【メッセージ】ぶどうの木

2026年8月9日

(ヨハネ15:1-17, 箴言15:17)

私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。(ヨハネ15:5)
 
◆河野友美さん
 
5:私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。
 
比較的広く知られている言葉だと思われます。今日はシンプルに、ぶどうの木について受け止めてゆきます。日本には元々「ヤマブドウ」はありましたが、いま食べているようなブドウは、奈良時代に、シルクロードを経て持ち込まれたのではないか、と言われています。聖書で「たとえ」の中に登場したり、そもそもイスラエルの象徴として扱われたりしていることは知っていますが、植物としてのブドウについて、私の脳裏には、ある本がすぐに浮かんでくるのです。
 
久保田早紀という名で知られていた久米小百合さんが、30歳前に神学校に入ったときに夫から贈られた本であるそうです。本人の談として、ネットに書かれていました。そう言えば久保田早紀の鮮烈なデビュー曲「異邦人」には、サブタイトルがあって、「シルクロードのテーマ」というのですね。小百合さんは料理の話題が出た場面で、「この本のおかげで堅苦しいと思っていたキリスト教の聖典が、私にとっては心身にとってのグルメな一冊に変わりました」と、オシャレな言い方をしていました。
 
さて、その本ですが、1984年に初版が出ているから、もうずいぶん昔の本となってしまいました。『食べものからみた聖書』(日本基督教団出版局)という本です。いまAmazonで調べると、500円くらいで入手できるそうですから、関心をもたれた方は如何でしょうか。
 
著者はクリスチャンです。信仰に基づいた、食材――贖罪ではなく――にまつわる解説やエピソードがふんだんに書かれています。著者の名は、河野友美(こうのともみ)さん。1999年に70歳てせ亡くなったときには、とても残念に思いました。名前が女性的に見えますし、現に同じ漢字の名の女性で、モデルや料理研究家もいらっしゃるようです。が、著者は男性です。河野食品研究所を立ち上げた方だといいます。
 
◆ブドウの木と信仰
 
『食べものからみた聖書』にある「ブドウの木と信仰」(p36-)という項目から、幾らか引用させて戴こうと思います。断片的ですから、著者の伝えたいことが適切に伝わるかどうか分かりません。可能であれば実際に本を覗いてみてくだされば幸いです。
 
「植物の中で、これほどしぶといものは少ないと思われるものの一つである」と、ブドウについて知らせます。ブドウの産地は、「土壌が貧弱で耕作が困難」だからです。後で、肥沃な日本の土壌との比較も書かれていました。
 
そこで、「ブドウの木の根は、おどろくほど地中深く入っていく」のだそうです。植物も必死ですから、水を求めて、根が伸びてゆきます。そうしないと「よいブドウの実はならない」わけです。つまり、「根の浅いブドウは、よい実をつけることができない」ことになります。「ガラクタの土地に根を下ろし、二五メートルの地下まで達する」その姿に、著者は、「必死になって求めねばならないということ」を学びます。
 
しかも、「根の深いブドウは、なかなか枯れることはない」ことも指摘しています。そして、土壌の恵まれないヨーロッパで逞しく育つブドウの姿に、キリスト教の信仰につながるものを著者は感じるのです。
 
また、よいブドウの実をならせるためには、「冬の前に、かなり思い切った剪定をしないといけない」ことも伝えます。「かなり、ブドウの木はいじめる必要がある。こうすると、ますます、深い地中で強い根を張る」のだそうです。このことから、「信仰生活の中に、このようなきびしさがあるほど、信仰の根も深く入っていくのだろう」との感想を加えています。
 
なんとよい教訓なのでしょう。でも、ただ読者への教訓になるようにだけ意図して書かれてあるのではないように思います。ブドウの木が「信仰のありかたを示すような植物であった」ことによって、イスラエルの民自身が信仰というものについて教育されます。そのブドウの姿に、「神を信じる心がはぐくまれていったのではないか」とも漏らしていました。
 
ブドウは、イスラエルの象徴のように見られますが、イスラエルの信仰が、そして遂には聖書の成立そのものが、ブドウにより支えられている、という見方まで私たちに与えてくれているように思うのです。
 
◆ぶどうの木と枝
 
5:私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである
 
お開きした聖書箇所をもう一度全部、声を出して読み返したいくらいですが、聖書の中でも屈指の美しい教えの箇所だったのではないでしょうか。イエスが、弟子たちにいよいよ別れを告げる長い説教の中の一部です。
 
この初めのところは、英語で言えば「I am the vine.」と書かれてあると言えます。とても分かりやすい英語です。新約聖書の原文のギリシア語を覗いてみても、やはりそのような言い方になっています。ところがそれは、ギリシア語としては普通ではないのです。
 
ギリシア語では、「私」という主語を見せなくても、動詞の形で、主語が「私」であることが正確に示されます。日本語でも、一つひとつの文を「私は」「私が」とは言いませんね。言えばくどくなります。ギリシア語もそのように、わざわざ「私は」の語は通常出しません。「私は」を出してくるのは、何かよほどの意図があるか、強調している場合です。
 
ですから、「I am the vine.」に匹敵するギリシア語がここにあるのは、特別感が強いのです。この章の始まりには、「まことのぶどうの木」という言い方がなされていました。英語だとここもまた「I am the true vine.」という形になります。ぶどうの木がイスラエルの象徴のように見られているとするなら、これはその真実、本質を指しているものと見ることができます。イエスはイスラエルの真髄である、という勢いがそこにあります。
 
そして5節になると、「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である」という対比を示していましたから、英語だと「I am the vine: you the branches.」のように語が並んでいます。「あなたがた」については、「である」を当たり前のように省いているのです。ここは日本語では、その雰囲気が伝えきれません。「私がぶどうの木であーる。あなたがたは枝」というような響きなのです。
 
弟子たちの立ち位置は決まりました。「枝」です。イエスが「木」です。たぶん「木の幹」というくらいに捉えるとよいのでしょう。この「枝」であることははっきり表に出さずに、イエスは枝というメタファーについて、注目すべきことを最初に漏らしていました。
 
2:私につながっている枝で実を結ばないものはみな、父が取り除き、実を結ぶものはみな、もっと豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
4:私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。
 
こうして、その気配を十分匂わせておいてから、「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である」と突きつけました。ズドーンと響くように聞こえます。確かに枝は、木につながっていなければ実を結ぶはずがありません。そもそも命がないはずです。しかし、まるで枝が自由意志で木につながっていようか、どうしようか、と考えているかのように、イエスは弟子たちを枝という立場で考えさせようとするのでした。
 
言い忘れていましたが、最初には「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である」という言葉が見えました。父なる神が農夫にたとえられていますが、この農夫で「ある」は、確かに「ある」の動詞がありました。この「ある」はギリシア語としてはどうしても必要というわけではありません。日本語でも「白くある」とはわざわざ言わないのと似ています。
 
イエスと神とには、「ある」という本質をきちんと付けます。人間には、その「ある」を付けません。「ある」は神の本質の一つです。イエスが「私がそれである」のような言い方をするとき、この「ある」が使われます。モーセに神の名を示したときにも、ヘブライ語ですが、「ある」というところに神の本質を示します。「ある」の語の存在は、注目しておきたいことなのです。
 
その農夫が、枝の手入れをする様子が描かれていました。「手入れ」をするというのは、ぶどうの木の剪定のことです。よい実のためには、剪定が欠かせないとのことです。そのとき、要らない枝が切り落とされてしまいます。弟子たちはこれを聞いて、ぞくっとしたのではないでしょうか。
 
イエスはまた、「私を離れては、あなたがたは何もできない」と念を押します。枝ですから当たり前です。「何もできない」というのは、実を結ぶような働きのことを謂うのだと思います。木につながっておらず、実を結ばない枝は、「投げ捨てられて枯れる」ことでしょう。そして「集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」のです。
 
いま聞いても、ぞくっとします。――しませんか。聖書を読むというのは、こういうときに、ぞくっとするものだと私は思うのですが……。
 
◆愛し合うこと
 
聖書の物語が、依然として「いい話」だとか、「お伽話」だとかいうように思っている人が沢山いることだろうと思います。でも、イエスの周りにいたあの弟子たちへの呼びかけが、自分への言葉として受け止めることができたら――それは、きっと祝福の道であり、喜びに至る道を教えてくれているものだ、と信じます。
 
「望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」とは、なんと嬉しい言葉であるかと感じます。但し、主の木につながっていれば、との話です。安易に、願いを叶えるために信じるなどという人はないかと思いますが、この段階から成長しな信徒はいるもてのです。「望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」という言葉を聞くと、私はどうしても、あの有名な山上の説教での「求めよ、さらば与えられん」が思い出されます。繰り返しますが、もちろんそれは、単なる願掛けの問題ではないことは、明らかだろうと思います。
 
「豊に実を結び、私の弟子となる」と言うからには、キリストの弟子に相応しい働きをする願いであるはずです。そうでなければ、農夫たる神によって、それは取り除かれてしまうことになるでしょう。
 
キリストに相応しい働き、それは「愛する」ことでした。私たちキリスト者の働きは、神の栄光を現すためにここに置かれています。イエスが私たちを愛したのは、神がイエスを愛することからの類比です。私たちがイエスの戒めを守ることは、イエスが神の戒めにとどまることにつながることです。その戒めとは、愛し合うことでした。イエスは私たちに、互いに愛し合いなさい、という戒めを与えました。
 
イエスの愛に留まること、それは、私たちが互いに愛し合うことでした。イエスの戒めは、ひとえに、弟子たちが互いに愛し合うことにありました。少なくとも、ヨハネという名を戴くグループは、そのようにイエスの教えを捉えていました。ヨハネの手紙もそうですし、ヨハネ伝もそうです。
 
ヨハネの名を関した手紙も、この路線を貫いて綴ります。特にヨハネの手紙第一は、ヨハネ伝の模写のようです。そこには「愛にとどまる」ことについて、幾度も幾度も繰り返して勧めています。
 
いまその愛が満ちているのか。いえ、いまが不十分だからこそ、ヨハネの手紙の筆者は、愛し合うという、高い目標を掲げたかもしれません。でも、愛にとどまることを、しきりに告げます。イエスの愛、神の愛にとどまること、そこに目を向けませんか。神の愛の内にとどまること、神の内に自分たちがいることを確信するのです。私たちの内に神がいることを確信するのです。これは論理的に考えると不思議なことです。神秘的なことかもしれません。でも、分かります。神を信じ、イエスに出会い、イエスの愛の内に安らぎを見出した者には、言っていることが痛いほど分かります。
 
愛し合う、というのは、そのような場面でこそしみじみと分かるものですし、そういう有様で表現されるものではないでしょうか。とても抽象的な次元に迷い込んだかもしれませんが、不思議なもので、神を信じる者には、これできっと十分です。そして、ここからもっと激しい世界へと私たちを導いてゆくことになるのです。
 
◆命を捨てること
 
いったい、人が真に愛し合うことなど、できるものでしょぅか。愛は憎しみと表裏一体だと言われますし、疑いと裏切りが背中合わせになっているようにも見られます。そもそもこれだけ手紙や福音書の中で、「愛し合いなさい」と呼びかけるということは、愛し合うことができていないからこそではないでしょうか。
 
けれども、イエスは愛し合うように、と私たちを促します。それはただ口だけで命じても、人間にはできません。イエスはその前提に何かを準備します。
 
12:私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の戒めである。
 
イエスが弟子たちを愛した。そのように、愛を知るのだ。イエスが愛したことについては、「父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛した。私の愛にとどまりなさい」との前置きがありました。きっと、イエスの十字架の愛を意味しているのでしょう。でも、この場面では弟子たちはまだ十字架のことを知りません。それを知っている私たち読者へのメッセージであるのかもしれません。
 
ただ、弟子たちにも、その愛の意味が少しでも分かりやすいように、イエスは言葉を紡いでいます。「私はあなたがたを友と呼んだ」のです。「私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である」と言ったことに基づきます。さらに、驚くべきことをイエスは告げています。恐ろしいまでの宣言です。
 
13:友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
 
このことで、イエスの救いの他に、ある事件が私には真っ先に浮かんできます。「コルベ神父」と呼ばれる人のことです。長崎の聖母の騎士修道院にある「聖母の騎士社」が1930年に創刊した雑誌「聖母の騎士」は、今もなお月刊誌として継続出版されています。
 
そこを一度訪ねたこともありますが、そこにはコルベ神父の息吹がいまも伝えられているように感じられました。日本での活動はもちろん私たちに馴染み深いものがあるにしても、やはり世界的に知られているのは、その最期の姿でしょう。
 
かいつまんでお話しするしかないのですが、コルベ神父は日本での活動の後に、1936年、ポーランドに帰国します。第二次世界大戦が勃発すると、ナチス軍により、アウシュヴィッツ収容所へ入れられました。脱走者のための見せしめとして、餓死刑に命じられた男が、家族がいることを嘆いた、そのときでした。コルベ神父が、自分には身内もいないのだから、代わりに自分が刑を受けよう、と進み出たのです。
 
結局、なかなか餓死することがなく、最終的には薬物で殺されるのですが、ただ収容所で偶々出会った男を友として、友のために命を捨てたと言えるのでした。1941年8月14日のことでした。その約40年後、コルベ神父はカトリックの「聖人」の列に加えられることとなりました。
 
◆日本語の「愛」
 
私の信仰はカトリック信仰とは言えませんが、コルベ神父なら、「聖人」と称されても反対する理由がないと思います。イエスの言葉を生き、そして死んだことについて、リスペクトしないわけにはゆかないという気がします。
 
友のために命を捨てる愛というものが究極的に意味することは、イエスが十字架上で殺されたことでしょう。それに基づいて、互いに愛し合う愛については、弟子たちに、イエスが命じることを行うことが求められています。そうすれば、イエスと弟子たちとは、主人と僕という関係を脱して、互いに「友」となるのだ、と言われています。
 
不思議です。イエスは主であり、ひとは僕であるはずです。そうでないと、命じることを行う、という関係にはならないはずです。愛し合うことは、確かに「戒め」として届けられていました。「互いに愛し合いなさい」という戒めでした。
 
けれどもイエスは、弟子たちを「友」と呼ぶことがあるのです。どうしてか。イエスが「父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせた」からだと言います。そのことは、いまここにいる私たちにも、聖書を通じてそれを知らされています。いえ、私たちの許へは、膨大な情報量の神の言葉がもたらされています。
 
ところが、それはあくまでも新約聖書の中でのことです。旧約聖書の世界では、何か違う印象を人に与える場面が見つかるのでせす。それは、「愛する」という言葉の使い方の問題です。「眠りを愛する」とか「富を愛する」とか「快楽を愛する」とかいう使い方が目につくのです。悪いことについて「愛する」という言葉を合わせて使うことがしばしばあるのです。
 
これは、よく考えてみれば、日本語の本来の「愛」の意味にたいへん近い捉え方です。本来「愛」とは、その方向で理解されるべきことだったのです。仏教的な領域では、「愛」はよくないことです。「愛着」や「偏愛」のような意味合いで、好ましくないこだわりの性向を意味する言葉でした。
 
その後近代に於いて、キリスト教が、アガペーの訳語に「愛」という言葉を用いるようになって以降、日本での「愛」に対するイメージがずいぶんと変わってきたものと思われます。そこでは、「互いに愛し合いなさい」というような命令を神が下すことがありません。もちろん神が愛するとか、人が特定の相手を愛するとか、そういう使い方はあるのです。でも、「互いに愛し合う」ということが良い意味で用いられることは、殆ど見出されません。ほぼ唯一、「愛し合う」という意味に読み取れる場面は、次の箴言だけです。
 
野菜を食べて愛し合うのは
肥えた牛を食べて憎み合うことにまさる。(箴言15:17)
 
ここで「愛し合う」ことは、「憎み合う」ことと対比されて使われていました。贅沢な暮らしをしても、互いに憎んでいるような関係よりは、貧相な暮らしでも、愛し合っていることの方が優れている、という教えです。いまいちど、キリスト者はこのことを自分のこととして照らし合わせる必要があるような気がしてなりません。私たちは、もしかするといつの間にか、日本語本来がもっていた「愛」の意味に向かって、すり替えるというか、元に戻っているようなことはないでしょうか。省みる必要を覚えます。
 
◆愛の使命
 
ヨハネ伝やヨハネの手紙は、「ヨハネ」という語をシンボルにする、キリストの弟子の一つのグループではなかったかと私は見ています。それは、いわゆる「共観福音書」を主軸とするグループとは、少し離れたスタンスに立つ弟子たちで、強調点やスタイルがかなり違うような気がします。
 
ヨハネ伝やヨハネの手紙に於いては、この「愛し合うこと」へのこだわり、あるいは引っかかりというものが、繰り返され、強調されています。特に「神は愛です」という主題が、その忠告にあることは間違いありません。核になるのが「愛」だと見てよいのではないか、と思います。
 
その周りを、一つひとつの場面が長く、またイエスの長い演説めいた台詞が続く中で、いろいろなことを教えています。
 
人間は、理性で考えるようになることで、人が神を選ぶとか、人が神を創造したのだ、と簡単に結論づけるようにもなりました。そう思考する道筋が、人間の頭の中にあるであろうことは分かります。人が宗教を信ずるようになるメカニズムを説明するような本もあります。どこまでも人間が、そして人間の知恵が、世界の原理であるという前提で、世界を説明し、世界を操ってゆくつもりであるように見えます。
 
しかし、イエスは告げています。「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。あなたがたが行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって願うなら、父が何でも与えてくださるようにと、私があなたがたを任命したのである」と、私の目を正面から見つめて、言いました。同じように見つめられてこれを言われた人が、キリスト者であるのだろう、と私は思います。
 
神に出会うこともなく、神に呼ばれたという意識もなく、職業として「牧師」を選ぶのが当然だ、と声に出す人が増えてきました。悲しく思います。中にはそのことが、自分が神を選んだのではなく、神が選んで導いたことを示すのだ、と説明するような人もいます。自分が神に正対してレスポンスをすることなく、自分は神に操られている、と宣言することは、危険ではないでしょうか。私は神を知らないが、私は神の言葉を語っている、と言うようなものなのですから。
 
神に出会い、神に呼ばれた信徒は幾らでもいるのです。神の言葉が語られることが期待できないままに、また事実そのようなことが殆どなのですが、そのような「牧師」から、毎週礼拝説教を受けることが、空しく、悲しくなるのは、当然ではないでしょうか。
 
イエスが弟子を選んだのです。その意味で、選ばれた弟子は、誇らしく思うがよいのです。神を誇るとよいのです。その結果、弟子たちは行動を起こして、その先々で実を結びます。人間の目には実っていることが分からないこともありましょうが、神の国からは見えている、御霊の実が成るのです。そして、その実は残ります。弟子たちがイエスの名によって願うことによって、神がそれを与えてくださるのです。そういったことが、ここに全部書いてあります。
 
イエスが弟子たちを任命しました。私たちは選ばれてその任を受けました。だからこそイエスは、私たちに幾度も幾度も、「互いに愛し合いなさい」と告げて命ずるのです。念を入れて、最後に「これが私の命令である」と結びながら。
 
但し、私は案じます。あなたを選んだよ、互いに愛し合いなさい。はい、私たちの教会はその通り歩んでいます――そうにこにこと応えていてよいのかどうか、と。
 
ヨハネ伝もヨハネの手紙も、イエスの十二弟子のために書かれたのではありません。イエスの名の下に集められた、次世代、次々世代のために書かれています。もちろん、初代の弟子たちも、置かれた情況は厳しかったでしょう。ユダヤ人たちから目の敵にされたことは、使徒言行録の前半や、パウロの伝道の記録を見れば分かります。でも、新約文書が書かれた時代には、いっそう強い迫害を受けていたことでしょう。後期の新約文書には、その様子が垣間見えます。越冬するテントウムシの集団のように、肩寄せ合って、寒さから身を守るべく、蠢いていたことでしょう。
 
イエスは、自らをぶどうの木にたとえました。ぶどうの木は、干からびた土地に深い根を下ろして、地中深くから水を吸い上げるのでした。私たちは、そのぶどうの木の枝として、イエスにつながっています。但し、良い実を実らせるためには、剪定が行われます。余計な枝は斬り落とされてしまいます。枝は、容易に剪定されるべきものでもあったはずです。
 
6:私につながっていない人がいれば、枝のように投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
 
この言葉を見落としていてよいはずがありません。後味のよくない話になることを覚悟で、私たちは戒められておくようにしたいと思っています。ここにひとつ、釘を刺しておいて、ぶどうの木についてのお話を終えたいと願います。イエスの掌を目の前に見ながら。



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