自分が強盗ではないだろうか

2026年8月17日

イエスはエルサレムの都に入った。これからの一週間の、一日一日を刻むように紹介し、マルコ伝が、一つひとつの出来事を丁寧に描いていることを指摘する。そして、それは声に出して読むとよい、と勧める。
 
ちょうどいま、『声の文化と文字の文化』(ウォルター・J.オング)を読んでいる。書く文字をもたない文化は、現在にもあるわけだし、むしろ世界の文化からすればそちらの方が主流であるのだが、これらの違いは、従来からももちろん指摘されていた。聖書にしても、最初は「読む」ものではなく、「聞く」ものだった、というわけである。ただ、その原理的な、決定的な相違について、これほど系統だって、細かく論じたものはそうそうないであろう。
 
説教者は、声に出すことで、それまで「聞こえなかった音」が聞こえてくる、という話し方をした。イエスの声が、そしてイエスが放った音が、感覚できるであろうというのである。イエスの「声」については、以前いろいろ考えたことがある。背後に岩のあるようなところで話したならば、反響して遠くまで聞こえたかもしれないが、湖岸や舟の上で話したときにはどうだったのだろう、などと考えた。
 
マルコ伝の連続講解説教は11章に入り、まず実のならないいちじくの木を、いわば呪った話と、それからイエスが神殿で大立ち回りをした話である。どちらも、不可解であり、不愉快なエピソードだ、と説教者は口にした。
 
いちじくの件は、そもそもいちじくの実がなる時季ではなかった点が気になるわけだ。盛夏の頃に実るタイプと、秋に実るタイプとがあるが、過越祭の春先に実がならないと言って呪うというのは、どだい無理な要求である。
 
説教者は、この問題についてはそれ以上深めることなく、後半の件について語り進めたのではあったが、私の心は少し立ち止まっていた。何かを象徴しているように思えて仕方がなかったからである。
 
まず、イエスは空腹を覚えている。十字架の上で「渇く」と言ったのは、神の愛や苦難などを併せもつ響きであったかもしれないが、ここでの空腹は、現実のイスラエルの宗教に対する物足りなさのようなものが関わっているように思われたのである。いちじくは、時にイスラエルの民、特にその霊的な姿を象徴するものとして持ち出されることがある。その意味がここにあるとすれば、これまでイスラエルの民を導いてきたつもりの政治と宗教、特にその宗教的な指導についての不満、さらに言えばその終了を宣言するような厳しいお達しであった、と言えるような気がしてならないのである。
 
もうこれからはいつまでも、従来のユダヤを導いてきたような宗教的あり方は通用しない。ここからは、イエスがもたらす救いによる統治が、神の国が始まるのだ、という宣言のように私は受け止めていた。そしてその意味でいちじく事件を見ることによって、神殿での暴力めいた振る舞いと、その後いちじくの木が枯れていたという件とが、ひとつの筋でつながるような気がしたのである。
 
さて、牧会を営む立場にもある説教者としては、現実の教会のあり方がどうしても気になる。以後、その点について、どこか弁明も加えながらも、信徒たちを逃げ場のない窮地に追い込んでゆく。これだけ厳しい指摘をする説教というものを語るには、勇気が必要だっただろうと思う。実に厳しい神の言葉を突きつける。私はそれは必要なことだと思うし、それを必要なこととして受け止めるだけの霊的な状態をもつ、この教会の信徒を素晴らしいと思った。そしてそのような信徒の信仰を育んできたのは、間違いなくこれまでのこの説教者の故である。それを「教育」と呼んでよいかどうかは分からないのだが、説教者の語る説教が真実であり続けていることの証左であるだろう、と信じて止まないのである。
 
急ぎすぎた。ゆっくりと振り返ろう。まず、教会のバザーについて、ここでのイエスの指摘した商売人への非難を意識して、会堂で行うことへの規制を弁明するのだった。それと同時に、イエスが非難した商売人たちも、実のところ私利私欲のためというよりも、神殿に詣でる人々のために役立つことをしていた、という点にもきちんと触れておく。神殿に献げる犠牲の動物や、自ら「神の子」と称するローマ皇帝の刻まれた硬貨を、ユダヤの神殿に相応しい硬貨に両替することは、どうしても必要な仕事だったのである。
 
それは、人間の単なる欲望を問題にしているのではない、という捉え方である。私は、その考え方を肯定する。実のところ、この礼拝説教は、私が常々口にしていることと重なってくることではないか、と思えて仕方がなかったのである。そのことは、また追々明らかにしてゆくことにしよう。
 
イエスは、何かをされたわけではない。神殿の境内に入ると、商売人を追い出し始め、両替人関係の椅子を倒すようなことをしたのだった。「また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった」という表現も目を惹く。
 
私の家は、すべての民の/祈りの家と呼ばれる。
あなたがたは/それを強盗の巣にしてしまった。
 
イエスはこの二つの点を対比させて強調していた。前者は、イザヤ書56:7からであろう。イエスは、神殿は「祈りの家」のはずではないか、と吠える。これを聞いた祭司長たちや律法学者たちは、「イエスをどのようにして殺そうかと謀った」という。これが暗殺を企てるような性質のものではなく、法的に訴えて裁判で死刑にする、という方針を示していることを説教者は説明した。
 
確かに、気に食わない相手を暴力で殺す、というのもひとつの人間の罪である。明治時代になってから、壇上の政治家を襲うといったことは、幾度もあったし、暗殺された有名政治家もたくさんいる。軍部のクーデターも、そういうことだったと言える。それは、自分たちこそ正義であり、ある権力者を消し去ることによって、自らの政治的な力を世に及ぼすためであった。何かしら憎しみから殺すというよりは、自らの正義を実現するために、ひとの命を奪うという許されざる暴力を行うのである。
 
では祭司長たちや律法学者たちはどうだったのか。自ら暴力振るえば、邪魔者を消すという目的の一部は達成できるかもしれない。だが、それだと「殺すな」の掟に抵触するわけで、正義を為したとは見られない可能性がある。そこで、正義の法廷で、イエスを裁きにかけて、イエスは悪だという事態の中に陥れることが得策であると思われた。これだと祭司長たちや律法学者たちは終始正義であり続けられるし、対象となってイエスは永遠に悪を背負った形でこの世から消し去られることになる。
 
説教者は、「祈りの家」が「すべての民の」ものであることに触れ、対立と分断の世界を乗り越えるべきことを提示した。かつて日本人もそういう中で、自分を担ぎ上げることをしていたが、いまもなお世界で同様のことは実のところ起こっているし、ますます悪質にさえなっているとも言えるように見える。違う民族を滅ぼすことが、悪者ハマン程度のちゃちな事件ではなく、本当に実現可能になったこの世界で、懸念すべきこととして警戒しなければならないこととなっているのである。
 
そこで、説教の後半は、「強盗の巣」という、イエスの指摘したもうひとつの陰の部分を取り上げる。これがとても辛辣であり、だが私たちが聞かねばならなかった大切なメッセージであった。
 
私の名が呼ばれるこの神殿は、あなたがたの目には盗賊たちの巣窟となったのか。私にはそう見える――主の仰せ。(エレミヤ7:11)
 
それは「こそ泥」ではない。「強盗」ないし「盗賊」なのであって、自分のすることにびくびくしている小心者ではない。確信をもち、計画を立てて、ひとを殺して憚らない。どんなにひとを傷つけても平気なのであり、自分の利益、自分の目的を達成するならば、何をしてもよいのだ、と自分で自分を立ちあがらせる。
 
説教者は、その「強盗」を様々な形で形容して目の前に示した。こうしたイラストレーションは、説教に生き生きとした命を与える。
 
思い通りに動かない者を動かそうとするのは、強盗。
苦しむ人の気持ちが分からないのは、強盗。自分をこそ正しい、とするのも強盗。
だが何か自分に不利な事態を見ると、こそこそと逃げ込んでゆくところが、強盗の巣。
 
私たちは救われているのだぞ、と自負して止まないのが、強盗。
その強盗は、「これは主の神殿、主の神殿、主の神殿だ」(エレミヤ7:4)と、なんとかの一つ覚えのように自分が正義であることを証拠立てる言葉を繰り返す。まるで、「主」という名前を、自分を正当化するための道具として扱うかのように。否、実際そうしているのだ。
 
説教者は、それが昔話でないことを明言する。自分も牧師だが、「おまえも強盗ではないか」と迫られたらどうするだろうか、と。こうして礼拝を司っていながらも、その礼拝をすら、強盗の巣窟にしているのではあるまいか。そう自問するのである。
 
さらに説教者は指摘の手を止めない。「私は救われている」「私は赦されている」「おまえはそのままでいい、と神は言っている」――もしも礼拝が、そのような言葉で安易な安心を提供し、育むことになるのであるならば、牧師は正に、強盗を生み出していることになるのではないのか。
 
たとえそれが「主の名」で呼ばれていようとも、これでは教会がすっかり「強盗の巣窟」(エレミヤ7:11)と化していることになりはしないか。
 
もちろん、教会内を戒めているだけの話ではない。この世界が、社会が、そしてこの時代の精神が、この「強盗」と同じ論理に立っているのではないか、教会とキリスト者は、見張っている必要があるに違いない。悪魔にとっては、軟弱な神との関係にある者を、簡単に悪魔の領域に引きずり込む程度の力を示すのは造作もないことなのだ。
 
説教者は他の観点についても心に刺さる指摘をしている。一方では、世の論理の誤りや、無駄な争いの背景について、適切に指摘することを行う。それと同時に、キリスト者や教会が、正義を自認できる立場ではない、ということを厳しく追及するのだ。自分は聖書を読んでいる、という自負と自己義認を根拠にして、自分が正義だ、と思い込み、そのように振る舞うことを、キリスト者はやりがちなのだ。そう、これまでのキリスト教の歴史を振り返れば、それはもはや論じるような手間暇も必要ないほどのことなのである。
 
そしてまた、主の祈りにある「罪の赦し」が如何に大切なことであるか、についても逸話と共に説教者は語った。イエスが狼藉めいた行動に出たのは、商売人や両替人のいる場所であった。それは、推定だが、500メートル四方の空間の中の一角に過ぎない、とも見られている。別の人の見立てでは、せいぜい400メートル四方くらいのものではないか、とも言われるが、その内の狭い空間だけであっても、それは「強盗の巣」に成り下がろうとしていたことが、イエスはたまらなかったのである。イエスには、ユダヤの指導者の思惑通りに運ぶ事務的な宗教的態度が、実りをもたらさないイスラエルの姿と重なって見えていたのではないか。イスラエルの宗教は、もはや「罪の赦し」を伴っていなかったのである。形だけの儀式はある。だが、指導者自身が、「罪の赦し」を語れないほどに、自らの「罪」を意識することから離れていたのだ。
 
そしてそれは、その後の「教会」の歴史の中にも、問われなければならないことである。現在、戦争の多くは、キリスト教を信奉すると称する指導者の手によって行われている。自衛ということを安易には論じたくないが、キリストと神の名を掲げて、自らの攻撃を正当化することが、平然と行われている。
 
今日の説教にも登場したある方が、端的に指摘している。「殺す」という行為は、「自分が正義だ」という信念により可能になる。否、それらは全く同じ一つのことなのだ。
 
「強盗」は、表向き善人の顔をして、実のところ確信犯的に他人と世界を破壊する。従来のイスラエルの宗教ですら、それを逃れることができなかった。説教者はその「強盗」が、マルコ伝には後2回登場することを指摘する。一つは、イエスを逮捕しようと当局が迫ってきたときに、まるで強盗に対するように剣や棒を持って来たのか、とイエスがたとえのように言う場面である。そしてもうひとつは、イエスと共に2人の「強盗」が、イエスの左右に十字架につけられた、という場面の説明である。
 
イエスが十字架につけられる。「強盗」と共に、どんな犯罪の故にそうなったのか、を万人に晒すような形をとる。そのために弟子たちは、そして私たちは、そのような目に遭わずに済んだ。「強盗」は私たちの姿であったはずなのに、私たちをイエスは「強盗」にはさせなかった。私たちが、このイエスを蔑ろにできるだろうか。してよいのだろうか。
 
私たちは、確かに何もできない。このイエスの姿に心を動かされたとしても、それで私たちが変わることができるわけではない。そう簡単に、罪や悪から解き放たれるわけではない。私たちには忍耐が必要である。だが、イエス・キリストが限りない忍耐の内にあったということを、私たちの希望とすることはできないだろうか。
 
キリスト教会が、キリスト教国家が、「強盗」を自分に無縁な者、悪人の行く末だ、と決めつけている自分を知ることができないと、世界はいっそう崩れてゆくだろうし、イエスの福音を知ったことにはならないのではないか。
 
礼拝の前に、Eテレで、「日曜美術館」が放送されていた。「長崎 祈りのかたち 被爆の記憶を刻む美」という題で、先週の再放送だったが、私はいろいろあってその録画をまだ見ていなかったため、この朝が初めて見る機会となった。一週間の見逃しの機会ももう終了してしまったが、カトリックの街の被爆という、デリケートなテーマをも踏まえ、信徒の皆さんの一筋な熱意もまた、圧倒的な力を伴って、こちらへ迫ってきた。被爆マリアを見ているうちに、私の涙腺が緩んだ。カトリックだからマリア像には特別な思い入れがあるのだろうとは思うが、生き残った信徒たちからすれば、マリア像が代わりに被爆した、ということになり、その姿が、いま目に見えるそれであった。
 
分断とか正義とかを、口に出している間は、まだ実は何も起こっていない。そのうち、そうした言葉を出すことさえ、できなくなってしまっているかもしれないのだ。「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」というイエスの言葉は、その代わりにイエスのもたらす救いと福音が来るのだ、という将来を前提として発されたものだと思う。それが来ない可能性をも踏まえながら、私たち自身が「強盗の巣」をせっせとこしらえていないかどうか、見張っていなければならないことを強く思わされた。それは、まず自分自身を省みるところから始めなければならない。さしあたり、私から。そしてできれば、お読みくださったあなたから。



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