【メッセージ】待っているのか
2026年8月2日

(マタイ20:1-16, 詩編130:1-8)
五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と言った。(マタイ20:6)
◆給料
「日当」という言葉があります。「日当」は「日給」とは違います。「日当」は労働の手当・経費に充てるためのものだといいます。日当が出ないと、食事や交通費などを自腹で出すことになるかもしれませんが、賃金は出ます。「手弁当」には、その賃金すら出ません。
日当が出なくても、賃金が出れば、つまり「日給」が保証されていれば、なんとか生活収入はあります。「日給」は、一日辺りの賃金ですから、極端にいうと、短時間でその仕事が仕上がれば、時給計算としては上がることになります。但し、合計賃金は増えも減りもしません。
その日毎の契約の場合は、賃金が出なかったら、死活問題です。「日雇い」という言葉が昔ありました。かつての人気アニメ「巨人の星」の主人公の父親は、「日雇い人夫」と称されていました。いまでは公的な表現としては使わないことになっています。「日雇い」は不快用語・言い換え語とされています。差別的な意味合いを含んだり、不快な感情を与えたりするからだそうです。
しかし、実質そのような雇われ方の中で暮らしている方々もいます。他方、社会経験のない若者に、一日限りの高額報酬をもちかけてくる魔の手が、いま恐れられています。いわゆる「闇バイト」です。いい大人も、「うまい話」に巻き込まれることがあるかもしれません。
映画「マジカル・シークレット・ツアー」が6月に公開されました。実際にあった金の密輸事件をヒントに描いた映画で、金に困った主婦らがその道にはまってゆく姿を描いたものでした。神と富とに兼ね仕えることができないという聖書の教えは、信仰と関係ない場でも、人をそうした犯罪から食い止めることには役立たないでしょうか。
その日毎にしか賃金が出ない「日給」という形は、労働としては厳しい条件かもしれません。何しろ、その日にならなければ、仕事があるかどうか分からないのです。どうかすると運良くいい日給に恵まれるかもしれませんが、もしかするとあぶれてしまうかもしれません。収入がその日はゼロです。
その点、継続して雇われていたら、安心です。次の日も、その次の日も、仕事があるという契約です。でも、少し考えてみれば、それはなかなか「信仰」の必要なことではないか、と思うことがあります。
長期契約で雇われている者は、通常後払いです。つまり、今日の労働は、1か月以内にまとめて「月給」として支払われるわけです。ですから、最初の一か月間は、しばらく無休で働くことになるのが普通です。プロ野球選手の「契約金」は、そうではないかもしれませんが。
私たちの多くは、1か月後に給料が出る。それを信じて働いていることになります。本当に出るでしょうか。当然出るものと「信じて」働いているだけではありませんか。実際出なかったケースも世の中にはあります。けれども、必ず貰えると「信じて」私たちは毎日労働しています。これは確かに「信仰」だと思うのです。
◆労働
聖書の時代の労働の描写を、単純に現在私たちが見聞きすることと比較して、ああだこうだと言うことには、何の実入りもありません。研究者の指摘を俟ちたいのですが、果たしてそれもどこまで本当なのか、分かりません。立派な本に書いてあっても、又聞きや受け売りもありましょう。意見の数が多いから真実だとも限りません。ネットのデマも同じです。引用が多いかどうかは真実性と一致するとは限らないのです。名の知れた学者が認めたとしても、様々が学者がいますし、師弟などの人間関係の中で声を合わせているだけのことがあるかもしれません。
だったら、私たちは自分なりに読むことも必要です。自分が当事者だったら聖書の場面でどう言うか、行動するか。ただそれには、普遍性はありません。特殊な場面での、ひとつの真実であることには違いありません。
マタイ伝20章でのイエスのたとえは、いまの私たちの目から見たら、理解しづらい雇用関係であるかもしれません。いったいこのぶどう園の主人は、何をそんなに多くの労働者を、何度も雇いに来ていたのでしょうか。
ただ、現代もこうした労働体制は認められています。「1年単位の変形労働時間制」といって、繁忙期には通常の週間労働規定を超える労働を課すことも可能とするのです。塾業界でも、受験間際には、労働条件は規定以上となります。他方、受験から遠い時期には、幾らかその分緩やかにしていることになります。
ぶどうは、いよいよ収穫というときには、人手が幾らでも欲しいでしょう。短期間に、一気に収穫し、出荷までしなくてはなりません。それまでの多くの日には、そこまで多忙ということもないでしょう。農園の経営もいろいろと大変です。
が、雇われる方はもっと切実です。なにしろ収入が有るか無いかの瀬戸際なのです。朝、規定の場所に来て、誰かが雇ってくれないかと待つことになります。現代では労働条件の規定が変わり、スマホを使って仕事の約束を受けることが多いそうですが、かつては「寄せ場」と呼ばれる場所に集まり、誰かに雇われるのを待つものでした。その意味では、聖書の描写と似ています。
本田哲郎神父の『釜ヶ崎と福音』という本を見ると、飯場の費用だとかなんとか言って巧みに天引きされて、実質収入がごく僅かになる例が記されています。いまはまた違うかと思いますが、北九州でホームレス支援活動をしている教会の方々は、それ以上に実情をよくご存じだろうと想います。いろいろ難しい背景があろうかとは想いますが、人々が直面している問題点を、もっと広く知らせて戴きたいし、私たちも知ろうと努めるべきだと考えます。
◆労働時間
1:「天の国は、ある家の主人に似ている。主人は、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けとともに出かけて行った。
雇う方も、夜明けと共に出向かなければなりません。日の昇っている時間をフルに活用して、人海戦術を図らなければなりません。労働者を拾うとすぐに、現場に連れてゆきます。この「主人」が神を意味しているのかどうか、解釈が分かれるところかもしれませんが、基本的にはそういうことなのでしょう。
2:彼は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
労働者にもちかけた報酬は、日給1デナリオン。この約束は、後で効いてきます。よく1日分の労働の額だと言われますが、その情報についても、受け売りが殆どのようです。このたとえからの類推でそう説明しているようですが、誰も歴史的な根拠を言ってくれません。カエサルの頃にローマ兵の年収が225デナリウス(デナリオン)だと挙げている人がいました。労働者と比較はできませんし、時代により変遷がありますが、私たちのいまの感覚からすると、1デナリオンは、言われているよりもう少し額が高く感じられるのではないかという気もします。
だから、この雇い主には、どんどんと労働者がついて行く。高額だと思ったから、せっせと朝から働いた。この心理を想定すると、たとえの結末が、さらに生きてきます。
ここからは要点を語るに留めます。夜明けが何時かは分かりませんが、日の長い時季でしたら6時以前でしょう。すると仕事は6時から、ということにしておきましょうか。この後、労働者がさらに必要だとして、3時間おきに主人は労働者を探しに来ます。夜明けに労働者がすべて集まるとは限りませんし、夜明けにすべての労働者が仕事にありつけるわけではありません。他に何誰か仕事の提供者が来ないか、待っています。待っていても、うまく雇われないならば、さらに待つことになります。
その都度、労働者たちはぶどう園に連れて行かれます。この辺りから、実際のぶどう園での労働というシチュエーションが、たんなる「思考実験」に変わってゆきます。イエスのたとえには、よくそのようなことがあります。最後まで、現実にそんなことがあるのかよ、と文句を言うべきではありません。途中から、具体的なたとえから本質が抽象されて、問題の核心に至るのです。要するに比喩は、違いを強調すべきポイントさえ鮮やかに対比されていればよいのであって、細かな点が一つひとつ何かを意味している、と探るべきではないのです。
午後3時。日没は午後6時よりも遅いでしょうが、日没前に解散するとすれば、6時までの労働、と考えておくようにしましょうか。午後3時から働いた者は、早朝から働いている人の四分の一の労働時間しかありませんでした。イエスは、ここでたとえ話を閉じてもよかったのですが、そうはしませんでした。
イエスのたとえは、徹底的に聞く者を思考実験の中に囲い込みます。最後に雇われた労働者は、夕方5時から働き始めます。まだ仕事を待つ労働者たちがいたのも不思議です。私なら諦めますし、その分別のことをしている方がましだと計算することでしょう。このときたとえは、主人は彼らと会話をしている様子を描きます。この会話には深い意味があるとすべきでしょう。
6:五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と言った。
7:彼らが、『誰も雇ってくれないのです』と答えたので、主人は、『あなたがたもぶどう園に行きなさい』と言った。
計算上、この最後の人々は、1時間だけ働くことになります。最初の労働者たちと比べると、12分の1です。16分の1デナリオンが1アサリオンだとすると、すずめが2羽ほど買える程度の額です。彼らは、頭の中で、これはゼロではなくてよかった、という思いでついて行ったのでしょうか。
◆配分
さあ、仕事が終わりました。午後6時だとしておきましょう。半日労働も私は正にいま夏期講習でその最中なのですから、さして長いとは想いません。さて、ここで事件が起こります。
8:夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい。』v
9:そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
イエスは、これら受け取った者たちの様子を描写していません。私なら、こんなにもらえるのか、と驚きます。あるいは、そういう約束をすでに聞いていたのでしょうか。聞いていたとしたら、半信半疑で働いていたのではないか、とも思います。ここの心理は、またその背景は、私にはよく分かりません。この点については、保留しておきます。
この後は、お察しの通りです。誰もが皆、一デナリオンずつ受け取ります。それぞれが約束を受けていたものと理解されます。ということは、3時間だけの労働者も、夢のような心地だったのではないかと想像されます。
問題は他にもあります。「最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に」賃金を受けたという、管理人の手渡す順番です。最後に締め括る「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」を活かすための配慮でしょうか。あるいはまた、早朝から働いた者たちに、一デナリオンが配られることを見せつけるための手段だったのでしょうか。
10:最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていたが、やはり一デナリオンずつであった。
彼らはがっかりします。勝手に自分で計算していただけのことです。主人の計らいを、自分が決めていたのです。
11:それで、受け取ると、主人に不平を言った。
12:『最後に来たこの連中は、一時間しか働かなかったのに、丸一日、暑い中を辛抱して働いた私たちと同じ扱いをなさるとは。』
尤もな不満です。そして、時間労働制に馴染んでいる私たちも、この不満には共感することでしょう。だから「おかしい」という思いがまず起こります。同じ労働者同士で、妙な妬みを覚えるのです。
しかし、考えてみましょう。スマホからチョンと指で触れるだけで、何百万円もの利益を手にする人が、世の中にいます。株やら証券やら、億単位を動かすのもチョロいという人がいます。他方、朝から晩まで汗水垂らして働きまくった末に、一日数千円だけを手にする労働者がいます。この相違には、私たちは基本的に何の不条理も訴えません。気にしてさえいません。
私たちの目は、どうなっているのでしょうか。もちろん、のしかかる責任が違うからそれでよいのだ、と言われれば、確かにそうです。有名税を支払うデメリット以上に、有名人は多額の収入を得るメリットがあっても、それでよいとしています。テレビの司会を1時間担当したら何百万円貰えるとか、30秒のコマーシャルで何千万円とかいう話もありますが、誰もケチをつけません。投球一球で何十万円という投手も幾らでもいるでしょう。
子どもを保育園に預けて働き、収入の大部分が保育園に吸い取られてゆくような生活をしていても、仕方がないことだ、と突き放して見ている私たちがいます。教会にいると、困った人に手を差しのべよう、という美しい教えを信奉するものですが、それでももう余りにも見慣れてしまって、無感覚になっているような気がしてなりません。
◆約束
13:主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたは私と一デナリオンの約束をしたではないか。
14:自分の分を受け取って帰りなさい。私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
15:自分の物を自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、私の気前のよさを妬むのか。』
主人が説明したのは、夜明けから日没までぶどう園にいたすべての人に言ったのではありませんでした。「一人に答えた」のでした。そんなことがあるでしょうか。あるのです。なぜなら、この主人は、いま読者に、私一人に向けて答えているからです。
不当なこと、約束違反は、主人はしていないのです。違反のように思えるのは、私の方が勝手に、主人が約束した以上の報酬をくれるだろうと決めたことと照らし合わせるからです。主人と自分との関係に於いては、何もおかしなことは起こっていないのです。
主人は「最後の者」にも、「同じように支払ってやりたい」と言いました。ああ、それは憐れみなのだ、と私たちは考えるかもしれません。けれどもそうなると、主人は約束とは異なることをしてしまいます。主人は主人の決めた約束について、全く揺らいでいないのです。主人はそのように当初から約束していたからです。
約束に反しない神のあり方、そこから一歩も離れることがありません。「一日につき一デナリオンの約束」でした。経済的に言えば「契約」です。契約は完全に遂行されているのだとすると、この最後の者も、「一日」を働いたことになっています。恰も、長きにわたって働いた者と同じ仕事を、能率良く1時間でやり通したようなものですが、その「同じ仕事」というのは、分量のことではないはずです。もちろん時間の量でもないはずです。
最後に「あなたがたもぶどう園に行きなさい」と言われた人々は、確かに複数でした。しかし主人が呼びかけた「最後の者」は、いつの間にか単数、一人になっています。これも、「その一人に答えた」のと同様、いつの間にかこの主人との対話に応じているのは、読者ただ一人になっているように見えます。
この「最後の者」は、「一日」を、この仕事のためだけに使っていました。「一日」、待っていました。私は待っていました。もうだめかな、もう来ないかな。哀しい目をして、待っていました。どうして待っていたのでしょうか。帰ればよいではありませんか。でも、「もしや」との思いなのかどうか知らないけれども、待っていました。「一日」を、その「待つ」ことに費やしました。「待つ」間も、その仕事に勘定に入れたとしたら、全く遜色ないとも考えられます。
しかし実際に労働はしていない。そういう指摘がなされるかもしれません。賃金に見合う労働がない、と。では、家庭のいわゆる主婦は、労働をしていないのでしょうか。家事は直接お金になりません。 現金支給がないから労働はしていない――かつての勘違いした男性は、そのように見下していました。でもいまはそんな考えは通用しません。また、子どもは仕事をしていないに決まっているでしょうか。子どもの存在が親を支えていたとしても。数字で刻まれた賃金だけしか、なんでも意味がないのでしょうか。給与の名義者だけが働いていたのでしょうか。
子どもの手術室の外で祈っている母親は、子どもの手術に関係ないのでしょうか。共にその病と闘ってはいなかったのでしょうか。友人が就職試験を受けているとき、佇んで祈っていた者は、その時間を無為に過ごしていたことになるのでしょうか。
あなたは、誰かのために費やした時間を、無駄だと簡単に吐き捨てることができるのでしょうか。
◆待つこと
イエスが私に見せてくれたものは、「待つ者」でした。そのとき私が思い出すのは、『待つということ』という本です。哲学者の鷲田清一の著書の一つです。「待つ」のは、不確実な対象です。その対象との距離感を、痛みと共に、慈しみと共に引き受けることこそ「待つ」ことだ、という理解を提示しています。そして、現代社会が「待てない」ものになってしまったとしたら、未知な未来を見失い、ひとを信頼することができなくなってしまうのではないか、と危惧していたように思います。
昔は、駅に「掲示板」と呼ばれる黒板が置いてあり、待っても来ない相手に伝言を書くことができました。いまや誰もがいつでもどこでも連絡ができます。そればかりか、すぐさま返信しないといじめの対象にすらなってしまいます。昔の熱いドラマ「君の名は」も、現代ではあり得ない話になりました。私の好きな漫画『めぞん一刻』にあった、「待つ」間合いやすれ違いの妙は、もう想像すらできなくなりました。
機器が発達することで便利な世の中になるでしょう。けれども、ひとが「待つ」心を、それは消し去ってしまいました。与えられないものを楽しみに待つことが、耐えられなくなってきています。そればかりか、いまやAIが、「考える」力をも消し去ろうとしています。
私は主を望みます。/私の魂は望みます。/主の言葉を待ち望みます。
私の魂はわが主を待ち望みます/夜回りが朝を、夜回りが朝を待つにも増して。(詩編130:5-6)
主の言葉を、主を、待ち望みます。この詩に限らず、新旧約聖書問わずに、私たちは聖書に浸る限り、「待つ」ばかりです。主は魔法のように、いますぐに祈りを叶えるのでもなく、世界を善くするでもなく、そして私たちは、新約聖書が書かれた時代からすでに、今もなお、主が再び来ることを「待つ」のでした。
この「待つ」時間は、無駄なのでしょうか。何もしなかったのでしょうか。もっと「タイパ」で動くことが望ましかったのでしょうか。
「タイパ」、つまり「タイム・パフォーマンス」という、多少不愉快な語が価値基準にすらなってきています。節約できる時間は節約すれば、時間を有意義に使うことができる、という主義です。流行の歌も、前奏や間奏は飛ばして聞くのが常識。映画の動画を何倍速かで流して見れば、短い時間で映画を観たことになるという考え方。こうなると、礼拝も、後から説教だけを何倍速かで見れば礼拝したのだ、と思っている人がいるかもしれません。
ただ本人が気に入ってやっている「趣味」なら咎めないこととしても、その考え方そのものが問われます。神の言葉をタイパ扱いしてどうなるのでしょう。誰かと過ごす時間も、タイパ計算をするのは当たり前になっているような気がして、背筋が寒くなります。
電化製品や交通機関の発達で、昔は多くの時間をかけていたことが、短時間でできるようになりました。しかしそれで、余った時間を有意義に使うことになったでしょうか。ますます人は多忙を強いられ、あくせく時間の中で仕事を急ぎ、あるいは長時間労働に苛まれているのではないでしょうか。
むしろ、ゆったりとした時間を過ごせることが、幸福の証しになっているようにすら見えて、仕方がありません。
◆神を待つ
先ほども申しましたが、キリスト教は「待つ」信仰をもっています。善いことをしましょう、という程度の宗教ではありません。ただ過去を反省するのが目的であるのでもありません。ユダヤ教は、いつかメシア、救い主が来ると信じています。未来を待つ信仰をもっています。キリスト教もそれを踏襲しています。
但し、ユダヤ教は、メシアはまだ一度も来ていない、と理解しています。キリスト教は、イエスという姿でメシアが一度すでに来た、とします。歴史上に現れたナザレのイエスがメシア、即ちギリシア語でいうキリストだと信じます。
このイエスは殺されて――いえ、私たち人間の罪が殺したのですが――、蘇りました。一旦はその復活の姿を隠して天に戻りましたが、いつか世の終わりのときに再び私たちにその姿を現す、と信じています。次にキリストが現れたそのときこそ、本当に世のすべてが決着を迎えることになります。神の裁きが成し遂げられる、終末の時です。
「終末」という言葉は、しばしば恐怖の響きと共に聞こえてきます。「世の終わり」あるいは「最後の審判」は恐ろしいもので、人はそんなものはあり得ないとし、信じようとはしません。けれども、キリスト者にとっては、それは喜びの日として、来ることが待ち望まれています。
いきなりそこまでいかなくても、キリストを信じるということは、辛い現在のその先に、神の助けがあると信じるということです。救われることを信じています。その時を待つのです。
詩編も、しばしば待っています。キリストや神の言葉というよりも、人間たる詩人の言葉ではありますが、その言葉は主を待ち望んでいます。詩編は神を賛美する宝庫であると共に、人間の豊かな感情をたっぷりと表しています。
実はこの詩編第130編に於いて、この詩人は、「「主よ、深い淵の底からあなたに叫びます」(1)から言葉を紡ぎ始めています。そして「嘆き祈る声に耳を傾けてください」(2)と叫びます。辛いのです。本当に辛いのです。「しかし、赦しはあなたのもとにあります」(4)と向き直るようにしてから、詩人は宣言します。
私は主を望みます。/私の魂は望みます。/主の言葉を待ち望みます。(詩編130:5)
イエスはあのたとえで、「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」という、見事な逆説を語り切りました。そこから真正面に向き合う読み方は必要です。ただ私は今日、わがままな受け取り方をして、事もあろうに、皆さまにもお聞かせすることとしました。そのためいつもより長いメッセージとなりました。早く終わらないかなあ、と待ちくたびれた方、よく終わるのをお待ちくださいました。感謝します。
この喩えはよく知られているものですが、私は、違う風景も見てみたかったのです。と言うより、違う風景を見せられたのです。私は問われたのです。「おまえは5時まで待てるのか」と。待てど暮らせど迎えに来る主人が分からなくても、きっと迎えに来てくる、と待ち続けることができるのでしょうか。
聖書を開いても、詩編の詩人の「待ち望みます」という叫びを、「はい、はい」とありふれた、分かりきった言葉のように無関心に聞き流すようにしてしまっていないか、改めて問われたのです。詩編の叫びに、私は声を合わせてはいませんでした。これで私たちは本当に、信仰があるかどうか、問われています。本当に、主を待っていると言えるのかどうか、よくよく顧みなければなりません。でも、主に「命(めい)」を受けたならば、「命(いのち)」を与えた主を待ち続けることができるはずなのではないでしょうか。
その神もまた、「私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたい」と思いながら、「その時」を、待っているのではないでしょうか。待ち焦がれる心、待つ信仰が与えられることを、もっと真摯に神に求めてみよ。そう問いかけながら。