宗教の語彙(『福音と世界』より)

2026年8月20日

図書館は、雑誌については、最新号は貸し出さない決まりになっている。雑誌は、たとえば月刊誌であれば、最初の1か月を過ぎると、普通販路がなくなってしまう。だから、最初の1か月にその内容を露わにしてしまうと、販売の妨害をすることになりかねない。もろちん宣伝のつもりです、という言い訳も成り立つが、今回は少し詳しく、記事を後追いしようと思ったので、1か月経ってから、取り上げることにした。
 
その雑誌というのは、『福音と世界』(新教出版社」である。80頁の内容で、いまなお660円で販売してくれている。いつから講読しているか自分でもよく分からない。そんなに昔からのことではないが、つい最近というわけでもない。
 
『福音と世界』には、連載記事の他に、毎回「特集」が決められている。それに従って、寄稿者が選ばれ、あるいは記事を書く。殆どが1人6頁であり、読むのには手頃であるし、書く方も、そこそこ主張したいことが書ける長さではないかと思われる。
 
2026年8月号の特集は、「宗教と人権」であった。「人権」は、あらゆるものの基本原理のように誰もが認め、当然の前提のように見なし、世の中はそれに同意する。この特集の最初の頁では、その特集を組んだ意義や、これから綴られる論文のあらましが紹介されるが、そこでも、「いかなる宗教的信念であっても、人間の基本権を侵害することは決して許されない」とし、「個人の尊厳は、いかなる国家利益や宗教的教義よりも優先される」と宣言されている。
 
だがこれは私の考えであるが、本当にそれでよいのか、との疑問を挟む余地を与えてほしいと願っている。本当に人権は最優先であるのか。それは哲学的には、その証明ができていない点で問題がある。宗教的には、神との契約を第一にする、と口にするキリスト教が、人権こそ第一だ、と宣言することの問題がある。そして、そもそも人権というものは、いまなお蔑ろにされ続けているし、私たちの感覚が麻痺するほどに、人権が潰されることが当然視されており、そのことに気づきもせず、当たり前のこととしてスルーしている問題がある。
 
あなたの生活で、あなたの人権は、本当に大切にされているのだろうか。ハラスメントに耐え、不当な仕打ちを受けてもどこにも訴えることができていないのではないか。あなたから少し離れてもいい。日本国憲法は、天皇や皇族について、人権を認めていないのである。つまり、いまなお天皇は現人神とされているのである。
 
それはそうと、先の文章である。丹羽宣子さんの「解放と抑圧のあいだで」という短い論文なのだが、サブタイトルが「宗教のリアリティをどのように見ればいいのか」となっている。「無宗教」を公言しながらも、生活の中に宗教色がかなり色濃く入り込んでいて、結婚式や葬儀の仕方や、墓守の方法には明らかに宗教が関わっている。生活や、人間関係にそれは馴染んでいるし、「宗教的な共同体の感覚」がそこにある。たとえそれを「信仰」とは呼ばないにしても、「人と人をつなぎ、ときに縛る力」として働いている。
 
宗教は、アブナイとか良い面があるとか言われるが、宗教は「良い顔」と「悪い顔」と、どちらもゆいしている。その宗教だが、「宗教は個人の問題」と私たちはしばしば当たり前のように考える。だがそれは、歴史的につくられた感覚である。それまで宗教は、「政治・経済・道徳・教育」の源泉であった。だが近代には、科学も何も、宗教から自立してゆく。
 
宗教はそのとき、衰退したのではない。消えるのではない。「宗教が培ってきた語彙・象徴・規範」は、依然として「生活の細部を編成し続けてい」る。その「良い」とされる面は、「規範的な正しさ」を帯びている上に、それはすでに慣習として受け継がれてきているのである。それは「誰かが決めたこと」ではなく、「もとからそうであること」として受け止められる。
 
それは善意としてまず、あった。だが、ふとそれに抑圧的な力があることが意識されることがある。信じているものを、いざ疑おうとしたときである。それは、「通常の批判よりずっと高いコストを要求する」ものなのだ。「語彙が善意をまとい、愛情の関係を媒介して規範として作動する」のが現実であり、筆者はそこに「牧師夫人」の例を挙げている。
 
「隣人愛」や「赦し」のような言葉であっても、「その言葉が誰によって、どこで、誰に向かって用いられるのか」が重要なのではないか。そうした言葉を外部に向けて用いるときには、いたって善意に囲まれている。だが共同体内部に向けて適用するとき、「信仰共同体の秩序」は、もはや問い直すことを許さない絶対的なものとなっている。「和を乱す」「信仰が足りない」などと、取り上げられないのである。教会外の人へは「赦し」という語を美徳として使うが、内部へは厳しい義務や裁きのために使うのである。
 
筆者は、仏教での例を挙げ、「お坊さんの世界は男社会」と言うが「仏教は男社会」とは言わない。ここの区別が重要だそうで、それにより「内部批判」が可能になるのだという。「信仰の核心に立ち返ることで、制度や慣行を内側から問い直すような営み」があり得るのだという。そして結論づける。「問題は、宗教が「良いか悪いか」ではありません。同じ語彙が、どのような関係性のなかで、誰によって、誰に向かって使われるのかといった運用のあり方によって解放にも抑圧にもなり、あるいは変革の足がかりにもなる、ということです」と。
 
そしてまとめるような中で、注釈のように付け加える。「「献身」「家族を大切に」「赦し」といった語彙は、伝統教団・既成教団を含むあらゆる宗教共同体において善意として伝達されながら、抑圧の経験のねにもなり得ます」との指摘は重い。「同じ言葉が、誰によって、どこで、誰に向かって使われるのか」という問いを手放さないことが必要な第一歩ではないか、と問いかけて、論じ終えていた。
 
現代の私たちが、「人権」や「民主主義」を、偶像にしていることは確実である。先に触れたことと関係するし、さらに言葉を連ねればまたいろいろ明らかにしなければならないことがあるが、いまは避けるべきだろう。ただ、この論文が規範的な言葉を偶像化していることを浮き彫りにしたことは、心ある人に、そうしたことに気づくきっかけを拓いてくれたのではないか、と期待している。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります