召命感について

2026年7月17日

手塚治虫の名作「ブラック・ジャック」は、モグリの医者の物語である。医師免許をもたない。だが、天才的なメスさばきで、どんな外科手術でもできる。人間のからだの血管から神経まで、すべてが頭に入っているし、その技術も人間業ではないほどである。だが、医師免許を正式に取得していないことで、幾度逮捕されたか知れない。けれども、それはヒューマン・ドラマとして人気がある。私は何度読み返したか知れない。
 
塾講師は、教員免許をもたなくてもできる。児童心理学の単位もとっていなくてよいし、教育実習もする必要がない。いきなり現場で子どもたちに教え始めることもある。ただ、子どもたちの成績を上げることや、勉強を好きにさせることこそが大切なのであり、究極的には志望校合格が目標であるとすると、そのためにできることは何でもする。心理学の単位がそれを支えるかどうかは、かなり微妙である。
 
もちろん、塾講師もいろいろである。時々、犯罪に絡むことがある。盗撮やストーカーの事例もある。だが、それならば、公的な学校の教諭も少なくない。もちろん、一般人と比べると、極めて低い水準である。塾講師の犯罪率は、統計がとられていないのでなんとも言えないが、こちらもそう目立つことはない。目立たないだけに過ぎないかもしれないが、警官の不祥事や、先日のように検事のとんでもない事件があると、大きく報道されるので、比較にはならないかもしれない。
 
残念ながら、牧師も犯罪者となることがある。事例は決して多くはないが、政府に反対したために逮捕、などというレベルではなくて、誰がどう見ても犯罪ということが報じられることがある。私の身近なところでも、また聴いていた放送に出ていた人というのも、あるにはあった。僧侶も逮捕されたなどと報道されることがあるし、どこの世界にもそういう弱さをもつ人がいるのは確かだ。被害者は本当に辛いだろう。カトリックの方でも、世界的にかなり問題になった。内部告発もあるようだが、実態はまだよく分からない。
 
召命感がないままに牧師になった。長年牧師をしてきた人が、そのように告白する場合がある。それは私はひとつ、評価する。そんなことを反省の材料にすらしないほどに面の皮が厚い人がいるし、そもそも召命感など牧師になるのに必要がない、とする教団もある。
 
ただ、告白したというのは、申し訳ないという思いがあるからである。それで全人生が意味なく終わる、という後悔だけだと、立ち上がることもできない。イエス・キリストの前に跪けば、そこに赦しがあるというのは、キリスト者の信仰そのものである。だから、いまこうしていられるのは神の恵みであり導きなのだろう、と信仰的結論を設ける。いまにして、そのことが自分の召命であったのかもしれない、と納得するわけである。
 
ただ、それが神の恵みとなった、というふうに安易に安心することには、私は待ったをかけたい。ひとつには、そのように人前に告白することで、人々に同情してもらおうという筋書きを用意している場合があるからだ。もしもそれに対して、これまでその人の説教を聞いてきた人が、嘘つき、偽善者、あんたの説教を聞いて本気にしていたのになんということをしてくれたのだ、私の人生を返せ、と言ってきたらどうするのだろうか。最初から、そういうことを言ってくる人がいるはずがない、という前提で、当然許してもらえるというシナリオの中で言っている可能性がある、という意味である。
 
そして、自分の中ではそれでよいとしても、召命感のない者の説教を聞いてきた人のことが欠落している場合がある。もちろん、そこへの「すまない」という思いもこめての告白であることもあるが、果たして「すまない」で済むのかどうかは、本人が決めることはできないであろう。
 
これは、命に関する出来事なのである。実は無免許で運転していたけど事故は起こさなかったよ、というのとは違うのである。むしろ、薬効のないプラシーボだけを処方し続けてきた医師が、一部の人は治ったからまあいいか、と考えているのに近いかもしれない。ひとは、教会に永遠の命を求めてゆく。全員がそうかどうかは知らないが、基本的に求道というのはそういうことではないのだろうか。だから、命の言葉を語れと神から使命を受けた者が命の言葉を語り、聞く人に神の命を注ぐ。しかし、自ら命の言葉を感じていないままに、自分の解釈した聖書を語ることを続けてきたとなると、命を受けようと全身で聴いていたひとにとって、何をしたことになるだろうか。そこは、SNSの支持者が慰めて許してくれたことに甘んじず、とことん悔いなければならないだろう。それを命の言葉として縋ってきた人々には、取り返しのつかない嘘をついていたことになるのだ。
 
召命感の有無だけが問題なら、まだ傷は浅いかもしれない。しかし中には、救いすら経験のない者が、説教をしている場合がある。自分では知らない「救い」を、聖書に書いてあることを「勉強」だけして、説教として語り続けている人が、実際にいる。これは偽善どころではなく、詐欺である。それなら、生成AIが説教したのと何も変わらないかもしれないし、却って救いについて、知らないわけだから虚偽を話し、教えているかもしれないのである。
 
ある事例を簡単にご紹介する。こんな「証し」(?)ををネットに公開していた。父親が教会の牧師であることに憧れを抱いていた。小学2年のときに洗礼を受けたいと教会で洗礼寸前までいきながら、教会員の大反対を受ける。要するに信仰の何たるかも分かっていなかった。他方家は貧しい。中学のとき、盗みを集団で働く。二人ほど、少年院に行く。そうか、これで自分の罪を覚るのか。違った。自分は追及を免れ、その数年後、アメリカの私立大学に留学する。貧困はどうなったのか説明はない。帰国してデザインの職に就く。信仰の「証し」の場でも、自分がデザインした品々を誇って見せていた。だが、救いの証しはとんとなかった。ではどうして牧師なったか。パワハラで自殺した人の報道が世間を騒がしているとき、なんだか分からないが自分は牧師にならなければならないと思わされ、簡単に牧師になれる神学校に入る。どうして会社を辞めたのか、本人は明らかにしないが、傍から見れば想像も可能ではないか。このとき牧師であった姉に、あんたは牧師になれない、と反対されるが、我を通す。そして召命感も何も要らない神学校で聖書を学び、牧師の資格を得る。信仰ということはどうでもいいと考える教会があり、有能な人を追い出した教会があったら、この人は聖書に大した意味を置いていないようだから、なんでも言うことを聞きそうで好都合だと招き入れる。海のものとも山のものともつかぬ者を、いきなり主任牧師として招く。その妻も信徒ではないし、子どものことも壇上から平気でこきおろすようなこともするが、牧師という看板さえあればよいという教会の思惑にはぴったり合ったらしい。説教の原稿をどこかに忘れて、数分間説教に穴を空けたことがある。そしてその後、「今日は原稿があります」と、自分の不始末をギャグにしていた。不謹慎極まりないのも、神に対する畏れが全くない以上、仕方がないだろうと思う。自分に救いも召命も経験がないから、とてもまともな説教はできない。どこかで調べた聖書の解説を話すのが精一杯。人の救いとか罪とかいうことは決して説教には出て来ない。本人が知らないからだ。そういう説教には耐えられないということで、その教会には参加しない者も現れる。特に若者が、次々と教会から消えて行った。その教会の信徒も、きっと説教がおかしいと思っているだろうから、実態をよくご理解戴けるとよいだろうと思う。教会が仲良し倶楽部だと思いたい人には楽しいかもしれないが、命の言葉が語られるという信仰をお持ちであれば、どうすればよいか、決まってくるのではないかと思う。
 
もちろん、偶然的に、語られた聖書の言葉が人の魂を貫くことはある。召命感のない牧師が幾ら語っても、救いは起きない、などとは決して言わない。罪を犯した者が授け洗礼は無意味なのか、という議論は昔からある。結論的に、洗礼は人が授けるのではなく、神が授けるのだ、と理解されている。その意味では、語る者が罪を犯し続けていたとしても、語られた言葉が偽物だ、ということにはならない。ただ、救いの経験のない者が語る場合は、大いに問題である。それを信じて聞いていた人々の命の責任まで負わなければならないはずだが、概してそういう責任感がないから、それをし続けているのである。
 
先にも挙げたが、召命感を全く気にしない神学校というものも、世の中にはある。そこからは、大量に、召命感のない「牧師」を世に散らせている。下手をすると、「救い」すら知らない「牧師」に折り紙を付けて、全国に配置させている可能性すらある。もちろん中には、優れた牧師も生んでいる。しかし、私は、どうしようもない「牧師」に何人も実際に出会った。偶々私の近くにだけ現れたのだとは思いがたい。確率的に、たくさんいることは確実である。聖書の説明はできるが、全く命がない。中には、その生活行動が、凡そ人として恥ずかしいようなふうであることも複数あった。
 
そういう神学校で資格を得たとしても、恰も裏口入学した、能力のない学生が医者になったかのようで(もちろん学力が医者を決めると言っているわけではない)、世の中に害を与える仕事をせっせとしていることになるのではないか。
 
私も、最初に足を踏み入れた教会では、「絶対」だと素朴に信じていた。服従することが信仰だという覚悟で、門を潜った。だが基準を聖書に置くことで、そこが聖書とは違うものを教えていることを感じ始め、やがて聖書を基準に、それは確信に変わった。自分の出会ったイエス・キリストとは違う、と。
 
このとき、私のイエス・キリストへの信仰の方が歪んでいて、誤っている、という可能性も当然あるわけだ。私だけが歪んでいて、勝手にそこの教会を批判しているかもしれないのである。ただ、その後導かれた教会の数々、そしてキリスト教として特別に非難を浴びているようなことのない出版物や放送を通じて、私はむしろそういう側に立っているということが信じられるようになっていった。また、古くから言われていたこと、昔からの書物を通じて広く知った思想や信仰も、その核心を助けてくれた。
 
よく、異端の証拠として、自分たちだけが正しくて、他がすべて間違っている、と主張することが挙げられる。その「自分たち」が、狭ければ狭いほど、問題含みである可能性は高くなるという。もちろん、神の意志をすべて知っている、などと自画自賛することは、さらに問題である。そして、真の神の意志というものを、特定の者が知っていると主張することは、慎まなくてはならない。
 
その意味で、私たちは自分が正しいと主張するのではなくて、希望へと結びつけてゆくようなあり方が望ましいと言えるだろう。だから、悔い改めをしたことそのものは、キリストが希望を拓くようであってほしい、と思う。
 
逆に、召命感をもち、牧師になるための学びを何年も続けた若者が、ついに牧師になることを諦めた、というケースがあったことも私は知っている。なんともったいないことか、としみじみ思う。神に意図があったにしても、キリスト教世界は、ますますままならないことになってゆくようで、切ない。


※召命感については、グループや個人により、見解に差があることは理解している。また、職業召命感という考え方で、誰もがある種の召命感を以てこの世界で歩んでいる、という捉え方もあり、一概に何がどうだ、と決めることはできないであろう。だが、「使命」という表現であれば、一般にどのような事にあたる場合にも、それが真摯に挑むべき事柄である場合、求められて然るべきだ、とも言えるように思われる。神の言葉を語る、という立場は、特別なものであるに違いない。真摯に永遠の命を求める人が求めてくる場合に、そんなものは経験したこともないし知らない、という者が、舌先三寸で喋るようなことがあってよいものだろうか。それとも、そういうものを求めて教会に足を踏み入れるような人のほうが、間違っているのだろうか。それが教会の「多様性」だ、などとは私は言いたくないと思っている。



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