先頭の勝者
2026年7月20日

マルコ伝の連続講解説教は、11章でいよいよエルサレムを舞台とする。説教者は、ドイツのマルティン・ケーラーの言葉を引用した。マルコ伝は、「長い序文付きの受難物語」である、というのだ。世界初の「福音書」という文学ジャンルを打ち出したマルコ伝のオリジナリティはただならぬものがあるが、それだけに従来の神話や伝説とは違うものがある。私たちの常識をも覆している。そこに示したかったのは、受難物語だったはずだ、と捉えたい。だがそこへ至るには、必然性を伴う背景がある。その背景を、序文という呼び方で、10章まで、あるいは13章までのイエスの歩みの描写だと見なしたのである。
直前を2週にわたり、イエスの眼差しの側からと、弟子たる者の立場からと、角度を換えて語ってきたのを受けて、今日の箇所は、もう一歩進む形になっている。予め、場面を掲げておこう。まず、十字架と復活の、三度目の予告である。次に、ヤコブとヨハネが、栄光の国で大臣にしてくれと申し出た。この場面は、イエスが自分では決められないと応えたことで一旦終わるのだが、他の弟子たちが二人の抜け駆けに対して怒ったことへイエスがコメントするところまで進むことになる。
説教者はまず、自分たちの置かれた場所を確認する。もちろん弟子たちの置かれた場所という意味だが、同時に聴く私たちもそこにいるのでなければ、説教にはならない、という前提からである。
「序文」も煮詰まってきたことから、これはエルサレムへの道である。
32:さて、一行はエルサレムへ上る途上にあった。イエスが先頭に立って行かれるので、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。
ここで説教者は立ち止まり、今日の礼拝の重要なポイントを示した。イエスが「先頭」だったことである。そのために、幾つかの事例を話して、リーダーたる者がまず先頭に立つ者だ、ということを伝える。危険を察知するには、指導的立場にある者であることが必要だからだ。
この、イエスが先頭に立って行くというイメージを、私たちは説教の間、ずっと思い浮かべていることになる。また、そうしなければならなかった。出エジプトの旅を行くイスラエルの何十万人という民にも、主が先立って行ったことを、私たちは忘れない。
主は彼らの先を歩まれ、昼も夜も歩めるよう、昼は雲の柱によって彼らを導き、夜は火の柱によって彼らを照らされた。昼は雲の柱、夜は火の柱が民の前を離れることはなかった。(出エジプト13:21-22)
十字架と復活の予告については、今日は細部を読み込むことはなかった。場面の転換は、弟子たちの姿を浮かび上がらせる。
「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」という、ヤコブとヨハネの願い出があったのだが、説教者は、この言葉を直訳調で紹介した。「先生、私たちは願うのです。私たちがあなたに求めるならなんであれ、私たちにしてくださらないか、と」いうような言い方である。これをある方は、「いまからお願いするから聞いてくれるわよね」と、願う前から甘えて迫る女性の言葉のように説いていたが、いまならジェンダー的に問題があるかもしれない。説教者は、「白紙の小切手を求めている」という昔の註解書にあったという表現を用いた。私が調べた中では、2012年にスティーブ・ハーシュのこの箇所からの説教の中に、経済的な危機に陥った親友が尋ねてきて、幾ら必要なのかとこちらが訊くと、「白紙の小切手を書いてくれ」と言ってきたらどうか、それとここでの二人の頼みは同じことなのだ、とするものがあった。
イエスはそれを咎めようとはせず、「何をしてほしいのか」と問うた。実は同じマルコ10章のもう少し後で、同じ問いをイエスは発している。
イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、また見えるようになることです」と言った。(マルコ10:51)
それはそうと、イエスは二人に対しては寛容な態度であったように見える。ペトロに対しては、「サタン、引き下がれ」(マルコ8:33)と厳しい姿勢を見せていた。二人の問いが、何かしら時が迫る中でのものだったからなのだろうか。エルサレムがもうすぐ先に来ている。何かが起こりそうである。いまこそ、この先の運命が定まる時なのかもしれない。願いたいことは、黙っていないで知らせておくべきではないか。
しかしイエスは二人を肯定したわけではない。「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない」と却下する。そして、二つの点を、上げた。「杯」と「洗礼」である。聖書で「杯」はしばしば厳しい体験を指すことになる。説教者は次の箇所を引用した。
奮い立て、奮い立て/立ち上がれ、エルサレムよ。/あなたは主の手からその憤りの杯を飲み/よろめかす大杯を飲み干した。(イザヤ51:17)
また、「洗礼」については、「滴礼」と「浸礼」について説明を加えたが、この全身を水に浸すということの苦しさを強調した。そもそもこの「洗礼」という語は、甚だしく解するならば「溺死」の意味を響かせるものだったのである。
さて、ここからあるミッション系の学校の修養会の指導を担当したときの話がしばらく続いた。掲げられていたテーマは「信?」だったそうで、説教者はそこでKANの「愛は勝つ」の歌詞を題材に問うた。尤も、学生たちが生まれるより20年近く以前の歌であることに、説教者は当初気づいていなかったようであった。
KAN、すなわち木村和(かん)さんは、子どものころずっと、福岡市のバプテスト教会の教会学校に通っていた。その後洗礼は受けていないようだが、夫妻共に教会にも関わりをもっていたらしく、その歌詞にキリスト教の感覚があったとしても、不思議はない。なお、その兄の木村索さんは、福岡のジャズ界では有名な人で、ジャズでの活動中に我が三男もお世話になっている。
さて、「愛は勝つ」は正にそのままの歌詞内容であるのだが、「心配ないからね」に始まり、「信じることを決してやめないで」「信じることさ 必ず最後に愛は勝つ」と歌う。では現役高校生は、「最後に愛は勝つ」ということを信じられるであろうか。興味深い質問だったが、信じる立場が25%だったという。
もうその親の世代でも、日本の景気のいい時代を知らない。かといって貧しい国だと言うのは他国に失礼なものではあるが、バブル経済の狂乱のようなものを知らない、という意味だ。そういう環境の中でしか生きていない若者がどう感覚するのか、それは、両方を知る大人たちには分からない。生まれたときからデジタル機器がある子どもたちが、世界をどう見て、世界とどう関わっているのか、大人は分かっていないのと同様に、このような機会に対話でもしなければ、ずっとコミュニケーションができないままになってしまうかもしれない。
特に高校生とくれば、東日本大震災のことがしきりに叫ばれる時期を子ども時代とし、コロナ禍で不自由を強いられた経験が成長期を刻んでいる。そしていま、大国が当事者となる戦争の報道が途切れない毎日を過ごしている。どのように世界や社会を見つめているだろうか。それを表に出してくれるだろうか。
しかし、こうして問いかけることで、真摯に心の声を聞かせてくれた、と説教者は感動交じりに話してくれた。
例えば、「信」あるいは「宗教」へのつながりがあるとすると、それは「思考停止」してしまう、というイメージが強いことが分かってきたのだという。それは高校生だけではなく、一般に漂うイメージなのだろう。宗教は束縛され、思考停止する。確かに、一面に於いてそういうことがあるのは確かだ。だが、それだけではあるまい。イエスはむしろ自由を与える。真理は自由を与え、イエスが真理であるのならば、結論はそうなるのだ。
「愛は勝つ」などという、実現不可能であるようなことを信じないことの方が、実のところ精神的には楽である。「どんなに困難でくじけそうでも 信じることさ 必ず最後に愛は勝つ」と閉じるあの歌を信じる方が、よほど苦しいであろう。こんなはずではないか。いまは苦しくてもいっかきっと。そう思い続けることは、確かにしんどいかもしれない。だがそれは、思考を決して停止はしない。
イエスに従うこと、イエスは何を求めているのか、祈りつつ、キリスト者は決して思考を停止しない。この苦しみに何の意味があるのか、聖書にはどう書いてあるのか、私たちは問い続ける聖書には、一意的な答えが書いてあるわけではない。だが、読む者が求めて聖書を開くとき、いま自分にとり必要な言葉が、いま自分に理解できる形で、神の語りとして外から響いてくる。パウロが「死にかけているようでいて、こうして生きており、懲らしめを受けているようでいて、殺されず、悲しんでいるようでいて、常に喜び」(コリント二6:9-10)などと言っていたことを思い起こす。
あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、あなたがたの中で、頭になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。(マルコ10:43-45)
止揚学園の創設者の福井達雨さん(同志社大学神学部卒業)が、ご存命のとき、一度京都の教会に来てくださったことがある。「止揚シスターズ」という、女性職員による歌と踊りも交えて、楽しい、そして教えられるひとときだった。「止揚」というのは哲学用語で、Aに反対するBがあるとき、それが対立のままで終わるのではなくて、それらを綜合する新しいCへと発展する営みを言う。ドイツ語の「アウフヘーベン」が、「破棄する」意味と「保存する」意味とを兼ねていることから、ヘーゲルがその壮大な哲学の核心にこの考え方を打ち出した。社会の周辺に追いやられた障害者との共生を願ってのネーミングではなかったかと思う。
絵本をその場で買うと、サインをしてくださった。ちょうど絵本好きな長男を福井先生の前に立たせたら、福井先生のひとつのモットーである言葉を書いて、サインしてくださった。「偉い人にならないで立派な人になりなさい」の言葉は、忘れることができない。
威張った人間はいらない。だが神の前にある矜持や誇りというものは大切にしたらいい。それは愛になるだろうし、希望をもたらすだろう。「偉くなりたい者」は、その意味で、威張るために求めるのではなくて、むしろ「仕える者」となれ、とイエスは言ったのだ。それは、リーダーになるな、という意味ではなかった。却って、人々の先頭に立ち、ファーストペンギンとして勇気をもって事に当たることが求められて然るべきであろう。
ただ、自分はイエスより先に出るわけではない。先頭はイエスだ。安心してこのリーダーを信頼したらいい。イエスの背中を見つめながら、信じて行くがいい。もしかすると、時折振り向いてくださるかもしれない。愛の眼差しを向けてくだされば、それを受け止めよう。
また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。(マルコ10:45)
昨年2025年のNHKの大河ドラマ「べらぼう」は、遊郭をとことん描くという勇気ある設定だったが、そこで度々「身請け」が話題となった。説教者はイエスの「身代金」を「身請け」にも擬えたが、遊女がそれを支払うまでは格子の向こうで囚われた奴隷のような存在であるとすると、私たちは罪の奴隷であったことになる。だがいまや、イエスという大旦那が、命という大金を支払って、私たちを自由にしてくれた。「身請け」であればその旦那の妻か妾になるわけだが、今度は私たちは、イエスを主人とする立場になる。誤解を招く可能性もあったが、説教者はそれを「心の奴隷」と称した。
高校生たちは、何に囚われていただろう。ミッション系の学校とはいえクリスチャンばかりであるわけではないのであって、多くの学生が、「自分を信じる」ことを求めていた。私も着眼している、近年長いこと、流行歌の歌詞には、しばしば「自分を信じて」というようなフレーズがサビを飾る。それを聞き育つことで、大切なのは「自分を信じる」ことだ、と考えるようになるのも当然である。
昔の学生運動も、大人の言いなりになってそれを信じることへの反抗があっただろう。教師の言いなり、会社の言いなり、外国の言いなりなど、いまもずっと変わらないままに、抵抗したいものがあり、その対極にあるのが、「自分自身」というものだった。どんなことがあっても、自分を信じていることが、自分に最も満足を与えることだろう。
だがそれは、向きを変えて見れば、自分の他に信じられるものがない、ということを含意していないだろうか。自分の他に神があれば、それは束縛であり思考停止である、と直結するわけだが、それにも背を向けるならば、「信じる」対象は、自分しかいなくなる。もしかすると、他に信じられるものがなくて、あるいはまた、他の何かを信じることが怖くて、仕方なしに自分を信じているかもしれないのではないか。
しかし、本当にそんなに自分を信じることができるのだろうか。私のように、自分こそ最も信じられない者である、と感じている人は案外多い。自分の愚かさや不純なところ、勇気のなさやだらしなさなど、とてもじゃないが信じる余地が自分にはない、と見るのである。強く自分を信じると言っても、自分に囚われていることは明らかである。自分は生まれなかったほわうかよかった、という考え方がここしばらく一定のファンをもっているが、それもまた、とことん問題の対象は「自分」なのである。それから逆に、そもそも自分に自信がもてない、というケースもある。強がってみてももてない場合もあれば、最初から自尊心がない、ということも多々あるようだ。
自分を信じるにせよ、信じないにせよ、そこにあるのは「自分」へのこだわりであり、いわば「自分」という沼にはまっている姿である。そこから救い出すということの中に、私は福音を見たいと思っている。少なくとも私は、そのような過程によって、福音へ導かれた者である。
「一人を先生の右に、一人を左に座らせてください」という願いから、説教者はひとつの幻を思い浮かべる。この「右と左」についてである。マルコ伝がこの後、もう一度だけ「右と左」を話題にすることがある。私も瞬時にそれが浮かんできた。
また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。(マルコ15:27)
イエスの横で息絶えた二人の犯罪人の姿は、私たち――私である。ヤコブとヨハネの願いに対するイエスの答えは、これだったのかもしれない。それは救いようのない死の現場ではなかった。イエスの十字架は、愛の勝利であった。それによらなければ救われない、どうしようもない者を救う、勝利の旗であった。私たちの先頭を歩いていた、イエスのもたらす勝利であった。安心して、この大将に従えば、負ける戦はありえないのだ。
こんな命ある説教を受けることができて、私は幸福である。ただ、ここからどうするのかが、本当に大切なことなのであるが。