ヤエル (3)

2026年8月1日

 エロン・ベツァアナニムでは、ヤエルが一人、夫ヘベルの張った天幕を守っていた。
「奥様。夕食の用意ができました」
 エミマという召使いが呼んだ。
「ありがとう」
 ヤエルは自分の天幕を出て、食事所へ歩んだ。夫のいない間、食事はいくらか質素なものになる。この日も、干しイチジクをつまみながら、薄焼きのパンをいただく程度。
「すみません。限られたものからお作りするもので、このようなものに……」
 エミマがうつむくと、ヤエルは慰めた。
「かまいませんよ。またあの人が帰って来たら、スイカでもウズラでも食べましょう」
 女主人ヤエルの周りには女の召使いが数人おり、さらに下男たちも控えていた。
「それでも明日は、男たちに、魚を捕りに行かせましょう」とヤエルがエミマに言った。「女たちだけでも、少しくらいはちゃんとしたものを食べて生活していかなければ、やっていられませんからね」
「ありがたいお恵みです。バアルさまのくださる雨のようです」
 エミマが思わず呟くと、ヤエルは急に厳しい顔付きになった。
「バアル? あなたはイスラエル人ではな かったの?」
「はい……」
 エミマは、まだ意味が分かっていない。
「イスラエル人がバアルを慕うのは、おかしいわ。少なくとも、あなたのいた町の祖先は、そんなものを拝みはしなかったはず」
「でも奥様、郷に入れば郷に従え、という言葉もあります。このカナンの地で暮らすかぎりは、カナンのしきたりに従うことが必要です。雨を司るバアルさまはまた、一度死んで復活されて王位に即かれた方です。自然の産物が、季節ごとに何度でも新しい命の作物を実らせるのと同じです」
「エミマ」と女主人は優しく告げた。「あなたは、わたしのそばにいながら、まだ分からないでいるの。わたしはもう、そんな神のことは問題にしていないのよ」  エミマは黙ってヤエルを見つめた。ヤエルは続けた。
「心配はいらないわ。あなたはあなたで、試されているとでも思ったのでしょう。バアルを弁護することで、わたしから責められることのないように、と気遣ったのね。そう、たしかにヘベルは、バアルを礼拝している。だからわたしもバアルを、と思ったのでしょう。でも、違うの。わたしは、バアルのことは信じていないのよ」
 エミマはその場にひれ伏した。
「申し訳ございません。知らぬこととは存じながら、奥様に失礼なことを申しまして」
「気にしないでいいから」とヤエルはほほ笑みながら言った。「あなたの言葉は、ヘベルが聞いたら喜んだでしょうね。でも、もう一度言うけれど、あなたはたしかにイスラエル人。あなたの祖先はモーセという、イスラエルの指導者だったのでしょう。イスラエルの神は、民族をエジプトからこのカナンの地までずっと導いたという話ね」
「そうです」
「よかったら、もう少し聞かせてくれないかしら」
 エミマは顔を上げて、自分の知るかぎりのことを話した。
「イスラエル民族は、もともとこの地方にいたそうです。祖先は、メソポタミアのほうから来たとも言われています。イスラエルの神、主がアブラハムという人に声をかけ、導いて、この地方に連れて来ました。でも、大昔飢饉があったため、ヤコブの一族はエジプトへ逃れました。これも民族が生き延びるための、神の計らいでした。イスラエルの血を引く者は、当初はエジプトでも優遇されたのですけれど、しだいに疎んじられるようになりました。神がそのように働いて、エジプトを出る原因を作られたのです。四百年を経て後、モーセという指導者の手によってついにエジプトを脱出し、再びこの地に戻る旅を始めました。主が、この地を与えると約束されたからです。なかなか言っても聞かない人間たちを苦労して導きながら、モーセは四十年の放浪を経験しました。とにかくここまで神の守りがあったのは、奇蹟です。最後にモーセの後継者ヨシュアが先頭に立ってヨルダン川を渡り、それぞれの町を自分たちのものとしていきました。イスラエルの神、主がこの地を約束してくださっていたので、神の名のもとに戦ったのです。こうしたすべての歴史の中に、イスラエルの神が生きて働いているというのが、イスラエルの神、主であり、そういう神をイスラエル人は信じています」
「そして、今その神はなにを考えていらっ しゃるのかしら」
「約束通り、この地で暮らすようにはなりましたが、人々は、イスラエルの神を忘れ始めました。たぶん、神の怒りの時代を迎えているのだと思います。なかなかイスラエルの思い通りに事は運びません。敵が絶えることなく、周りのいろいろな民族に脅かされてばかりです。今は、西はペリシテ人、東はモアブ人、北はカナン人ににらまれて、その力に屈しているというところです」
「よく知っているのですね」
「父が、よく話してくれました。父は、イスラエルの誇りをもった人でした」とエミマは堂々と語った。
 ヤエルは感心した。エミマの語ってくれたことを褒め、ただしヘベルにはこうしたことは黙っておくように、と注意した。
「ヘベルは今、カナン王に仕えています。ああ見えて、なにをするか分からない短気なところもあります。刺激しないようにしなさい。ただしわたしに対しては、いくらでもそのようなことをお話しなさい。喜んで聞くから。わたしはもう、バアルのような像や昔話に満足してはいないの。事実、天幕の中に以前あった像は、捨ててしまいました。それよりも、生きた力、今ここで生き働くような神の力に出会いたい。あなたの話すイスラエルの神のことを聞いていると、心が安らぐような気がするわ」(つづく)



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