【メッセージ】異言と預言

2026年7月19日

(コリント一14:1-19, 詩編55:17-19)

預言する者は、人を造り上げ、勧めをなし、励ますために、人に向かって語っています。……預言する者は教会を造り上げます。(コリント一14:3,4)
 
◆愛に劣る預言と異言
 
「異言」と「預言」。聖書の話に慣れた方でも、少々構えてしまいます。まして、教会に来て間もない人が「異言」とか「預言」とかいう言葉を聞くと、頭の中は「?」ばかりになってしまうかもしれません。未来の「予言」のことかとも思われるし、神の「威厳」のことくらいしか頭に浮かばないのではないかと思います。
 
異なる言葉、のように書いて「異言」といいます。教会の中では、少々悩ましい問題です。殆どの教会は、さしたる考えをもっていないと思います。これを重んじるのは一部の教派だけだ、と言われることもあります。
 
コリント教会には、どうやらこの「異言」があったようです。そもそもこの教会について、パウロはほとほと手を焼いていました。パウロが生んだ教会らしいのですが、信仰があるんだかないんだか、なんだかよく分かりません。私たちから見ても、つい、自分の教会の方が、コリント教会よりはましだな、と思ってしまうほどです。
 
分裂あり、不道徳あり、いったいこの都会の教会は、何を信じていたのでしょう。パウロは怒りから手紙を始めています。でもそのうち、聖書で最も美しいとも見られる「愛の章」という叙述がありますし、その先には「復活」について聖書の他のどこよりも最も詳しく綴った章もあります。しかし逆に言えば、コリント教会には愛がなかったから、また復活が分かっていなかったから、それらの章があるのかもしれません。
 
今日は、その愛の章と復活の章の間に位置する手紙を開きました。愛の章の前には、神から受ける「賜物」というものがいろいろあるのだ、と書かれていました。そこにも、ちらほらと「異言」というものが登場していました。ただ、主役ではありませんでした。
 
その愛の章の中は、まず「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル」(13:1)と始まりました。「異言」があることが前提されていました。
 
続いて、「たとえ私が、預言する力を持ち、あらゆる秘義とあらゆる知識に通じていても、また、山を移すほどの信仰を持っていても、愛がなければ、無に等しい」(13:2)ことが明言されていました。今度は「預言」ですが、やはり愛がなければ意味が無い、としています。そして、愛のオンパレードは、次の決定的な言葉で結ばれます。
 
愛は決して滅びません。しかし、預言は廃れ、異言はやみ、知識も廃れます。(13:8)
 
このようなことを述べてきたパウロが、何か気になったのでしょうか。次の14章で、いま触れた異言、そして預言という問題を中心に据えて、しばらく論じます。「預言」という言葉は、この後の新約聖書の巻に幾度も登場しますが、「異言」という言葉は、新約聖書ではもうぴたっと現れなくなります。
 
◆聖霊と異言
 
ところで、この「異言」とは何でしょう。難しい問題です。新約聖書のギリシア語では、「舌」という語が使われています。この章では、基本的にそれは「異言を語る者」という語句で登場しますが、それは「舌で話す者」というような意味の言葉からできています。「舌」という語は、メタファーのようにして、「言語」を表すときに用います。
 
但し、獲得したのではない言語のことを言う、という説明も見かけました。そんなふうに言われると却って難しくなるのですが、恐らくここでは、身についた言語でもないし、学習した言語でもないことを話す、というように理解された言語のことを言っているのでしょう。
 
「異言」という言葉が新約聖書で使われたのは、ここの他には、使徒言行録だけです。10章で、カイサリアの異邦人コルネリウスの家で、ペトロの説教を聞い異邦人が聖霊を受けたしるしとして、「異邦人が異言を語り、神を賛美している」(10:46)ことで、「異邦人にも聖霊の賜物が注がれた」(10:45)ことが分かった、としています。
 
また、19章では、正にこのコリントという地で、聖霊というものを聞いたことがないという人々に対して、パウロが按手を施したため、「聖霊が降り、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした」(19:6)と記されています。
 
ここだけです。
 
待って下さい。私たちはペンテコステにまつわる聖書で、不思議なことを喋る場面を目撃しなかったでしょうか。「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(2:3)後、「一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした」のではなかったでしょうか。それは紛れもなく、他の地域の言葉であったことが記録されていますが、しかしそれは「異言」である、とは書かれていません。
 
カイサリアでは、聖霊を受けたしるしだったのが「異言」だとされていたからには、このペンテコステの出来事で語られていたのも、「異言」だったのではないか、と推測されます。が、即断は禁物です。
 
そのとき、人々が、異国の言葉だと認識したのは確かです。しかし「異言」が即ち外国語である、というふうに決めつけることはできません。また、そのペンテコステの事件のときに、批判的な人々もいたことが分かります。
 
人々は皆驚き、戸惑い、「一体、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、嘲る者もいた。(使徒2:12-13)
 
もちろん、酔っ払っているのではありません。そう言ってペトロは、そこから弁明を始め、ダビデ王とキリストとのつながりについて説教を始めたのでした。
 
◆酔っているように
 
酔っ払って管を巻く、という言い方があります。最近はあまり聞かなくなりました。酔ってだらだらとつまらないことや不満などをしつこく喋り続ける様子をいいます。聖霊の出来事は、他人から見れば何かそんなふうにも見えたのかもしれません。ぶつぶつ訳の分からないことを喋り続ける様子は、確かに異様です。
 
しかし聖霊が降ったとき、弟子たちはそういう状態になっていたようです。陶酔しているような感じにも見えますし、いまなら「トランス状態」とそれを呼んだかもしれません。
 
サウル王もそうでしたが、強い霊が降り注ぐときに、異常な反応をした例が、旧約聖書に書かれていることがあります。新約聖書だと、それを聖霊が降った、という説明で終わらせるのですが、旧約聖書だと、さすがに聖霊だとは言いません。
 
ところが、何か陶酔している様子を、ペンテコステのときのように、酒に酔ったようだと描写した例があるので、思い出してみましょう。それはサムエル記上1章です。預言者サムエルの出生にまつわる説明の場面です。
 
ざっと事情をお話しすると、エフライムにいたエルカナという男には二人の妻がいた。当時は咎めらることではない。ハンナとペニナというが、ペニアには子たちがあり、ハンナにはいなかった。子どもがいる・いないで、妻の価値が決まっていた時代である。エルカナはハンナを愛していたので辛い目には遭わせなかったが、ペニナの方は嫌な態度をとったらしい。
 
ハンナはそのいじめのためにその日、泣いていた。食欲もなかった。エリという祭司がいた。主の宮に出向いたハンナは、そこで悲しみに沈んで主に祈り、激しく泣いていた。このとき、主に誓うのだった。男の子が生まれましたらその子の一生を主に献げます、と。
 
そのようにして、ハンナは長いこと祈っていた。祭司エリはそれを見ていた。ハンナの唇は確かに動いていたが、声は聞こえなかった。そこで、「エリは彼女が酔っているのだと思い、彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」」(サムエル記上1:13-14)
 
ハンナは酔っているのではないと否定し、「ぶどう酒も麦の酒も飲んでおりません。主の前に自分の胸の内を注ぎ出していたのです」(1:15)と言い、さらに「積もる憂いと苦しみのため、今まで神と語らっていたのです」(1:16)と応えたのだった。祭司はハンナを祝福する。すると、ハンナの「表情はもはやこれまでのようではなかった」(1:18)と記録されるようになり、この後男の子が授かる。それが、後にダビデを王とする預言者サムエルであった。
 
ハンナの祈りが「異言」であると言うつもりはありません。また、ハンナの祈りが、神からのもの、聖霊の注ぎによるものだ、と理解することも、ここではできません。熱心な、必死な女の祈りでした。しかし、熱心に口元が動いていたから、祭司エリはそれを声として認識することはできませんでした。そして、酔っているのか、と勘違いをしました。
 
ペンテコステの日の出来事も、酔っているのか、と思われる姿がありました。もしかすると「異言」というものについても、何か酔っているような様子が見られるのかもしれません。そう、確かにそれは「聖霊に酔っている」と表現してもよいのではないかと思うのです。
 
◆言葉にできない
 
私個人について言うと、自分から異言が出たという経験はありません。自分では、そういう体験はないと思っています。また、傍で誰かが異言を語るのを聞いた、という経験もたぶんないだろうと思います。けれども、祈りの言葉を聞いて何を言っているのかよく聞き取れないことはありましたし、もしかするとあれは異言だったのか、と思ったことが、ないわけではありません。
 
異言は、他人に普通に理解されない言葉から成っているようです。誰にも理解できる言葉ではない。しかし本人は、熱心に祈っています。本人が神との交わりの内にあることを、否むことはできません。
 
このコリント書でもパウロは、「あなたがた皆に異言を語ってほしい」と思っていると言っています。――でも、私はここに引っかかりを覚えるのです。どうも、パウロとコリント教会の関係の中で、またここでのパウロの主張を鑑みて、バランスがよくないような気がするのです。本当にコリント教会で、異言が飛び交っていて、それをパウロが推奨しようとしているのでしょうか。
 
実際に異言を語る者がいるのか。落ち着いて読み直すと、本当にいたのか疑わしくなってきます。はっきり、いる、と書かれているようには見えないからです。しかし、「はっきりした音」などの例を挙げ、意味の分かる言語をちゃんと話して、教会を造り上げようよ、と言いたいのであるように思えます。そしてまとめるようにして、「こういうわけで、異言を語る者は、それを解き明かすことができるように祈りなさい」と言っているのですが、どうしても私には、リアリティが感じられないのです。
 
しかし、いまはそれに拘泥せず、パウロが「異言」についてどのようなことを言っているか、もう少し見つめてみましょう。パウロは、「異言を語る者は、人にではなく、神に向かって語っています。誰も聞いていないのに、霊によって秘義を語っている」と言っています。最後の「霊によって秘義を語っている」というところは、別の訳では「霊に向かって神秘を語っている」とも考えられるという注釈があります。これだけ見ると、私たちが普通に個人で神に向けて祈っているその祈りと非常に近いものであるような記がしませんでしょうか。
 
でもそれは、解き明かすことがなければ、他人に伝わらない、というようなことをパウロは考えています。他人に伝わらない、自分だけの祈り。そのようなものがあるでしょうか。私たちは、言葉にならない祈りという経験があると思うのです。何と祈ってよいか分からない。言葉にならない。ただ「主よ……」と口にしただけで、言葉が続かない。でも、神に心をすべて向けて祈っている。聖書はときにそれを「呻き」と呼ぶことがあります。
 
旧約聖書の詩編の中にも、詩人の呻きが告白されており、またそれを神が聞き知っていてくださる信頼をダビデが謳っているものがあります。
 
夕べも朝も、そして昼も/私は嘆き、呻きます。/神は私の声を聞いてくださる。(詩編55:18)
 
呻きのような祈りがあるのは確かです。でも、パウロはそれはそれで認めているのだと思います。言葉にならない声で祈る、それもアリです。神は心の真実を分かってくださるのです。美辞麗句で飾るのが祈りのすべてではないのです。
 
しかしもちろん、礼拝プログラムでの「公祷」のように、他の人に聞かれるべき祈りというものもあるでしょう。意味の伝わる言葉で祈るべき場面は、確かにあるでしょう。
 
◆預言
 
ですから、「異言」は「預言」と対比されてこその説明となります。私たちにとり謎の多い「異言」ですが、パウロの口からも、その対比が目立ってきます。そして、預言について言えばそれは同時に、その逆としての異言が際立ってくることになります。
 
すでに「異言を語る者は自分を造り上げますが、預言する者は教会を造り上げます」と言っていました。ですから、「預言する者は、人を造り上げ、勧めをなし、励ますために、人に向かって語っています」と言います。こうして見ると、パウロの思惑はともかくとして、私たちにとってこの「預言」とは、いまの教会での「説教」に匹敵するようにも思えてきます。同じものだとは言いませんが、類推できるかもしれない、と感じます。
 
そこで「異言」のほうですが、「異言を語る者が、教会を造り上げるためにそれを解き明かす」必要があることを述べています。先にも検討した、私たちの呻くような祈りで神との交わりを果たしているとすれば、それを他人が聞いても理解できるように、共同体の祈りとして明らかにする必要がある、というわけです。
 
心の中で、形にならない祈りがあるのは悪くないのですが、それを「啓示か知識か預言か教えか」という共通の言葉として形にするときに初めて、一同は「アーメン」と肯けるものとなるのでしょう。
 
直前の愛の章を受けて、ここは先ず「愛を追い求めなさい」で始まっていましたが、続いてすぐに「霊の賜物、特に預言するための賜物を熱心に求め」るように促しています。すると、「霊の賜物」には、異言の方も含まれるものとして見ることができます。そのことは、「霊の賜物を熱心に求めているのなら、教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい」と言って、異言は解き明かすべきだと伝えています。やはり異言が求めるべき賜物であるようにも読めるわけです。
 
しかし、「異言」よりは「預言」がよいのであって、「異言」は、仲間皆に分かる言葉に直さなければならない、というのがパウロの話の筋道でありましょう。「異言ではっきりしない言葉を語れば」分かってもらえませんし、「空に向かって語ることにな」ります。
 
楽器の音ですら、意味がある、とパウロが言うのは、私たちには分かるような分からないような表現です。しかし言いたいことは、「はっきりしない言葉」というものはないのだ、ということです。ここで楽器の「音」というのと、言語の「意味」というのとは、元のギリシア語では同じ「フォン」という、私たちにも馴染み深い語です。そこを伝えるには、言語の「声」とでもしておけば、共通であることが伝わったかもしれません。
 
教会を造り上げるためには、互いに意味の分かる「預言」を使おう。意味の通じない「異言」は、意味を解き明かしてから伝えよう。パウロは凡そ、このようなことを言っているのでしょう。
 
◆パウロの本音
 
ギリシア語に触れましたが、そもそも「異言」とは、ギリシア語ではどういうニュアンスをもった言葉なのでしょうか。「舌」という意味だということは、初めの方で申しました。そして「身についた言語でもないし、学習した言語でもないことを話す、というように理解された言語」を謂っているのではないか、とお話ししました。
 
ギリシア語では、「バルバロイ」という言葉がよく知られています。古代ギリシア人が、外国人や異民族のことを蔑んで呼ぶときの言葉です。日本語だと「ガイジン」とカタカナで書けばそういう感じもしますが、こちらはもっと酷い意味合いをもっています。
 
「バルバルバル……」と、何を言っているのか意味の分からない、聞き苦しい言葉を話す者たち、というニュアンスなのです。おまえちゃんとギリシア語話せよ、と馬鹿にしているのです。ギリシア語についてまともな舌遣いができない未開民族を見下す感覚です。
 
しかし、この「異言」の舌は、そこまで貶めた言語観によるものではないと思われます。ただ、コリント教会で異言が語られているらしい、というのは、霊的な体験を豊富にもっている、というような意味で褒めているようには、私にはどうしても思えません。
 
君たちが馬鹿にしているバルバロイと同様に、君たちが語っていること、主張していることは、まともなキリスト者には全く意味不明で伝わらないよ。凡そ教会に対してそんなことを言っても意味がないよ。なに馬鹿なことを言ってるんだ。
 
――私には、パウロのそんな本音が、聞こえてくるような気がするのです。ずいぶんと歪んだ読み方であることは承知しています。素直ではありません。でも、パウロが必ずしも純朴な姿勢でそれぞれの手紙を書いているのではないことは、多くの学者の指摘するところです。時に皮肉をこめて、いやらしい言い方さえする人物です。
 
自分はアポロにつくだの、ケファにつくだの、何ふざけたことを言っているんだ。近親相姦を平然と認めているなんぞ、教会にあるまじき行為ではないか。信徒がケンカして世間に訴えるなど、何言っているんだ。共に食事をするときも思いやりの欠片もないなど、とんでもないこととは思わないか。そして、パウロを小馬鹿にするような声も伝わってきているが、それこそ全く意味不明で俺には理解できない……。
 
「私は、あなたがたの誰よりも多くの異言が語れることを、神に感謝します」などとパウロは言っています。パウロも異言が語れるのだな。素直な信徒は、そう理解してきました。でも私は歪んで見ています。どうせ自分がコリント教会にお説教をしても、あんたたちには私の言うことの意味が分からないよね。あんたたちにとって、私は異言を語っているのも同然だよね。
 
ああ、だからあんたたちに通じないお説教を一万の言葉でぶつけても、何も伝わらないんだ。理性でとことん突き詰めて話でもしたら、その理屈だけでも分かってくれたらよいのだが、「他の人たちを教えるために、理性によって五つの言葉を語るほうを取」る、とパウロが言っているのは、君たちに教える理屈が見つかれば、わずかな言葉で伝えられたらいいのに、と皮肉を言っているように聞こえてなりません。「私がそちらに行って異言を語ったとしても、啓示か知識か預言か教えかによって語らなければ、あなたがたに何の役に立つでしょう」と言っていたのも、そのことだと受け取れるのではないでしょうか。
 
あなたがたの主張は、訳が分からない。あなたたちは、パウロにも意味の分かるような理屈を言ってくれ。信仰の言葉や霊的な言葉という次元ではなくて、いっそ理性的に、適切に論ずるのならば、それでもよいのだ。それだったら、そちらの教会をそれなりに造り上げることに役立つだろう。理屈に照らし合わせても、分裂や不品行、仲間の争いなどが、神を信じる者たちの日常であって、よいはずがないではないか。
 
◆理性
 
私たちの時代に戻しましょう。私たちは、教会の外部に伝わる言葉で話しているでしょうか。そもそも教会の内部でも、伝わらない言葉を使っている危険性はないでしょうか。
 
「あなたが霊で祝福しても、初心者の立場にある者は、どうしてあなたの感謝に「アーメン」と言えるでしょうか。あなたが何を言っているのか、彼には分からないからです」と、パウロは問うています。それでは「他の人が造り上げられるわけではありません」と注意を喚起しています。
 
もちろん、来会者に必要以上に気を使うべきだ、と言いたいのではありません。礼拝は信徒の居場所であり、義務のようなものでもあります。大切な信仰の場であり、時間です。神との関係を確かめるでしょうし、神からいのちの言葉を受けることになります。
 
他方、教会は伝道の責任を担っている人々の集まりです。「教会」という会堂や建物が大切なのではなく、そこにいる「人」、そして「共同体」こそが、神の民としての存在意義を与えられています。
 
パウロはここで「理性」という言葉を使いました。「私が異言で祈るなら、私の霊は祈りますが、理性は働いていません」が、それではまずいと言うのです。「理性」と訳された語は、ギリシア語で「ヌース」のように読みます。伝統的なギリシア哲学では、真理を認識する能力が想定されていました。
 
近代哲学では、様々な解釈や理解がなされましたが、カント以来、推論の能力と、それから自ら法則を立てる能力をベースに考えるように変化してきました。ギリシア哲学では、そういう限定はしていないのだと思います。人間の心の働き、そしてそれはきっと、人から人へ伝わるもの、人と人とがつながる心であるように受け取られていたことでしょう。
 
教会の内だけで盛り上がり、外には何も影響しない、というのは悲しすぎます。教会だけが真実で正義だ、と内輪だけの信仰を軸にしていたとしたら、教会はこの世に何のために存在するのか、分からなくなりそうです。
 
コリント教会について、パウロは、キリストの教えを自分たちだけの自己満足の材料にしているのではないか、憤っていたように思います。コリントの人々の言っていることは他の人には理解できないし、パウロの言っていることも、コリント教会には伝わらない。そんなもどかしさの中で、なんとか通じる管をつくりたい、と願っています。
 
私たちの時代に、教会にいるこの私たちが、再びバベルの塔を建てようとしているのではないか、と問う姿勢が必要です。教派どうし、教会どうしで、通じ合わない言葉のままに、相手を否定し、自分を正義と見なすようなことをしていないか、問うてゆきたいものです。
 
パウロの見ているものが、二千年前の教会のひとつの姿であったとしても、それがいまの私たちの姿とは無縁な、過去の愚かな教会の実例に過ぎない、としていてよいでしょうか。よその教会は酷いけれど、自分たちは正しいよね、と互いの顔を見合わせて微笑んでいてよいとは思えないのです。
 
パウロは、常に途上にあるとして、追い求める姿勢をもっているようでした。問いつつ、目指してゆくためには、自分で自分のことを覚りきったような気持ちがあることに気づき、神からの言葉を預かる礼拝に、続いて加わってゆきたいものだと思います。



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