医療の現場と他人への関心
2026年8月23日

家族が入院するのは、大抵大きな病院である。妻の勤めるような個人病院ではない。その妻も、最初は大学病院勤務だった。大きな病院の仕組みや設備など、ある程度把握できるし、その話を聞く私も、全く知らないわけではない、という程度の知識は持ち合わせている。
昔は「ナースステーション」などと呼んだ。ナースだけに限らないから、その呼び方はいまは使われなくなる傾向にある。案外昔ながらの「詰所」というのが似合っているのかもしれないが、改装したら、粋なカタカナ語になっている。「スタッフステーション」というのが、次元の高い呼び方のようだ。
病室がそれを取り囲むように配置され、どこへでもすぐに駆けつけることができそうだ。以前は狭い範囲で窓口が機能するということもあったが、三方・四方が開放されたようになり、どこからでも声が届くようになったデザインが多い。
昔の「看服」も、懐かしいドラマの中だけで見られるもののようになってきた。白に定まってもおらず、女性看護師もパンツルックが増えている。活動しやすいのは確かだろう。それはもう、アスリートのような感覚だ。
医学的知識に関しては、ただただ感服するしかない。素人がちょっと検索して、知ったかぶりをするようなことは厳に慎みたい。但し、知り得た知識で質問は遠慮なくするべきだろう。医師や看護師の側でも、基本的に分かりやすく説明してくれるものである。
大きな病院であるのだが、見舞いのシステムがたいへん分かりにくいところがあった。初めて行ったとき、まずどこに行けばよいのか、どこかに少しでも書いてあればいいのだが、全くそれがない。もちろん、そういう窓口もないし、表示もない。確かにウェブサイトでは、見舞いのルールは細かく書かれている。だが、まずどこに申し出るのか、それはそのルールにも、現場にも書かれていないのだ。
結局私は、清掃作業をしているスタッフに尋ねた。すると、幾つかの窓口のうち特定の所を案内された。もちろん、その窓口の名前からは、見舞い申し込みであることは予想がつかない。するとそこで名前を書かされ、名札を渡された。それはルールにも特に書かれていない制度だった。
エレベータで上がると、フロア地図があったが、「現在地」がどこであるのは分かりにくかった。確かに赤い文字だったが、かなり小さな文字で書いてあり、探すのに時間がかかった。その他、個室に自動的に組み込まれているサービスについても、説明書を読んだだけでは理解できず、スタッフステーションに尋ねに行ったほどだった。
後でその病院のウェブサイトを見たら、やたら文字で細かな説明が詳しく書かれているが、要点がサッと見えるような代物ではなかった。私は提言したいが、ビジュアルデザインの専門家を使うべきだと思う。
よくよく探してみてごらん、ごちゃごちゃした説明のここに、ちゃんと書いてあるから。これではいけないのである。特に近年は、アジアから来た人が、福岡には特に多く住むようになっている。高校卒業レベル以上の日本語で詳しく説明されているものがすべてであってはなるまい。ピクトグラムが普通に機能している病院もあるから、その気になればできるはずである。
あるとき、医師から、必要あってエレベータ近くで待つように言われ、椅子におかけください、と促されたことがあった。その場に、機材その他を台車で運ぶ若い男性が複数いて、その医師の言葉が聞こえていないはずはなかった。だが、台車とその人たちで、指示された椅子がすっかり塞がれてしまい、私はそこに座ろうにも座れない、ということがあった。仕方なく立っていると、また通りかかった医師が、どうぞおかけになって、と声をかけて忙しそうに駈けるようにして行ったが、台車の係は何も気にしてはくれなかった。
学習塾でもそうだが、どのような立場にいようと、顧客からすればどの人物も塾の社員である。顧客に会釈をし、声をかけ、何か困っていないかを必ず気にする。病院も当然スタッフと呼ばれる人々はそのようにしていると思う。が、一部そうした職業意識を持ち合わせない人も、いるにはいるのだ、ということがよく分かった。
肉体的にも、精神的にも、疲れているはずの中で、医師や看護師などは、本当によくしてくれる。近年は、「カスタマーハラスメント」に対する警告を明示している病院もある。それは逆に、スタッフの方が患者や関係者に誠意を尽くします、という宣言でもあるはずである。
妻はいまだに、コロナ禍のときの辛さを訴えることがある。医療従事者に、いまの時代では石を投げつけることはないだろうが、先般のドラマの中で、感染症の中で働く医療従事者に村人が悪態をついて石を投げるシーンがあった。精神的には、正に当時そうだったのだ。医療従事者に感謝の意を表そう、という公のキャンペーンもあったが、表向きに一部派手になされたそれも、現実の情況は、決してそうした雰囲気はなかったのだ。
いままた、政治家の気紛れのようなことにより、石油製品が不足し、医療器具や医薬品に大問題が生じている。かと思えば、ひとつの医療事故が、病院全体の不信の理由として報道されるようなこともある。私の目の届く範囲で、権力争いの欲にまみれたドラマのような医療の実態は、まるでない。大病院ではどうなのだか、確かに知る由もないのだが。
医療機関が閉鎖されることも珍しくなくなった現在、福祉介護の方面もそうだが、マスコミや社会は、冷たくはないだろうか。マスメディアが、情報を取捨選択して報じているということは、メディア・リテラシーの常識であるのに、依然として報道が正義であるという前提で、将来の自分たちの首を絞めるようなことを続けているように見えることがある。
他人のことを気にすることが、どんどんなくなってゆく社会。スマホの画面のゲームやSNSさえあれば、自分の隣りにどんな人がいてもまるで気にしない正義を主張することができる、そんな社会がそこにある。目の前を見ないでスマホに熱中して歩く人は、ますます増えているし、この暑い中、その上に日傘で突っ込んでくることも平気になっている。
いつからこうなったのだろう。以前からあった内実が、表に出ただけなのだろうか。しかし人と社会は、これからどこに行こうとしているのだろう。コロナウィルス感染症患者は、依然として多いし、いまなお増加傾向の地域が多い。東京で幾らか少なくなっていると、マスコミももう報じることがない。他人のことを気にしない社会、他人に無関心な社会では、自分を信じているようでいるかもしれないけれども、その自分が動かす政治に於いて、狂った選択をしてしまうということにも、気づかないで加害者となることが、大いに懸念されるのである。