百分の一の論理

2026年8月10日

ひとは完全ではない。立派と思われる人にも、100のうち1の汚点があっても何もおかしくはない。そこで、その人物を面白くないと思う側からすれば、その1を指摘することによって、その人はダメだ、と敵は宣伝することがある。これにより、立派だと信じていた人々の価値を貶めようというわけだ。妬みの故であるかもしれない。立派な人だと思われる人を低くすることで、自分が偉くなると勘違いしている者もいる。
 
他方、ひとはすべてにおいて悪辣であるわけでもない。「蜘蛛の糸」のカンダタは、ただ一度蜘蛛を殺さず助けたことで、釈迦は一本の救いの糸を垂らしたのだった。しょうもない男やけど離れられんわ、という女が、だってひとつだけええとこあんねん、と惚れこんでしまうことがあるかもしれない。但し、ひとつ善人のような演技をわざとすることによって、他人を騙そうとする輩も世の中にはいる。
 
まことに世の中は、極端なことが起こり得るために、極端なケースを想定している必要がある場合もある。ただ、こうした心理的なからくりを心得ていることによって、幾らかでも被害を少なくすることはできるかもしれない。
 
たとえば、論敵を引きずり下ろすために、不備のある点をひとつ挙げて貶める。これで自分が勝ったと証明する。いわゆる「論破」の手口も見破ることができるかもしれない。相手の揚げ足をひとつ取れば価値だと高笑いするわけだ。そして、ものの陰から世間に対して暴言や誹謗中傷を吐いている輩もいる。正に自分こそ正義だ、と思い込んでいる。特に自分が世間から注目されることがない、と見ている場合は、いくらでも有名人をぼろかすに言い放つことができる(と思い込んでいる)。
 
常に自分こそ正しい。常に相手が間違っている。結局そうとでも考えておかないと、人間は自己主張などできないわけであるが、それにしても、自分は間違っているのではないか、とわずかでも考える「ゆとり」が欲しいものである。
 
否、それが「自分は罪人だ」という、救いの第一歩となる。逆に、それがなければ、聖書はただの昔話であり、お伽話である。幾らでもツッコミどころのある、空想話に過ぎない。だがひとたび自分の「罪」を知るとなると、人生は変わる。救いの喜びに生かされるようになるだろう。
 
「自分は間違っている」との気づき。それが神の前に出るということにもなるし、己れの罪を覚り、神の赦しを知る、ということにもなるだろう。罪には、百分の一の逃れもありやしない。だがそこに、救いというものが与えられるのである。キリスト教のエッセンスは、こういうところにある。



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