逃れの町

2026年7月21日

「逃れの町」という規定が、旧約聖書にはある。
 
当時は報復も通用していた。日本でも、仇討ちは認められていたのだし、西洋では、少し違うが決闘という制度があった。古代に於いては、目には目を歯には歯を、が通用していた。これは、報復がえてして、やられた以上にエスカレートするのを抑えた、という解釈もある。なるほど、いま「戦争」として目に映っているのは、そうした果てしない報復の故であると理解すると、人類はさほど進歩していないとしか結論づけられない。
 
「逃れの町」は、いわゆる過失致死の場合、報復されないように保護しようとする制度である。細かな規定は旧約聖書を直接ご覧戴くとよいのだが、けっこうありがちな事例が具体的に挙げられていて、その事例を基に、「逃れの町」という制度の意味を理解するのは、多くの人に可能であるように思われる。
 
民数記は、征服したイスラエルの土地に、六つの町を定めている。但し、そこの境界線を出たら、逃れる効力を失うことになる。血の復讐を願う者は、町の中には入れないが、外で待ち構えることは可能だったらしい。
 
そして、大祭司が死んで代わるときに、自分の町に戻ることができるのだという。それでは危なくないか、とも思われるが、法の効力や実態については、研究者にお任せしようかと思う。
 
それとは少し違うが、カトリック教会には「告解」という制度がある。先日読んだ『アンジェラの灰』という自伝小説には、この告解にまつわる体験が生々しく書かれていた。実際いろいろな司祭がいるようだが、ともかく告解の場での告白は、絶対秘密である。そして、司祭はどんな罪に対しても、赦しの宣言をしなければならない。私はその実際を知らないので、なんとも言いようがないのだが、一種の「逃れの町」のような働きを担っているのかもしれない。
 
イエス・キリストが凡ゆる罪を赦す。これがキリスト教の骨格である。特にカトリックは、教会が神からこの世での働きを一任されているのであるから、罪の赦しという意味でも、重要な働きを担っていることになる。
 
プロテスタント教会ではどうだろう。人の前での告解という制度はない。だが、神の前にそれは必要である、とされている。だから、告解制度をつくれ、などと言いたいわけではないが、教会というものが、「逃れの町」となっているのかどうか、それは問うてもよいのではないか、と思う。
 
教会が殺伐とし、互いに裁き合うような様子をパウロは嘆いているが、現代でも随所で見られる風景である。教会同士でもそれはあるし、教会内でもないとは言えない。
 
かと言って、なんでも「なあなあ」で許すというのがよいのかどうかも、私は疑問である。このバランスは、簡単なようで、案外難しい。ただ、教会がある種の「逃れの町」の働きをするようなことは、あって然るべきではないか、とも思うのだ。罪を背負った者が、悩む中で教会を訪ねる。そこで、赦しと救いが神からもたらされる。そういった場として、教会は機能することができたら、と願っている。



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