(列王記上19:1-21, マタイ6:4,6,18)
主は言われた。「出て来て、この山中で主の前に立ちなさい。」主が通り過ぎて行かれると、主の前で非常に激しい風が山を裂き、岩を砕いた。しかし、その風の中に主はおられなかった。風の後に地震があった。しかし、その地震の中に主はおられなかった。地震の後に火があった。しかし、その火の中に主はおられなかった。火の後に、かすかにささやく声があった。(列王記上19:11-12)
◆エリヤとエリシャ
今回から幾度か、預言者エリシャの物語から神の心を身に受けようと思います。エリシャ、そう聞いても、誰だっけ、とお思いの方がいるかもしれません。預言書の名前にもありませんし、エリヤのように、新約聖書にも登場する重要な預言者というわけでもありません。エリシャという預言者は、かなり地味だと思います。礼拝説教でもあまり扱われることがありません。もったいないと思います。
実は新約聖書で、一度だけ、このエリシャの名前が登場しています。ルカ伝4:27です。イエスが、異邦人が救われたことを宣言する場面で、「預言者エリシャの時代」と、時代設定に名前が挙げられたことが唯一の登場です。やはり地味です。
預言者エリヤは、新約聖書で洗礼者ヨハネがそれになぞらえられるほど、救い主の先導者のようにマラキ書で描かれていました。十字架上のイエスが何か口にしていると、エリヤを呼んでいる、と人々が恐れていました。その活動は、列王記上にドラマチックに描かれています。
そのエリヤの弟子がエリシャです。エリヤの後継者となりました。エリヤは、どちらかというと、アハブ王との対決のように、国を左右する公的な場面で活躍しました。イスラエルの運命を担うような活動がありました。バアルの預言者を、言葉は悪いですが、退治したのが派手な活躍だったかもしれません。
それに対してエリシャは、どちらかというと、個人を相手に、あるいは預言者たち身内の中で、奇蹟を起こしたように見られることがあります。けれども、公にも大きな影響を与えています。イスラエルのためにエフーという新しい王を立て、偶像の預言者たちをそのエフーが一掃することになります。アラムに攻められる中でヨアシュ王に、打破の可能性を図りますが、これは王の弱きのために不十分なものとなりました。
私から見れば、エリシャという預言者は、実に魅力的で、激しい気性をもち、奇蹟のパワーにしても、むしろエリヤ以上ではないかとすら思います。そして、その奇蹟を一つひとつ見つめていると、これはイエスの姿に近いのではないか、とまで思わされます。いえ、逆にイエスが、エリシャの働きを知っていて、それを実践したように見える、と言った方が適切かもしれません。
私はエリシャに興味をもち、一度小説化したことがあります。たいへん長い物語となりましたが、いつかこのような場で、お届けできたら、と願っています。
◆勝利と絶望
エリシャの全貌について、一度にお話しすることは不可能です。しかも長きにわたって記述されているため、多少抜粋的になることをお許し下さい。その一コマ一コマを、メッセージという形で辿ろうと計画しています。計画倒れにならないか不安もありますが、気長にお付き合いくだされば幸いです。
今日は、エリシャがエリヤと出会う場面を扱いますが、どう見てもまだこれはエリヤが主役となっています。エリヤの一から十までをお伝えすることはいまはできませんが、二人の出会いの直前の場面にだけは触れておくべきだろうと思います。そして、今日はやはりエリヤを中心にお話しすることになるはずです。
エリヤはアハブ王に憎まれていました。しかし、よく見るとアハブ王はエリヤをただ毛嫌いしていたというのではなさそうです。イスラエル王国の王アハブは、王妃として、フェニキア出身の異邦人イゼベルを迎えていました。イゼベルは宮殿にも異教の巣をつくり、エリヤに言わせれば、イスラエルに偶像崇拝をもちこみ、はびこらせた張本人でした。しかも、政治的には有能でありながらどこか優柔不断のようにも描かれるアハブ王を、陰からけしかけて大胆な悪事をもさせるように操っているのは、聖書記者からすれば、間違いなくイゼベルでした。
イゼベル率いるバアルの預言者。エリヤはカルメル山で、数百名の異教の預言者たちを招き、対決をします。生贄を火で焼き尽くす現象が起きたら、それが本当の神だ。敵はいくら踊っても何も起こりません。エリヤの番になりました。生贄を水浸しにしましたが、エリヤが祈ると、たちどころに天から火が降りました。
これで、周囲で様子を窺っていた民衆も、さすがにエリヤを信じます。さあバアルの預言者を殺せ。民衆の力ですべて殺戮します。なんと残酷な描写なのでしょう。しかし、この記事から、私たちが自分の中の偶像崇拝を一掃しなければならないことを弁えるくらいで、いまは勘弁して戴きましょう。
むしろ、それまではバアルを拝んでいたのに、エリヤが勝つとバアル信仰を破壊しようと動いた民衆の方が、私は怖くてたまりません。ひとりでは何もできないのに、誰かが動き出すと、同じように一斉に動き始める。多数決の原則がある限り、世の中は一度にどうとでも動くことでしょう。独裁でも、戦争でも。
ところが今日お開きした章の前半で、この殺戮事件の顛末を、アハズ王が妻のイゼベルに伝えました。イゼベルは怒り心頭に発し、エリヤの奴をぶっ殺す、と吠えます。やはりアハブ王は、どこか弱気で滑稽に描かれており、妻イゼベルに操られているようにしか見えません。
どうにもこのアハブ王とエリヤとの対立は、結局ずっとエリヤとイゼベルとが対決していたようなものでしょう。敵を壊滅した直後のエリヤでしたが、勝利の余韻に浸る間もなく、このイゼベルの怒りを知って、すっかり怯えてしまいます。エリヤは、もう人生が嫌になって、さまよい歩くのです。以前にも、そういうことが実はあったのですが……。
◆何をしているのか
「エリヤは恐れを抱き、命を守ろうと直ちに逃れて、ユダのベエル・シェバに行き着いた」のでしたが、従者をもそこに残し、以後一人で歩き続けます。「エリヤは自分の命が絶えるのを願って」、主に文句を垂れます。「主よ、もうたくさんです。私の命を取ってください」と。
これに対して、主は応えます。食糧を与えます。食べれば命が支えられますし、元気も出ます。「起きて食べなさい。この道のりは耐え難いほど長いのだから」と励まします。でも、「この道のり」とは何でしょう。その道は、私たちの目の前までも続き、ここからさらに先に続いているような気がしてなりません。
エリヤは、四十日四十夜歩き通し、神の山と呼ばれるホレブに着きます。そこにあった洞穴に入り、夜を過ごしました。このとき、エリヤが実は気持ちが落ちこんでいたことは、この後の展開で分かります。体はさしあたり元気になりましたが、精神的には立ち上がれないでいました。あれだけの活躍をした後なのです。主の火を呼び起こす、凄い信仰をもち、神の言葉を堂々と王を相手にもぶつけていた預言者なのです。でも直後に、完全に鬱状態に陥るのです。人間の脆さを知ります。同時に、日ごろいくら信仰深い姿勢をもち、強気な態度でいるような人も、このような落ち込みと、表裏一体になっているということが分かります。
主はエリヤに問う。「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」と。重い問いです。創世記にも似たような問いかけがありました。私にとっては、神との決定的な出合いとなる場面でした。
主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。(創世記3:9,口語訳)
ここではエリヤが、何をしているのか、と問われました。単なる疑問文ではありません。神は人に問うのです。人が、自分自身を省みることを促す問いです。これはとても大切な事件です。神は、人に、自分のことをどう見ているか、問うのです。自己認識が問われています。自分に甘く、自分で自分を許すような姿勢に対しては、神が厳しく問い詰めてくるであろう、そんな場面が作られます。
エリヤは答えます。自分が神に熱心に仕えてきたこと、人々が主を捨て、主の預言者たちを殺したこと、自分一人が生き残る、いま正に殺されようとしているのだ、と。バアルの預言者を血祭りに上げたことなど、まるで覚えていないかのようです。そして、自分の命が狙われていることについての、ただの泣き言のようにすら聞こえます。
11:主は言われた。「出て来て、この山中で主の前に立ちなさい。」主が通り過ぎて行かれると、主の前で非常に激しい風が山を裂き、岩を砕いた。しかし、その風の中に主はおられなかった。風の後に地震があった。しかし、その地震の中に主はおられなかった。
12:地震の後に火があった。しかし、その火の中に主はおられなかった。火の後に、かすかにささやく声があった。
ここで何をしているのか。エリヤは問われました。泣き言を言うエリヤに、神は自らを顕します。エリヤの感覚したのは、風であり、地震であり、火でした。中東地域での自然の猛威です。そこには、雨は数えられていません。確かに雨季の雨が乾いた坂道を襲うのは恐ろしいことですが、せいぜい雨季だけです。乾いた地に風が吹きます。乾いた地を揺らす地震も起こります。乾いた地に、一旦火が起こると止めることができません。こうした力強い自然現象の中に主がいる、とエリヤが考えたことも、当たり前かもしれません。
どうか頭の中で結構ですから、映像にしてみてください。もう一度辿りましょう。主はまずエリヤに「立て」と言われました。「主の前に立て」です。主は脇を過ぎ越されます。エジプトで、神のしるしのある家には災いをもたらさず過ぎ越したかのように、エリヤには害を与えません。岩を砕く風がありました。エリヤは風の中に主がいたのかと振り向きます。しかし、風の中に主はおられません。次に、地が揺れました。エリヤは地震の中に主がいたかと目を凝らしましたが、地震の中に主はおられませんでした。最後に、火が起こりました。エリヤは、モーセが主と火の中で出会ったように、そこに主がおられるのかとときめきました。が、火の中にもやはり主はおらせませんでした。
主は、いかに激しくとも自然現象の中にいたのではなかったのです。主は、どこかに隠れています。派手な出来事が、主のいるところではありませんでした。
◆静かなる細き声
主が隠れている。主は隠れたところにおられる。どこかで聞いたことがあるフレーズです。聖書をご存じであれば、新約聖書のマタイ伝の、有名な山上の説教にあったのを思い起こす方から多いのではないかと思います。それは、施し・祈り・断食について、人に見せびらかすようにすることについて、イエスが徹底的に批判する脈絡の中で登場しました。三つの事柄について語るのですが、それぞれのケースをまとめるときに、幾度も繰り返し言及する言葉なのでした。
あなたの施しを隠すためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。(マタイ6:4)
あなたが祈るときは、奥の部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。(マタイ6:6)
あなたの断食を人に見られることなく、隠れた所におられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。(マタイ6:18)
人に見せつけることで、人の尊敬を集めようとする。私たちがよくやる方法です。日本人ならば、自分はとてもできません、と遠慮しがちにするのが美徳だという文化を当然としていますが、自分にはとても、と言うことが、むしろ余計に自分をもっと褒めてほしい、という態度に見えることもあります。
「いえいえ、どうも不信仰なものでして」と頭を掻くとき、私たちは相手から「そんなことはありませんよ」と当然言われるものだという前提で、謙虚な振りをしています。その証拠に、相手から「ええ、本当に不信仰ですよ」と突きつけられると、ムカツクのではないでしょう。そういう態度を、「謙遜傲慢」と呼んだ牧師がいました。全くその通りです。
イエスは、そういう態度ではいけない、ということを弟子たちに教えようとしたのでしょう。しかし、ただ目立つなとか我慢せよとか言うのではなくて、「隠れたところにおられる父」に気づかせるという方法をとりました。
私たちは、善いことをすべきでしょう。けれども、それを宣伝の材料に使うようなことはしたくないのです。と同時に、悪いことについては、隠すのが上手です。本能的に、自分の悪いところは隠します。人に知られたくないという振る舞いをします。一度でも知られてしまったら、たちまちその悪評が広がることを知っていますから、隠して秘密にしておきたいと考えています。しかし、隠れたところにおられる神が、それを知らないはずがありません。パウロも、次のようなことを言っています。
このことは、私の福音によれば、神が人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。(ローマ2:16)
私たちは、善いことについては、派手に見せつけたい心理をもっています。施しや祈りや断食については、イエスは律法学者やファリサイ派の人々を標的にして、半ば揶揄するかのように非難しました。如何にも派手な振る舞いをすることで、人からもう報いを得てしまっているのだから、神からの報いを受ける必要がないだろう、と平然と告知しました。
神は、風や地震や火という、自然の強大な力による現象の中を探して見出すものではありませんでした。どうして災害を神はもたらして、罪なき者を殺すのか、という叫びそのものを私は決して軽く扱いませんが、その中に神を見出し、神と出合おうことを挙げるよりは、か細い声の中に、神を知ることができたら、と願います。
山本七平さんの名著のひとつに、『静かなる細き声』というものがあります。このエリヤの場面に由来するタイトルです。自伝的なエッセイですが、自分の生涯の歩みが、細き声に呼ばれ、支えられてきたことを告白するものでした。
◆見限られたエリヤ
では、主の声を聞いたエリヤは、立ち直ったのでしょうか。いいえ。エリヤのふぬけた有様は、これで終わりはしませんでした。
13:それを聞くとエリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。すると声があった。「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか。」
デジャヴかと思うような、先ほどと同じ光景です。そして、また先ほどと同じ泣き言を繰り返すのです。情けないほどに、弱り切った魂を呈します。
神はここで、エリヤに使命を与えます。いくつかのミッションを、次々と繰り出します。私は、このとき主は、エリヤを見限ったのではないか、と想像します。神はエリヤに、次のように言ったのです。
15:主はエリヤに言われた。「来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かいなさい。そこに着いたら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王としなさい。
16:また、ニムシの子イエフに油を注いで、イスラエルの王としなさい。さらに、アベル・メホラ出身のシャファトの子エリシャに油を注ぎ、あなたに代わる預言者としなさい。
17:ハザエルの剣を逃れた者はイエフが殺し、イエフの剣を逃れた者はエリシャが殺すであろう。
18:私はイスラエルに七千人を残す。すべて、バアルに膝をかがめず、これに口づけをしなかった者である。」
アラムは、イスラエルに隣接する、目の上の瘤のような存在でした。言語的には近かったのですが、イスラエルそのものとは信仰を異としますから、イスラエルにとっては、しばしば敵になりました。しかしまた、アラムも大国ではなかったので、さらなる大国に対抗するためには、互いに同盟を結ばなくてはならないこともありました。
そのアラムに対しても、イスラエルの預言者は関わるというのが驚きです。それも、イスラエルが今後どうなるかという運命に関わっていますから、神はエリヤに、政治的な使命を教えたのでしょう。また、イスラエルの王もそれに応じて新たに立てなければなりません。いろいろと派手な働きをするイエフです。このイエフは、考古学的にも、その存在が確認されています。
そして、エリヤの次の預言者を用意していることも知らせます。それがエリシャです。神は、エリヤの次の預言者、後継者をもう用意したのです。引き継ぎをせよ、という勢いです。
列王記上は、20章から22章にかけて、このエリヤの残務処理を描きます。イゼベルに唆されたアハブ王の最後の悪事を暴き、アハブの時代は終わります。イエフへの油注ぎは、エ理者の時代に委ねられましたから、このときの神の指示は、少しアレンジされた形で実現することになりましたが、概ね、言われたことは現実のものとなってゆきます。
そして、神はイスラエルに七千人を残す、と約束してくれました。励みになります。どれだけの伝道者が、異教の偶像に囲まれた中で神の召命を受けて立ち上がるとき、この言葉によって勇気づけられたことでしょう。私も確かに、そのような証しを聞いたことがあります。
◆エリシャ登場
エリヤは立ち上がります。するとすぐに、エリシャと出合います。主は、「あなたに代わる預言者」と言いました。それをエリヤは忘れてはいません。主は、「イエフの剣を逃れた者はエリシャが殺す」とも付け加えていました。これが何を意味するのか、をエリヤが理解していたのかどうか、分かりません。ただ、後継者エリシャは、言うなればラスボスのような役割を果たすということなのでしょう。
19:エリヤはそこを去って行くと、シャファトの子エリシャがいるのを見かけた。エリシャは十二軛の牛を前に畑を耕していたが、彼は十二番目の牛と共にいた。エリヤはそのそばを通り過ぎるとき、自分の外套をエリシャに投げかけた。
20:するとエリシャは、牛を打ち捨て、エリヤの後を追い、「どうか父と母に別れの口づけをさせてください。それからあなたに従います」と言った。エリヤは、「行って来なさい。私があなたに何をしたというのか」と答えた。
21:エリシャはエリヤを残して帰ると、一軛の牛を引いて来て屠り、牛の軛を燃やしてその肉を調理し、人々に振る舞って食べさせた。それから、直ちにエリヤに従い、彼に仕えた。
エリシャは特別な人間ではありませんでした。普通に牛を操る農民だったようです。イスラエルの民に慕われるダビデ王は、元羊飼いでした。イスラエルに於いて、農耕は、過酷な労働をイメージさせ、牧畜は祝福を思わせます。恐らく創世記の、カインとアベルの物語がそれを基にしているのだろうと思われます。神は牧畜を営むアベルの献げ物を喜び、農作物を献げたカインをよしとしなかったのです。
牛が十二軛だというのは、イスラエルの十二部族を含意しているものと思われます。イスラエルを率いる、あるいはイスラエルに多大な影響を与える人物となるということです。エリヤはこの男に、外套を投げました。
外套――言葉は廃れてゆきます。ロシア文学の先駆けたるゴーゴリの小説が読まれないのも仕方がないかもしれませんが、教室でこの言葉を知る小中学生には出合ったことがありません。尋ねるのは、理科でイカの「外套膜」の名前を説明するときです。さて「外套」とは何でしょう、と。しかしカタカナ外来語の「コート」と言えば、全員が肯きます。日本語はどうなるのでしょう。文学は、そして聖書は、読まれ続けるのでしょうか。
さて、外套を投げたエリヤ。後でこの外套がひとつの重要なアイテムになります。しかし新約の徒は、「キリストを着る」という表現をも頭に思い浮かべて然るべきです。エリシャはエリヤの外套を着せられたことで、確かに後継者となったのではありますが、神の力を受けた瞬間でもあったのだと思います。
ただここでは、エリシャは親に別れを告げに戻ることを願い出て、エリヤに許されました。新約の福音書からすると、家族に別れを求めた弟子に対して、イエスは「神の国にふさわしくない」(ルカ9:62)と言っています。この温度差には何か理由があるのでしょうが、エリヤが生温いのではなく、「あなたの父と母を敬いなさい」という十戒の言葉を守っているためであるような気がします。
エリヤは「行って来なさい。私があなたに何をしたというのか」と言いましたが、これは一種の決まり文句だったのかもしれません。エリシャは牛を屠り、別れの儀式をしたものと思われます。そのことは、「直ちにエリヤに従い、彼に仕えた」という言葉と何ら矛盾するものではないと思います。
エリシャが預言者として成長してゆく点については、また機会を改めてお話をします。
◆立ち直るために
こうして、エリヤは立ち直りました。
15:主はエリヤに言われた。「来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かいなさい。そこに着いたら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王としなさい。
16:また、ニムシの子イエフに油を注いで、イスラエルの王としなさい。さらに、アベル・メホラ出身のシャファトの子エリシャに油を注ぎ、あなたに代わる預言者としなさい。
17:ハザエルの剣を逃れた者はイエフが殺し、イエフの剣を逃れた者はエリシャが殺すであろう。
18:私はイスラエルに七千人を残す。すべて、バアルに膝をかがめず、これに口づけをしなかった者である。」
考えてみれば、この立ち直りは奇妙です。神が「何をしているのか」と問いかけても、宥め賺しても、エリヤはいじけていました。しかも同じふてくされ方が二度繰り返されました。エリヤは何を以て立ち上がることができたのでしょうか。神が命令してするべきことを与えたことから、何かが変わっています。自分にはまだ役割がある、という生き甲斐なのでしょうか。
でも、私が落ちこんでいるときのことを考えます。「あなたには使命があるのだよ。だからこれこれのことをしなさい」と言われたところで、私なら立ち直ることはできないでしょう。どうせ自分なんか、と相変わらずいじけているに違いありません。もし、神がエリヤに言った言葉の中で、私なら立ち直ることができるものがあるとするなら、次の言葉だという気がします。
18:私はイスラエルに七千人を残す。すべて、バアルに膝をかがめず、これに口づけをしなかった者である。
味方がいる。七千人の仲間がいる。もっと分かりやすく言うと、「あなたは独りではない」ということです。聖書はいつでも、神が「私はあなたと共にいる」と呼びかけ続けている本だと思います。「あなたがた」という表現を使うときもありますが、いつも共にいる神の約束を握りしめて、私たちはいつでも勇気を与えられるのだと思うのです。
伝道者が、やはり同じようにこの言葉を以て勇気づけられている姿を、幾度も見ました。中には、いつ殺されるかもしれない他宗教の人々が圧倒的に取り囲む国に行く宣教師もいました。日本国内であっても、キリスト教の基盤の薄い土地に踏み込むときに、そこに味方がいる、という神の約束は、縋り信じてゆきたいものだったのではないでしょうか。
確かにここでは、七千人という人間が味方に付くのかもしれません。それは、エリシャだけでなく、また伝道者だけでなく、教会にいる私たちにとっても同じでしょう。教会の背後に、周囲に、七千人という人間が待っているのでしょうか。
猛者となると、人間はすべて敵であり、ただ神さえ味方であればよい、という勇ましい信仰を口にする人もいます。でもそれは、実のところ人間を見ていないのではないか、とも思えます。確かによほど切羽詰まった情況では、辺りにいる人間のすべてが敵となるかもしれません。けれども、それはよほどの極端な場合でしょう。この世界で闘うというのは、教会だけが神の味方だ、というような態度でいることではないと常々思います。そのように考えるのは、むしろ傲慢なものです。
人と共に。これを心に置きながら、私たちは今日、エリヤからエリシャへと移る歴史の証人となりました。私たちにとり、七千人はどこにいるでしょうか。――もうあなたには、見えているはずです。