考える力

2026年7月15日

文部科学省が国語の力について目標としている4つのうち、3番目として「考える力」についてお話ししよう。中学生たちに対して語るように。
 
まず、気づくべきことは、「考える力」について「考える」というのは、簡単なことではない、ということだ。「自分とは何か」を語る「自分」はどこにいるのだ、というような構造と似ている。ただ、「考える」という営みは、必ず「ことば」を使う、このことだけは押さえておきたい。
 
だから、「考える力」とは、「ことばの力」と呼んでも差し支えないことなのだ。多くのことばを得よう。耳で聞いてはいても、意味の定かでないことばについては、積極的に辞書で確認する習慣をつけよう。また、ことばについて説明されている文章を面白がろう。この「面白がる」という言葉を、愉快に笑うという意味だとしか思えないようだと、「ことばの力」は足りない。「趣を感じる」というような意味である。
 
しかしその「趣」とは何か、分からないとなると、また調べておきたい。ことばは、増やそうという気持ちになれば、関連した言葉がくっついてくる。雪玉を転がせばどんどん大きくなるように、ことばは質量共に拡大する。
 
次に、「考える」ことは、必ずしも即答する事ではない、ということだ。ついには、答えの出ない問題は世の中に多い。否、答えの定まらない問題の方が限りなく多い、というように捉えておくべきだろう。別の角度から物事を見る。時には俯瞰して見る。そして何よりも、自分自身を見つめるということは、誰にも最も難しいことである。
 
そこで問いたいのが、AI、特に生成AIと呼ばれるものだ。質問すれば、ウェブサイト上にある凡ゆる情報を探してきて、質・量共に適切であろうというソースから、まとまった回答を寄越してくる。つまりは、分からないことを質問すれば、基本的によい答えを与えてくれる、ということである。
 
資料を探す必要がない。誰かを引き留めて手を煩わすこともない。一瞬で、知りたいことを教えてくれる。それなりの信頼があるから、特定の人に尋ねるよりは安心かもしれない。お気軽に、疑問に答えてくれる、最高のパートナーであるように思わせるに十分である。
 
ところが実際には、尋ねる側が条件を入力していないために、知りたいその人に最適の回答をするとは限らない。一般的には適切な回答ではあっても、その人のその現場に適しているという保証はないのである。プロ野球の監督の子どもが大きな影響を与えることをしてしまったことは、まだ耳に新しいことだろう。
 
だが、いま気をつけたいことは、そのことよりも、むしろ「考える力」そのものについてである。「考える」ことをしなくても、そこそこうまくやってゆける、という情況が生じている故に、そもそも「考える」能力が欠落したままの状態でずっと過ごしてゆくことになるのではないか、という懸念があるのである。
 
いざ「考える」必要が起こったときに、それができない。毎日すべてレトルト食品しか食べていないと、自分で料理をすることができないであろう。いつも計算ドリルをコンピュータにさせていたら、自分で計算をすることができなくなるのではないか。
 
そして問題は、若い世代の君たちは、生まれてからすでに、コンピュータを利用することが当たり前の環境でしか生きていない、ということである。私たちの世代も、ずいぶんと生活用品は恵まれた環境で育ったけれども、何かを調べるときに、本を一冊一冊あたり、図書館に浸って調べまくるという経験をしている。全く非能率的極まりないが、その経験がある。いま検索すればたちどころに知りたいことが分かるのとは違い、何日もかけて知りたいことを探ることをしている。まことに、「タイパ」の正反対である。
 
だが、そうやって情報を探す経験が、曲がりなりにもあるとなると、目の前に現れた情報が、どういう背景をもっているか、ということに思いを馳せもするし、ソースの信頼性ということも視野に入れて判断する癖がついている。
 
なんでも情報はすぐに手に入るという世界で生まれ育った人は、いまさらに「コスパ」とか「タイパ」とかいうものを、価値観の上位に置いているように見える。けれどもかつては、恋愛ひとつとっても、本来能率の悪いことであるし、傷つけ合って失敗して、築き上げるものであってよかったのだ。そうでない価値観からすれば、失敗が怖いし、手を引っ込めることにもなるだろう。逆に、失敗のない方法としてデータを素に出合うのが最善、という道を選ぶのが当たり前のようにすらなる。確かに昔の「見合い結婚」もその類いだったのではあるだろうが、人と人との「すりあわせ」を避けることがすべてであってよいのかどうか、考える余地があるのではないだろうか。
 
自分で「考える」ことを避ける。面倒だし、「タイパ」に適さない。失敗もしたくない。ならば、最初から能率的で時間も無駄のない、生成AIに答えを求めるのがよいし、最善だ。――気持ちは、分からないでもない。だが、手塚治虫が1967年から連載を始めた『火の鳥 未来編』で、電子頭脳の判断をすべてとする人類が滅亡する物語を描いていた。設定は西暦3404年であったが、もしかするともっともっと早く、そういうことになりはしないか、と恐れている。
 
「考える」ことは、「コスパ」や「タイパ」に抗うものであるかもしれない。「間違ってもよい」というメッセージは、君たちにとり嫌なものかもしれない。だが、若いうちに間違うことを知らないことは、将来、もっと怖いことをもたらすのではないか。迷いや悩みは、決して無駄なことではないのだ。そのためにも、「ことば」を知り、「ことば」でしかできない「考える」ということを、豊かなものにしてほしいものだと思う。



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