サイボーグ009 ネメシス
2026年8月14日

石ノ森章太郎の「サイボーグ009」がリメイクされている。新たな視点から、「サイボーグ009 ネメシス」として2026年夏、全3話が配信された。9人の個性溢れるサイボーグたちの、いわば「正義の戦士」に対して、9人のサイボーグ集団「ネメシス」が現れた。アンチと言えばアンチであるのだが、それは元来のサイボーグたちでは世界の正義が実現しないため、平和と正義のために悪を懲らすという仲間だった。
ネメシスたちは、世界の犯罪組織やテロ支援国家を次々と破壊する。009たちは彼らと対峙するが、まともに張り合うと、力としては勝てないほど彼らは強かった。
「ネメシス」というのはギリシア神話の女神であり、正義のために怒り、復讐を果たす者である。いまここでストーリーを紹介するという野暮なことはしないが、互いのチームの009同士が戦いの最中に激しく議論をする場面がある。
そこで論じられたのは「正義とは何か」であった。「正義」に反する不穏分子はすべて殺戮し滅ぼすのが当然の「正義」だと主張するネメシス側と、009たる島村ジョーとしてはただすべてを殺すのが正義ではない、とぶつける。だが相手は、そんなのは「甘い」ことだ、正義がそのうち実現する世を待つ間に、貧しい者は苦しみを長引かせられ、命絶えるのではないか、と迫る。いますぐ世の中を覆さなければならない、と暴力を是認する考え方である。
アニメだから、極論で手早く意見をぶつけるわけで、しかもヒーロー側の事情や、観客の情的な満足度という背景もあり、一応納得のいく形で終わることになるわけだが、この論点が、ひとつの「問い」として、私たちに考えるきっかけを与えてくれるならばよいのだが、と思う。
物語では当然主役は島村ジョーたちの方であるから、ネメシス側が無理を言っている、という前提で私たちは見ることになるだろう。しかし、私たち自身を振り返れば、実のところネメシス側と同じ発想を、していることに気づくはずである。実例はここで挙げない。世間でマスコミが取り上げた「悪」は、徹底的に糾弾する目で私たちは見ているのではないか。どうかすると、政府が指摘した「悪」は、とことん悪であるとSNSで責め、選挙もその延長上にあるとは言えないだろうか。
中には、自分がとにかく常に「正義」なのだ、としか考えない人間もいる。否、他人こそが悪であるという前提が揺るがない立場にいるところが、一番怖い。何々がどうだから、という理屈は後から付ける。どうあっても自分が正しいに決まっている。私たちの判断は、その殆どが、そうなっているのではないのか。
これこれが正しいに「決まっている」と私たちは安易に結論づける。そして自分が正しいことが証明されたと勝手に決めつけるのが、安易に用いられた「論破」という言葉の有様である。せめて、政治的な論議の中で、これが通用すると思っているような者を、多くの有権者は選んでしまったことくらいには、私たちは気づかなくてはならないのではないだろうか。