼ばれる契約の箱です。イスラエルの民は、記述に従えば数十万人の規模で大移動をしていたのですが、その先頭にあったのは、民族のアイデンティティとも言える、神の掟を記した二枚の板でした。
それは特別の祭司たちだけが担うことができました。それは聖なるものであるために、迂闊に触れることもできず、日本の担ぎ棒を用いて運ぶことになっていました。ちょうど日本で昔、タンスを運ぶのに、竿を用いて運んでいたのとどこか似ています。尤も日本の竿は一本だったようで、そのためにタンスの数え方は「一竿、二竿、……」と数えるようになっています。
川を渡り終えて、ヨシュアは主に命じられるままに、そこに記念の石を置き、しるしとします。そして、子どもたちにこのように伝えよ、と命じます。「ヨルダン川の水は、主の契約の箱の前でせき止められた。箱がヨルダン川を渡るとき、ヨルダン川の水はせき止められた。これらの石は、とこしえにイスラエルの人々の記念となる」(ヨシュア4:7)と。
こうして約束の地にイスラエルの民は入りました。その後、この地を平定してゆかなくてはなりません。この問題が、いまなおパレスチナ問題として争いの火種になっている、ということについては、すみませんがいまは扱わないようにしておきます。
◆葦の海の救い
この、ヨルダン川を渡ったという出来事は、いまの私たちにとっても、信仰の歩みの中で大きなポイントであるものとして擬えられることがあります。それは、同じように水を分けた、出エジプトの出来事ともリンクするものです。先ずは、葦の海を二つに分けてエジプトを完全に脱出することができた出来事を、新約聖書の立場からはどのように捉えるべきか、聖書から受け止めることに致しましょう。
エジプトを出る。それは、奴隷の状態を脱することを意味するものと私たちは理解しています。私たちは、かつては罪の奴隷でした。罪の言いなりになり、縛られていました。自分では好きに生きているかのように思い込んでいたかもしれませんが、結局のところ、自由な生き方ではありませんでした。しかし、そのエジプトを出ます。罪に縛られた生き方を脱するのです。それは苦難を伴う生き方を始めることであったには違いありませんが、もはや奴隷ではなく、自由を与えられた歩みとなったことを意味しました。
それは確かに、信仰の始まりでした。たどたどしいところがあるにしても、信仰の歩みを始めたことに違いないと考えました。もしかすると、信仰生活に入ったことをためらうようなことがあったかもしれませんが、確かに救いの道に導かれていたのです。そうして、荒れ野の旅が始まりました。
旧約の物語は、新約のイエス・キリストによる救いの歩みを、歴史の中から教えてくれるものでした。私たちは、イエス・キリストを見上げ、新約聖書の福音を与えられています。ですから、この出エジプトの出来事は、イエス・キリストと出合うことで与えられた救いを、さしあたり思わせるものと理解することができます。このことを、新約聖書のヘブライ書の一部から確認しておきましょう。
28:信仰によって、モーセは、滅ぼす者が初子たちに触れることのないように、過越を行い、血を塗りました。
29:信仰によって、人々は乾いた陸地を通るように紅海を渡りました。同じことを試みたエジプト人たちは、海に呑み込まれてしまいました。
史実云々を問題としているのではありません。この出来事によって、エジプト人たちは海に呑み込まれてしまったのです。私たちは、奴隷時代と、縁が切れたのです。これが「救い」でした。救いの切符を与えられたのでした。
◆ヨルダン川の救い
その後、イスラエル民族は、40年間にわたり、荒れ野を旅します。いろいろなことがありました。帰りたいとの不満も漏らしました。思わぬ敵との遭遇もありました。モーセと神を信じることができず仲間割れがあったり、不信仰を露呈する者も現れたりしました。けれども、なんだかんだ言いながら、なんとかついに、目的の地の目前まで来たのです。
つまり、「救い」の切符は当たられていますが、まだコンサート会場に入場していなかったのです。そのチケットがあれば、入場は約束されているはずですが、実際にはまだ入っていません。何かしら出演者の事故や会場の不備、悪天候のために、コンサート会場に本当に入れるかどうかは、確定していないようなものです。
そこで、もう一段階、本当に目的地に足を踏み入れることの確証が必要になる、とも考えられます。それが、同じく水を大きく分けた、先のヨルダン川での出来事でした。これは、信仰生活のどういうことに擬えることができるのでしょうか。
新約聖書に、このヨルダン川の意味が記されているわけではありません。新約聖書でヨルダン川といえば、福音書にしか登場せず、地名として出てくる他は、洗礼者ヨハネの洗礼の場所くらいしかありません。地名としては、「ヨルダン川の向こう」というような示し方が中心です。
そこで、この解釈は、ひとつの霊的なものであり、すべてのキリスト者が賛同しているわけではありません。ただ、ある人々は確かに、このように理解しています。それは、ヨルダン川を渡るということが、信仰に於いて確かに次のステップに上がることである、という理解です。
ただ信じるだけではない。確かにひとつ高みに立つのです。「きよめ」というように呼ぶ人々がいます。しかし、いまその教えを詳しく説明するようなことは控えましょう。今日は、エリヤとエリシャの出来事との関連を中心にしたいと考えています。
だから、ヨシュアのときのように、エリヤがこの水を分けたことに、注目したいのです。
8:エリヤが自分の外套を取り、丸めて水を打つと、水は左右に分かれた。そこで二人は乾いた所を渡って行った。
ヨシュアの出来事がここに再現されていることが分かります。エリシャの目の前で、エリヤがこの奇蹟を起こします。旧約聖書の大きな出来事が、エリヤの手で再び起こりました。ここに意味がこめられていないはずがありません。そして、ここにあの「外套」が活躍しました。
◆霊の分け前
さて、いまエリコの手によって、ヨルダン川が二つに分かれて渡るという奇蹟が起きました。エリヤは、ここでお別れだ、と持ち出します。それは、旧約聖書でいうならば、「祝福を与える」という言い方になるでしょう。いまの私たちの言葉でいうならば、遺産を渡す、ということです。
9:彼らが渡ったとき、エリヤはエリシャに言った。「私があなたのもとから取り去られる前に、あなたのために何ができるだろうか。何なりと願いなさい。」エリシャが、「どうかあなたの霊の二倍の分け前をくださいますように」と言うと、
10:エリヤは答えた。「あなたは難しい願いをするものだ。私があなたのもとから取り去られるのを見るならば、そのようになるであろう。しかし見なければ、そのようにはならないであろう。」
エリシャが求めたのは、「霊の二倍の分け前」でした。この「二倍の分け前」には、当然疑問が沸くことでしょう。調べると、旧約聖書に規定がありました。
疎んじられている妻の息子を長子と認め、自分の全財産を分けるときに、二倍の分け前を与えなければならない。この息子が父の力の初めであり、長子の権利は彼のものだからである。(申命記21:17)
長子には、特別な財産が分け与えられる文化でした。驚くことはありません。日本での家督相続もそうでした。大名のような特別職でなくても、一般家庭でも、次男以降は家に残ることができず、外に出る、というのは当たり前のことでした。
となると、エリシャがエリヤに求めたのは、長子としての権利であったことになります。エリヤに財産があったわけではありませんから、その分け前は「霊」でした。「霊」はつまり、主なる神ということです。預言者としての使命を意味しているとも言えるでしょう。
エリヤはその要求を「難しい」と言いながらも、自分が「取り去られる」ことをはっきりとエリシャに告げます。いえ、エリシャも、「預言者の仲間」たちにより、くどくどと告げられ、エリシャも、そのことは分かっている、と繰り返し答えていました。覚悟はできていました。
11:彼らが話しながら歩き続けていると、火の戦車と火の馬が二人の間を隔て、エリヤはつむじ風の中を天に上って行った。
印象的なシーンです。従ってエリヤは、死んだとはされていないのが解釈です。預言者の中でも特別です。創世記のエノクと二人、特別です。「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」(創世記5:24)と書いてあるのです。
この「つむじ風」は、日本語訳が異なりますが、「主は嵐の中からヨブに答えられた」(ヨブ38:1,40:6)とあるときの「嵐」と同じ語です。強い風を意味します。「風」は「霊」と同じものを表しますから、これは主の霊を指していると思われます。エリヤは、神の霊に取り去られたのです。そして、その霊はエリシャに継がれることを意味します。
◆霊の引き継ぎ
それを見て、エリシャは混乱します。
12:エリシャはそれを見て、「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」と叫んだ。しかしエリヤはもはや見えなかった。彼は自分の衣をつかんで、二つに引き裂いた。
けれども、目の前には、エリヤの外套が落ちていました。空から落ちてきたようにも見えます。エリヤはその外套で、ヨルダン川の水を打って、川の水を止めました。自分にもできるだろうか。霊の後継者とされたのであれば、同じように自分にもできるのではないか。エリシャがそんなことを考えたように私は想像しました。
13:エリシャは、エリヤの身から落ちた外套を拾い上げ、引き返してヨルダン川の岸辺に立ち止まった。
14:彼はエリヤの身から落ちた外套を手に取って、水を打ち、「エリヤの神、主はどこにおられますか」と言った。彼が水を打ったときも、水は左右に分かれ、エリシャは渡って行った。
エリシャは川を渡り、またイスラエルの地に戻りました。それは、エリシャ個人だけの問題ではありませんでした。霊についての証言者が、ちゃんとそこにいました。
15:エリコの預言者の仲間は、離れた所からエリシャを見ていて、「エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている」と言った。彼らはエリシャを迎えに来て、その前で地にひれ伏し、
16:言った。「御覧ください、あなたの僕のところには屈強な者が五十人います。あなたの主人を捜しに行かせましょう。主の霊が彼を運び去り、山のどこか、あるいは谷のどこかに投げ落としたのかもしれません。」すると、エリシャは言った。「遣わす必要はない。」
ただ、それは誤解でした。預言者たちは、エリヤを探していたのです。周りの者たちは、エリヤを求めていました。エリシャをまだ認めていなかったのです。しかしエリシャは分かっていました。もう、エリヤを探す必要はない。エリヤに頼らなくても、自分にはエリヤからすでに与えられている。霊の二倍の分け前を、この手にしています。
17:しかし、彼らがあまりにしつこく迫るので、「遣わしなさい」と言った。彼らは五十人を遣わし、三日間捜したが、エリヤを見つけることはできなかった。
18:彼らがエリコにとどまっていたエリシャのもとに戻って来ると、エリシャは言った。「だから、行くなと言ったではないか。」
◆川を渡る
では、このことを、新約聖書の眼差しから辿ることにしてみましょう。ヨルダン川を渡るということは、ヨシュアの出来事からして、エジプトから出た「救い」から、もうひとつ障害を超えて、強い確信の段階に立ち入るように理解することができるのだと、先ほど捉えました。このエリヤとエリシャの時代に、さらヨルダン川はまたも分かれました。しかも、往復二度も分かれました。新約聖書の福音からすると、これ以上水を分けて、何をどう超えるというのでしょうか。
エリヤからエリシャにバトンが渡されました。いや、バトンではなくて、外套が渡されたのでした。霊を受けて、エリヤが超えて、天に上げられたのを、エリシャは見ました。そしてエリシャはまた独自に、与えられた霊で奇蹟を起こしました。これから何度も起こすエリシャの奇蹟の、発端となりました。
エリヤが外套を丸めて川の水を打ったとき、「水は左右に分かれた。そこで二人は乾いた所を渡って行った」と記されていました。そしてエリヤは天に挙げられ、エリシャはエリヤの外套を拾い、それを丸めたとは書かれず、ただ手に取って川の水を打ちました。すると「水は左右に分かれ、エリシャは渡って行った」のでした。
川を渡る情景を思い浮かべてみましょう。川幅は確定しないものの、数十メートルから最大キロメートル幅まで可能性があります。二人が渡ったとき、エリコ側からだったと思われます。エリシャが独りで渡ったときには、イスラエルの地に再び入る道となりました。
私たちは、信仰が確信に変わるとき、ヨルダン川を渡るというヨシュアの出来事を象徴として、その出来事を自覚しました。ではエリシャと共にヨルダン川を渡ったとき、私たちの信仰生活の、何に擬えれることができるでしょうか。
エリシャはこの後、奇蹟に次ぐ奇蹟の連続を起こします。弱いところを見せず、立て続けに奇蹟を貫きます。預言者の中で、最もイエス・キリストのイメージに近い人物ではないか、と私は見ています。冷静で大胆な様は人間臭くなく、淡々と奇蹟を誰よりも多く起こしているように見えるのです。エリシャはこのとき、「主はどこにおられますか」と問うています。主のおられるところ、それは神の都ではないか、とふと思います。
川の向こうの地は、イスラエルの地。見上げればエルサレムの都がそこにあります。川の向こうの都が聳える。それは、私には、ヨハネの黙示録の最後の場面のようにすら思えます。黙示録の最終章22章には、きれいな川の情景が映し出されます。
天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように光り輝く命の水の川を私に見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実を実らせる。その木の葉は諸国の民の病を癒やす。(黙示録22:1-2)
そこはもちろん、永遠の神の都です。命の木もあります。ただそこには命の水の川があったのです。奇蹟を続けるエリシャが足を踏み入れることを仄めかしているのは、この神の都ではないか、と私は幻を見たのです。そこは神の国です。
エリヤ先生に追随して、まず渡る。そこでエリヤの昇天を見る。霊の受け渡しを経て、エリシャは自立する。エリシャは独り立ちして、自らの手によって、川を止め、川を渡る。――そこに私たちは、信仰生活とその行き先を、象徴的にではありますが、見る思いが致しました。エリシャの物語は、まだ始まったばかりですが、私たちは勇気を与えられます。
このエリシャの歩みは、神の国での出来事、というわけにはゆきません。現実には敵がおり、争いの絶えない時代です。しかし、神が約束した地であることは確かです。エリシャと共にその歩みに従ってゆくことによって、神の国に渡る幻を、共に見てゆきませんか。信仰の行く手を阻む川を、共に主を見上げて渡ってゆきませんか。