ヤエル (5)

2026年8月5日

「また新しい剣の調達があった」
 ヘベルは、妻ヤエルの天幕を訪ねて、得意そうに報告した。
「まあ。それはよかったこと」
「もうこうなったら隠すこともなかろう。ヤビンさまは、やはりおれの助けが必要なのさ。立場上、おれたちをそばに置いておくわけにはいかないけれども、おれの技術はなくてはならないとお考えだ。ちゃんと、仕事をくださることで、こちらは懐が温もるというわけだ」
 夫が子どものように喜ぶ顔をヤエルは見ていた。
「そうと決まれば、さっそく仕事だ……だが待てよ。たしか、一番よいふいごの調子が悪かったんだ。早く直しておかなければ。下男にさせておいてもよかったが、やっぱり自分で見ておかなくちゃな」
 ヘベルは、もともと南のカインの地に住んでいて、青銅器を造るのに長けていた。その腕を買われて北部のカナン王のヤビンが招いた。鉄という優れた金属を製造し、剣や部品を鋳造する仕事だった。
 鉄はメソポタミアの巨大帝国ヒッタイトが特産であった。当初、金の五倍、銀なら四十倍もの価値があったという貴重な金属だった。鉄の製造に耐え得る溶鉱炉がなかなか得られなかったため、古来鉄は限られた者にしか造ることができなかった。しかも、これを鍛えて鋼鉄となした点がヒッタイトの優れたところであって、鉄が鋼となったとき、人類の文明は飛躍的な進歩を遂げたと言われる。このヒッタイト帝国がしばらく前に崩壊し、同時に鉄の技術をもった鍛冶職人が地方に分散した。イスラエルにはまだその技術が伝わっていなかったが、カナンの王や、海からカナンの海岸地方に定着しつつあったペリシテ人は、鉄を有していた。これが、軍事的には圧倒的に有利な状況を作り出すこととなる。
 カナンの王はヘベルに言った。鉄を王のために造り捧げることにより、名誉と報酬を与えよう。その代わりに、その技術をもってどこへでも逃げ出さないように、片足の筋を切る、と契約をして。
 ヤエルの天幕を早々に出ようとしたヘベルだったが、ふと止まって、振り返ってヤエルに目をやった。
「そうだ。気になることがあった」とヘベルは言った。「ハツォルからこちらに戻る途中、イスラエルの住民の町を横目に通らなきゃならないが、なにか様子が変だったんだ」
「様子が変、というと?」
「さあて。いよいよ、天下のシセラさまに刃向かうとでもいうのかもしれないな。大勢集まって、決起集会のようなものを開いているんだ。おれのほうには、叫びのようなものしか聞こえてこなかったが、たしかに人がたくさん集まっていた」
「まあ。物騒なこと」
「実際、ヤビンさまにとっては、うれしくないことだ。この反逆騒動は。何代前だか、同じヤビンという名前の王がいて、この方はイスラエルのヨシュアとかいう奴に殺され、ハツォルを焼かれたというじゃないか。その恨みから、イスラエルに圧力をかけていたものかもしれないが、そいつとまた戦争になるのは、どんな気持ちだろうかね」
 そう言ってヘベルは頭を振り、自分の心配を打ち消すようにした。
「でも、将軍シセラさまの手にかかっては、イスラエルなんぞ、子どもみたいなものよ。なにせ、百戦錬磨の闘将だ。迎えるところ敵なし、とはシセラさまのこと。そのシセラさまが、おれの造った剣で勝利するというのは、なんとも気持ちがいいもんだ。おれの鉄は無敵なのさ。楯突こうとするイスラエルが、今日ほど哀れに見えたことはないね。鼠が獅子に戦いを挑んで、どうなると言うんだい。だいたい、ちゃんとバアルさまを拝んだりしないで、いるかいないか分からないような神を拝んでいるから、そういうことになるんだ」
 言い捨てるようにして、ヘベルは姿を消した。ヤエルはため息をついた。
 翌日ヘベルは、ヤエルに告げた。
「ちょっと、また出かけてくる」
「どこに行くのですか」
「こう言ってはなんだが、やっぱり気になってな。シセラさまにイスラエルの動きを、一度ちゃんとお知らせしておこうと思うんだ」
 ヤエルはヘベルの顔を見つめた。
「なんなら、おまえも一緒に来るか」
 答えが分かり切っている質問。ヤエルは小さく答えた。
「いえ。どうぞお一人で」
 ヤエルは思った。シセラの元へ行くという。実は戦乱を避けて逃げようとしているのではないだろうか。それとも、シセラ一人かくまわれていようとでも考えているのではないだろうか。
 イスラエルの男だったら、そんなことはしないのに。イスラエルの律法では、きっと男は妻を……。(つづく)



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