ヤエル (6)
2026年8月6日

ナフタリ族のバラクのもとに、ナフタリとゼブルンから兵が集まった。いや、デボラの呼びかけにより、周辺部族からも援軍が来るとの知らせを受けたのは、バラクの予想外であった。エフライムやベニヤミンの兵は、すでに北上するバラクを追うように続いていた。イサカルやマナセからは有力な指揮官が訪れるとのことだった。一般の兵士は農民の寄せ集めではあったが、祖国愛には燃えていた。鉄はもたなかった。青銅の剣が用意されたが、それではどこまで鋼鉄に通用するか、計算すればするほど頼りないものだった。だが、デボラが兵を勇気づけた。
「いつまでこのままカナンの暴虐に耐え忍べばよいというのか。敵の将軍シセラの慢心を見上げていればよいというのか。主は言われる。すでにシセラの命は、われわれの手の内にある。すでに主は勝利を宣言しておられる。敵はキション川にいる。川は敵の血に染むことになっている。バラクを信頼せよ。バラクの命令に従えば、敵は必ずわれわれの手に落ちる。イスラエルの神、主は生きておられる。主が、われわれと共におられるのだ」
軍勢は右手を挙げて応えた。歓声がタボル山に響いた。
タボル山頂で、石の祭壇に犠牲の動物が献げられた。焼き尽くす献げ物が煙となって、天の神に届くように上っていった。それが戦いののろしでもあった。
シセラはそれを見ていた。
「カイン人ヘベルが知らせに来た通りだ。バラクという将が立てられて、シセラに向けて万の兵を集めているという」
シセラは将軍らしく落ち着いた態度で、戦車の点検をさせ、それを引く馬たちにまで声をかけた。
「窮鼠は猫を噛むというが、はたして、獅子を噛むことはできるかな」
シセラは、けっしてイスラエルをなめてかかってはいなかった。その証拠に、イスラエルの動きが急だという情報を受けると、もてるかぎりの戦車九百両を準備させ、軍隊もすべて自分の町ハロシェト・ハゴイムに召集した。カルメル山の麓、エスドレロン平原を流れるキション川の下流から、上流方面のタボル山を目指して、軍を進めた。
「タボル山から、イスラエルは降りてくる。敵の動きは完全に見える。戦車はこの平地では、その力を最大に発揮する。案ずるな。わがバアルは、シセラを再び英雄とする」
シセラは兵士を励まし、進軍した。ここでシセラはひとつ、考えを誤っていた。バアルの神の名を呼んだことだ。バアルは農耕の神、雨を恵む神であった。
皮肉なことに、バアルにふさわしく、突如雲が暗くなり、雨が落ちてきた。ふだん雨が少ない地域では、わずかな雨でも、乾いた山の斜面を洪水のごとく水が落ちてくるようになる。タボル山は、ちょうど円錐の形をしており、そこに落ちた雨は、坂を下るときに滝のようになった。
「恵みの雨です」とデボラは最後にバラクに言った。「この雨は、主がわれわれのためにもたらした。シセラの軍は、ぬかるみにとられて、身動きできなくなる。さあ。主が、シセラをあなたの手に渡されます。あなたに先立って、すでに主が立ち上がり出て行かれました。さあ、安心して行きなさい」
イスラエルの兵士は、恵みの雨だと叫びながら、雨水の流れに合わせるかのように、キション川で待ち受けるシセラの軍を目がけて降りて行った。
デボラは、タボル山から、雨に煙る肥沃な平原を見下ろしていた。一歩遅れてイカサル族の将軍が到着し、デボラのところに来た。
「遅かったか」
「いや。遅くはありません」とデボラは将軍に告げた。「この戦いには後押しが必要なのです。第二陣としての役割を果たすのは、イカサル、あなたたちです。エスドレロンの平原へ向けて、下って行きなさい」
将軍は右手を挙げ、率いてきた軍に前進を告げた。雨の中、イスラエルの助けがまた増えた。
「ですがデボラさま。これ以上の援軍は見込めないのでは……」
デボラの背後で仕えていた待機の指揮官が呟いた。
「ギレアドの者たちのことか」とデボラは振り向いて言った。「ダンやアシェルの部族のことか。仕方ない。声は届かせたのに、彼らは応じなかった。イスラエルを守る戦いを、遠くから見物する側となった。よろしい。彼らには、彼らの報いがあるだろう。神のために立ち上がることを厭うた者の結末は、神ご自身が決めることでしょう」
キション川は、ついこの間までの暑い時期なら、干上がることさえある川。涸れ谷のままでいたら、戦車の軍にイスラエルが勝つ見込みはなかっただろう。シセラも、たんなる平地としてこの川をはさんでイスラエルをにらんでいたつもりだった。だが、折しも降った雨は、乾いた谷をたちどころに水で満たし、あふれさせた。さすがに乾いた土も泥と化し、濁流から泥流となって、西へ力強くうねっていった。
「これでは、戦車が役に立たない」
さしもの将軍シセラも、顔が青ざめた。好天の下では無敵の戦車部隊も、この土砂降りの中では足手まといとなる。
「引け。戦車も馬も、見捨ててもいい」
シセラが叫び、カナン軍は怖じ気づいた。戦車が使えなくても、まだ鉄の剣があるはずだった。剣通しの戦いになれば、鋼をもつシセラの軍は、まだ十分有利なはずだった。しかしシセラの弱気な一言が士気に影響した。襲いかかるイスラエルの軍勢に、まだぶつかる前に退却を始め、メギドの南のタナクの方へ走って行った。川の近くに乗り捨てられた戦車が空しく雨を受けていた。川に流される戦車もあった。
シセラはそれでも、作戦どおりここにはわざとイスラエルをおびき寄せたと自負していた。
「この雨にはぬかったが、まあよい。これも作戦のうちだ。見ておれ、イスラエルめ」とシセラはほくそ笑んだ。「万一のことを考えて、この地域の軍をタナクに集めておいたのだ。今こそ、カナンの底力を見せてやらねばならん」
ヤビンの一声で、カナンの町々の王に対して、このたびのイスラエル鎮圧のためシセラに援軍を出すよう、伝令が出ていた。そこでこのタナクに隠れていくらかの部隊が用意されていた。
だが、それもシセラには助けとならなかった。タナク辺りはふだんでも湿地となっている。ましてこの雨。シセラの軍は、あまりにも非運だった。ぬかるみに足を取られ、振り下ろす鉄の剣にも威力がない。鉄の強みはもはや感じられず、武器からすると互角である。むしろ、勢いに乗るイスラエルが圧倒的に有利な戦いを展開し、シセラの軍はまったく散り散りになってしまった。勝勢に向かえばイスラエルは躍り上がるように力を発揮する。ヨシュアの時代もそうだった。見かけの非力さが、一度勝機を得ると、とてつもなく強い軍となって暴れまわる。
カナン軍の兵士が次々と倒れる。戦車の力に頼り、兵士一人一人の強化が鈍っていたとすれば、シセラの責任は大きい。もはや将の命令は届かず、生き残った兵士たちはひたすら自らの陣へ向けて敗走するばかりだった。ハロシェト・ハゴイムまで逃げ帰ったつもりの軍だったが、バラクにしてみれば、そこまで追い詰めたということ。
イスラエル軍は、カナン軍を壊滅させた。
「誰か、シセラを見た者はないか。将軍シセラの首を取った者はいないか」
バラクが叫んだ。だが、誰一人声を上げる者はなかった。
『シセラの首をとるのは、バラクではなく、女である』
あの言葉が耳に響く。だが女預言者のデボラ自身、この戦闘に加わっているわけではない。デボラは、タボル山でこの戦いを眺めている。すると、シセラはこの混乱に乗じて、一人あの山へ登ったのか。そしてデボラがそこでシセラを殺すとでもいうのか。
不安になったバラクは、先にタボル山に戻ると言い、イサカルの将軍に現場の指揮を任せ、デボラのもとへ戻った。
そのころシセラは、たしかにタボル山に向かっていた。
自陣のハロシェト・ハゴイムに逃げると見せかけて、タナクの湿地に隠れており、機会をうかがって北東へ一人駆けて行った。
だがタボル山に登るつもりはなかった。山を越えた一日先の地ハツォルの、王ヤビンのもとへ逃れようとしたのである。が、なにぶん一気にハツォルまで行く体力がない。頭に浮かんだのは、イスラエルの動きを知らせに来たヘベルの顔であった。
『たしか、あのヘベルという鍛冶職人の天幕が、エロン・ベツァアナニムにある。ここから半日も行けば着くはずだ。ヨルダン川を目指せばたどり着く。あれから姿を消したところを見ると、もうそこに帰っていることだろう』
息を切らし、雨水に渇きを癒し、シセラは歩いた。ぬかるみが心配されたが、しばらく行くとそこからはまったく雨が降っていない地となった。
『こちら側で戦えば、勝利は間違いなかっただろう』
悔しい思いもそこそこに、シセラは日が暮れる前に目的地へ着かなければ、と急いだ。まだ昼前でもあり、傷一つ負っていないこのからだなら、造作もないことだと考えた。
風向きも変わり、空気の色も違って見えた。やがてヨルダン川が眼下を横切り、彼方にキネレトの海も垣間見えた。
『あれだ』
天幕が広がっていた。少しほっとすると同時に、やっとシセラは疲れを覚えた。(つづく)