勇気を得て行動するべくあなたは呼ばれている

2026年7月27日

マルコ伝の連続講解説教は、10章の終わりまで来た。一行がエリコに来たかと思うと、すぐにエリコを出たという。時は過越祭。大勢の巡礼者がエルサレムを目指す。その道端に、バルティマイという盲人が物乞いをしていた。巡礼者たちから施しを受けるためである。いまでもイスラム教では、「喜捨」と称される施しが、信仰の義務とされているが、中東では広く、弱者への施しという角度で財を用いる文化があった。社会福祉制度が慣習の中で成立していた、とでも言えばよいだろうか。
 
このバルティマイの身になった形で、説教者はしばらくこの物語を語り直した。視点を換えて物語を聞くというのは、新鮮でよいものだ。聞く者への響き方が変わってくる。特にここでは、わざわざバルティマイという名を記しているのは何故か、という考察から、きっとその後教会で「バルティマイおじさん」としてこの出来事を証言し、有名だったのではないか、と説教者は推測してのことだった。
 
ナザレのイエスという名は、このバルティマイにも伝わっていた。だから、ただ施しを受けようとして、イエスを待っていたのではなかったようだ。イエスに「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫び、しかも周囲の人々が叱りつけて黙らせようとしたが、見えないバルティマイとしては、どこにいるか分からないイエスに、渾身の力をこめて叫ぶしかなかった。
 
それがイエスの耳に入った。バルティマイが欲しいのは、金ではなかった。「また見えるようになること」だった。そして、イエスはその願いを叶えた。ぱっと見、この場面はそれだけのものであるかのように捕らえて、通り過ぎるかもしれない。だが、説教者はそのあちこちにツッコミを入れる。ツッコミが入れられる故に、この物語が好きなのだという。
 
「ツッコミ」という俗な言葉で表現したのは、誤解を招きかねないかもしれない。つまりは、熟考して検討すると新たな発見が幾つもある、という意味である。
 
この説教は、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」の言葉の焦点を当てて語られたと言ってよいだろうと思う。見やすさのため、「@安心しなさい」「A立ちなさい」「Bお呼びだ」と番号を付けて、触れて行こうかと思う。
 
「@安心しなさい」と「A立ちなさい」は、イエスがよく、声をかけるときに使う言葉である。だが、イエスは決して「Bお呼びだ」とは口にしない。そう。この@ABは、「人々」が盲人を呼びに行ったときに、「人々」が盲人に対して告げた言葉なのであって、この後「盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た」のである。「人々」は、イエスの代弁をしたか、または「Bお呼びだ」を言いたいだけの目的だったが、ちょっとした付け加えで当然であるかのように、@Aの声をかけたか、というところなのだろう。
 
「@安心しなさい」について、説教者は英訳で「take heart」を採用していた。私の見た限りでは、English Standard Versionとあとひとつの英語訳聖書がそれであったが、多くは「cheer up」か「take courage」または「Have courage」であった。このギリシア語は、多くの新約聖書の箇所で「勇気を出しなさい」と訳されている場面が目立つため、「courage」寄りに受け取るのが、ニュアンスとしては適しているように思われる。
 
ただ、この場面では、多くの人々が盲人を黙らせようと叱りつけた後だったので、いきなり話しかけるのに「勇気を出しなさい」は日本語としては不自然である。「安心しなさい」の邦訳は適切であるかもしれない。英訳でも「Don't be afraid」もちらほら見られたから、「恐れるな」の響きも加わってよいだろうか。周囲の者はおまえを叱りつけたが、大丈夫、イエスさまが呼んでおられるから来なさい。そんな雰囲気であったものと思われる。なお、「勇気」という概念には注目すべきであることは、時折私が口にしているが、いまここでは拘泥しないことにする。
 
「A立ちなさい」は、イエスが「復活する」ときに使われる言葉だ、という説明があった。だがむしろ、復活することについて婉曲的に(「隠れる」という言葉が「死んだ」ことを表すことがあるように)、この言葉を用いたのではないかと推測する。復活を積極的に示すのは後にイエスの復活を証しするようになってからが本格的であって、それまでは「上げる」「立ち上がる」または「目覚める」の意味で使うことが明らかに多いからである。また、「人々」が盲人に対して「復活せよ」という呼びかけをする意味が全くないことからすると、ここは立ち上がって行動せよ、の意味でよいのではないかと思う。
 
「Bお呼びだ」は、どうして原語にある「あなたを」を訳出しなかったのか、不思議である。「おまえを呼んでおられる」のような方が自然ではないだろうか。ただ、やはりこの呼びかけの後で、まだ癒やされていないうちに、もしかすると施しのためにも役立ったのかもしれない、マントあるいはコートをかなぐり捨てて、躍り上がった、ということが目を惹く。もちろん、あの「人々」が連れて行ったはずだが、もうイエスに呼ばれた、というだけで、バルティマイは天にも昇る心地だったという様子が伝わってくる。
 
ここで「あなたを呼んでいる」という「あなた」が必要だと私が思う訳は、読者もまた、このイエスからの呼びかけ、正確に言えばイエスの言葉を預かった「人々」、多分に私たちにとっては天使から伝えられたイエスの言葉を、自分に対する呼びかけだと受け取ることができるからである。「お呼びだ」だと、このバルティマイの話だけのように、遠く客観的に眺めてしまうかもしれない。だが「あなたを呼んでいる」という一言は、読者にとり、神から自分への呼びかけであるように聞こえる可能性を、ぐんと増やしてくれるのである。実際私も、聖書の幾つの場面から、「これは自分のための言葉だ」という声として聞いたことだったろう。
 
説教者は、「スピーチアクト理論(言語行為論)」というものを紹介してくれた。少しく解説を加えると、言語学者のオースティンが『言語と行為』などで提唱した考えであって、「人々が言葉を使って何を行うのか」という社会的な機能を強調した捉え方である。言葉は行為を促す。たとえば、場面によっては、「今日は寒いね」という言葉が、「窓を閉めてね」に聞こえて、窓際にいる私は窓を閉めてやる、という行動に出るだろう。「今日は寒い」に、「窓を閉める」という意味合いは全くない。が、人間はその言葉を用いることによって、誰かに行為を促すということができるし、そのような意味として受け止めるように、普通考える。もちろん、鈍い人はどこの社会にもいるし、「空気が読めない」と言われたのは正にそういうことである。私はしばらく京都で暮らしたが、京都の文化は、表面上の言葉の意味とは違うところに意味を理解する文化でもある、という点では特に有名である。
 
言語が、ただ陳述のためにあるのではなく、説明の真理だけの役割をしているわけではない、という働きを明確にしたことで、言語学は大きな展開を迎えた。世界を映し出すものとしてのみ捕らえて哲学を完成した気でいたウィトゲンシュタインが、後期に転向したようになり、言語ゲームという考え方を示したことにも、オースティンは影響を受けているのであろう。
 
聖書は、ただそこにあるお話としてあるわけではない。そうとしか読まない人がいても、もちろん構わない。だが、そこには命が注がれない。聖書を通じて神と出会い、神の言葉が自分を変え、自分の行為を変えてゆく。聖書の物語は、それに触れる者に、何らかの行動を求めて呼びかけている。
 
先の@ABは、「人々」を通じてイエスの言葉が伝えられたというものであったが、それらはバルティマイを確かに変えた。まだ癒やされる前にも、その呼びかけによって、バルティマイは喜び躍るまでに変えられた。そしてイエスの前に出る。私たちもまた、バルティマイと共に神の前に呼び出される。そのとき、問われる。「何をしてほしいのか」と。そのときはっきりと、バルティマイは答えを準備していた。「先生、また見えるようになることです」と言うからには、この人は最初は晴眼者であったと思われる。
 
イエスは、彼の目に泥を塗ったわけではなかった。ただ言葉だけが渡された。「行きなさい」との言葉だったが、これはニュアンスとしては、「去って行く」とか「自分の道を行く」とかいう感覚で使われることがあるらしい。もうこれまでの、施しに縋る生き方から離れるのだ。そして、これから新しい道を行くのだ。
 
確かに「あなたの信仰があなたを救った」という言葉も味わう必要がある。バルティマイの一途な信頼を、イエスは嘉したというところだろうか。当然、目が見えるようになる。これは普通に考えて、驚くべき奇蹟であり、イエスの業が輝いている場面である。ただそれよりも、この箇所の最後の言葉の方が私の心に響く。この盲人が、「なお道を進まれるイエスに従った」ということである。
 
実はイエスは、最初に「バルティマイ」という名前を挙げた後は、この固有名詞を聖書記者はもう書いていない。全て「盲人」と訳しているのは邦訳聖書であるが、原文ではそうなっていない。49節の「人々は盲人を呼んで」と、「51節の「また見えるように……」と言った主語は「盲人」であるが、他は、動詞の活用だけで示された「彼は」という言い方しかしていない。
 
そこで、躍り上がってイエスのところに来たのも、見えるようになってイエスに従ったのも、「盲人」でない響かせ方をしていることになる。そう。私たちを容易にそこに読み込めるということである。私は、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と呼びかけられると、喜んでイエスのところに来たのだ。そして、見えるようになって、イエスに従うようになれるのである。
 
「なお道を進まれるイエスに従った」という姿は、聖書から私への呼びかけである。おまえもこのようにするのか・しないのか。「このように」とはどういうことだろうか。それは、この「道」をもう少しだけ具体的に決めることによって分かる。マルコ伝のイエスは、ガリラヤ湖近くから、エルサレムへの道を進んできた。ルカ伝ほどの直線性はなかったかもしれないが、少なくともここでは、エルサレムに近いエリコまで来ている。
 
過越祭への道は、十字架への道である。そのため、エリコに留まって云々という記述をマルコはしなかった。そこはもうエルサレムへの入口。十字架への道が、始まっている。バルティマイは、否、私は、十字架への道へと誘われたのである。「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」(マルコ8:34)と、弟子たちだけでなく、群衆をも呼び寄せてイエスは告げている。正に「人々」へも、そう言ったのではないか。
 
「人々」は、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と、バルティマイにイエス言葉を伝え、イエスの許に連れて行った。私たちは、呼ばれたバルティマイとしてそこにいる。私もまた、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と呼びかけられて、勇気を得て、行動を起こし、あなたを呼んでいる、との知らせに直截に応えるように求められている。
 
普通はそれを感じて終わりである。だが、説教者は新たな光をそこに当てた。私たちは、ここに登場した「人々」でもあるのだ。神の言葉を、伝えることができるではないか。神の言葉を語る説教ができるではないか。
 
否、説教者の見せた世界は、その程度のことではなかった。説教者はこの点で、「説教」に限定することなく、「奇蹟に参加できる」という意味のことを言った。それは、昔説教者が聞いたという説教題のことだった。「奇蹟に参加する方法」といったそうだ。五つのパンと二匹の魚を数千人に配ったとき、イエスはそれらを裂いただけで、実際に一人ひとりに渡していったのは弟子たちであった。イエスの配ったパンは、命のパンであった。そして神の言葉は命の言葉である。イエスの言葉を私たちも、一人ひとりに渡しに出て行くことができるはずなのである。



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