【メッセージ】自分が正しい

2026年7月12日

(申命記12:1-12, ルカ18:9-12)

あなたがたは、私たちが今日ここで行っているように、それぞれ自分が正しいと見なすことを行ってはならない。(申命記12:8)
 
◆正義がぶつかる
 
戦争。あるいは、争い。どうして起こるのでしょうか。原理的に考えてみると、そこには、「正義と正義のぶつかり合い」というものがあるように思えてきます。
 
どちらも、「自分が正しい」と考えています。いえ、そもそも誰もがそのように思うのでなければ、自分の行動ができるわけがありません。この右脚を踏み出すことは間違っているんじゃないだろうか、といちいち考えて歩くことはできないはずです。
 
いま自分は悪いことをしている。そういう意識が現れることが、ないわけではありません。優しい人は、良心の呵責に苛まれます。しかし幾度も踏み越えてゆくと、だんだん感覚が麻痺して、平気で悪を為すことができるようになることもあります。そうなると、自分はその悪を為す正当な理由がある、と自分に言い聞かせることになります。つまり、何らかの意味で、「自分は正しい」と考えているわけです。
 
もしかすると、「それは本当に悪なのか」「悪とは何を謂うのか」と、急に哲学的な問いを発することがあるかもしれません。でもそれは、本当に哲学的に問おうとしているのではなくて、自分の正義を成立させるという目的があってのことです。ほら、これは悪ではないじゃないか。だからこれも正しいのだ。これを相手に認めさせたいために問うのです。
 
「自分は正しい」、そう思わなければ行動できない、と先ほど申しました。私たちの日常は、自分は正しいという前提で動いているはずです。だから、「自分は正しい」と考えることが即座によくないことだ、と結論づけたいわけではありません。
 
問題は、その「自分は正しい」というのが、他者との間でぶつかることがある、ということです。他者の正義と自分の正義とが食い違い、あるいは対立するとき、ぶつかって、争いとなるのです。それが多人数社会同士になると、内乱となり、戦争となる――事はそう単純ではありませんが、ひとつの図式の中で、そのように捉えてみることにして、今日の聖書を聞く備えをしようと思います。
 
◆正義がつくる平和
 
学校での学習科目は、戦争にどう関わるでしょう。戦争という問題を考えるとき、武器に注目すれば、理科や科学が話題となるでしょう。数学も必要かもしれません。私は文学も大切な科目だと思うのですが、戦争について考えるとき、直接的に最も必要なことは、社会科であろうと思います。
 
社会科とは、何を学び、考える勉強でしょうか。それは、「どうすればみんな仲良く暮らしてゆけるか、を考えることだ」と私は思っています。他者と平和に生きるためにはどうすればよいか、という問題です。
 
地理や歴史は、相手の立場を知ることができます。正体を知らない不気味なエイリアンが相手だと、平和の手を握る糸口がありません。また、相対的に、自分自身というものを知ることにもなります。自分を客観視することは難しいのですが、多くの他者を考慮することによって、自分の位置を認識することができます。
 
より直接的には、経済や政治を知ることが、平和につながります。どうかすると、その経済ということで、自国の利益ばかり計算することにもなりかねませんが、もともとその「経済」ということは、生活の管理を意味する言葉でした。
 
中国で、世を治め人々の苦しみを救うという意味を「経済」という言葉に採用しましたが、西欧的には、家計の管理や統治の概念から始まったのが経済学でした。もちろんそれも、自分の家計だけで変わらず、他者や社会、国家の統治のための知恵でなければなりませんでした。
 
しかし、それぞれの利益がぶつかると、力で決着をつけたくなるのが、人間というものなのかもしれません。力の強いものが勝つのです。文明の利器をもっているか、戦い方を知る知将がいるか、それに見合う兵や資源があるか、それは勝てば勝つほど優れてゆきますから、古代では大帝国が度々生まれました。滅びるのも早かったのですが、それはまた内部的な原因があろうかと思われます。
 
結局、勝った方が正義となります。勝った方の考え方が正しい、ということで歴史が刻まれてゆきます。それがその時代の正義だったのです。また、神を掲げて戦うことで戦意を昂揚させることが当たり前だったので、勝った方の神が正しい、ということにもなります。神が正しい、というのが不自然であれば、勝った神こそが真の神だ、という言い方にしましょうか。
 
名前が「帝国」であれ、「なんとか主義社会」であれ、そのようにして歴史は刻まれてきました。歴史は、「正義とは何か」を具現してきた、経験的な記録である、と言ってもよいでしょう。
 
私たちは、正義同士がぶつかり、争いが起こり、やがてひとつの正義が残り、それが平和と呼ばれることを繰り返してきたことを、振り返ることができます。パックスロマーナ(ローマの平和)は、周辺諸国を従えてのことでしたし、「国際連合」は、第二次世界大戦に於ける元々の「連合国」のままの名前を名のっています。日本語が換えているだけです。
 
◆神が正しい
 
他者との出会いは、自分との出会いにもなります。他者がいるから、それに対して自分はどうか、と知ることができます。人々は、気づきます。他者がいる。自分の正義に反する者たちがいる。もしかすると、自分たちが当然の正義だと考えているものは、絶対的に正義なのではなく、相対的なものに過ぎないのかもしれない。
 
ただ、争いには、スポーツのようなルールがありませんし、反則を止める審判もいません。争えば、どちらかが殺されることになります。自分の死を招くことになるかもしれません。そうならないためには、戦いで勝たねばなりません。勝つためには、こちらのメンバーの心をひとつにすることが、どうしても必要です。
 
先ほど「神」の正しさということに触れましたが、ここでもまた、人間が「神」を要請する構造を見出すことになります。イスラエルの宗教に限らず、宗教というものは、人心をまとめるための有効な手段でした。宗教の使命は、自分たちが如何に正義そのものであるか、を確信させるところにあります。そうやって、命を懸けても、力をひとつに集めることによって、戦力は増大するのです。それは「神」でなくても構いません。「天皇」でもいいし「お国」でもいいのです。
 
イスラエルもそうやって神を編み出したのでしょうか。それにしては、イスラエルはかなり歪んだ展開をもたらします。先ほど、勝った神が正義だ、と申しました。それでは、敗れた方の神はどうなのでしょう。当然、正義ではありません。そればかりか、敗れた軍が頼りにしていた神は、偽物だ、ということになるでしょう。誰が、そんな神をその後も崇拝してゆけるでしょうか。
 
ひとが考えた神ならば、負けたときの神は棄てればよいのです。そしてまた勢力を盛り返してきたときには、別の神を立てます。敗れた神をまた拝むというのは、タブーではないでしょうか。
 
しかし、イスラエルは違いました。イスラエルはそもそも弱小国です。しかも、周囲を大国に囲まれる位置にあり、大国同士の争いの場となる、非常に損な位置にあります。大国の間で戦闘が起きれば、イスラエルがその火の粉を浴びます。イスラエルは、小さな国ですが、おまえはどちらにつくのか、と両方の国から誘いがきます。できればイスラエルのような足軽に戦わせ、相手を少しでも弱らせてから、本国の兵士が乗り出すとよいからです。
 
イスラエルは、なんだかんだと敗れることの多い国でした。こちらにつけと迫られて背を向ければ、たちまち滅ぼされかねない国でした。そうやって、北イスラエルは早々と滅びましたし、南ユダの神殿も崩壊し、知恵のある者たちはバビロンへ連行されました。イスラエルは、敗れました。――しかし人々は、イスラエルの神を、棄てることはできなかったのです。神は、死ななかったのです。
 
イスラエルは考えました。これはイスラエルを選んだ真の神だ。その神を信じる自分たちが負けた。それは断じて神のせいではない。負けたのは、自分たちのせいだ。自分たちが、神を信じることができなかったのだ。この敗戦は人間のせいなのであって、神はいつでも正義なのだ……。
 
イスラエルには、この信仰が生まれました。旧約聖書の多くが、この捕囚を契機に綴られた、という研究もあるほどです。イスラエルでは、人が正しいのではなく、神が正しい、という信仰のベースが成り立っていました。
 
◆申命記の祝福
 
だから、ひとが考え出した神とは、明らかにひと味違うわけです。ようやく聖書そのものに入りますが、今日は申命記を開きました。創世記・出エジプト記・レビ記・民数記、というように、人類創世からモーセを通じてイスラエル民族がアイデンティティをもち、様々な規定、即ち律法をもつに至る過程が描かれました。これに申命記を加えた五つの書を、「モーセ五書」と呼ぶことがあります。
 
しかし、これらのうちどうやら、申命記だけが、雰囲気が違っています。先の四つには、それなりにストーリーの流れがありました。しかし申命記は、これまでの復習・まとめといった感じのもので、出エジプトの出来事から最後にモーセが死ぬところまでを描き、それはモーセがこれまでの旅を振り返り、もう一度まとめて大切な教えを施すぞ、という構成をとっているのです。そもそも中国聖書由来のこの「申命記」という題は、神の命令を再び述べる、というような意味をもつものです。
 
そういうわけですから、自分の死を描くことは無理ですし、言葉や内容の上からも、申命記だけは時代を後にするものだ、と研究者たちは口を揃えて言います。その成立は、バビロン捕囚を経験してのことだろう、と推測され、同時にそのときが、ユダヤ教という形で旧約聖書の教えが整理されていったのではないか、と考えられているのです。
 
その辺りはどうであれ、この申命記の執筆によって、イスラエルとは何か、が問われ、この民族のアイデンティティは何だろう、と考えられたことは確かだろうと思います。
 
たとえば、創世記に続く出エジプト記に、有名な「十戒」が書かれていますが、この申命記にも、その「十戒」の内容が、ほぼ同じ形で掲載されています。但し、記述が見るからに違うところがあって、申命記の方が、出エジプトの出来事を大きく取り上げていると言えるのです。
 
これは、申命記の考え方が、イスラエルのアイデンティティを、出エジプトの出来事に見ていることを意味します。それは少し奇妙なことです。「イスラエル」という名を貰い受けたのは、創世記の中心人物ヤコブという人物であって、ヤコブに、おまえはイスラエルという名で呼ばれる、と神が言い渡す場面があります。そこにイスラエルの原点があるはずなのですが、申命記では、その何百年も後のモーセがエジプトから民を脱出させたところが主軸になっているわけです。
 
申命記は、創世記を除く三つの書を、ひとつにまとめたダイジェスト版という形をとっています。コンパクトに、律法の要点を伝える必要があります。その意味では、分かりやすい構成が求められたことでしょう。そこで、それまでの書にはあまり見られない、分かりやすい選択肢が与えられます。たとえば今日お開きした申命記の直前11章に、このような箇所があります。
 
26:見よ、私は今日、あなたがたの前に祝福と呪いを置く。
27:もし、今日私が命じる、あなたがたの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、
28:もし、あなたがたの神、主の戒めに聞き従わず、私が今日あなたがたに命じる道を外れ、あなたがたが知らなかった他の神々に従うならば、呪いを置く。
 
二つの道がここにある。さあ、どちらを選ぶのか。二つにひとつだ。分かりやすい迫りです。このような選択肢は、この後の30章にも現れます。
 
◆自分が正しいと見なすこと
 
1:これから示す掟と法は、あなたの先祖の神、主があなたに所有させる地で、あなたがたが命あるかぎり、守り行うべきものである。
 
12章は、こうして始まります。要するに律法を守れ、というのですが、守るということは、行うことと同一であることが、「守り行う」という言い回しから伝わります。
 
2:あなたがたが追い払おうとしている諸国民が、高い山の上や丘の上、茂った木の下で彼らの神々に仕えてきた場所は、必ずことごとく破壊しなければならない。 3:彼らの祭壇を壊し、石柱を砕き、アシェラ像を火で焼き、神々の彫像を切り倒し、彼らの名をその場所から消し去りなさい。
 
神の教えに従うということは、かつての偶像や異教のための設備を、悉く破壊しなければならない、と言っています。私たちは、守り行うためにまずなすべきことは、このような過去の清算であるようです。
 
5:むしろ、あなたがたの神、主が、その名を置くためにすべての部族の中から選ぶ場所、その住まいを尋ね求めなければならない。あなたはそこへ行きなさい。
 
次に、居場所を求めなければならないようです。私たちにとっては、教会でしょうか。「あなたはそこへ行きなさい」の言葉が響いてきます。見つけるだけではなくて、そこへ実際に行くことが必要であるようです。
 
しかし「そこ」とはどこなのでしょうか。見かけでは、「主が、その名を置くためにすべての部族の中から選ぶ場所」というのですから、神殿のことを意味しているように聞こえます。それに違いないのですが、私には、それが神の定めたところ、神の支配の及ぶところとして、新約聖書の「神の国」を当てはめて想像してもよいのではないか、と思えます。だからこそ、「そこへ行きなさい」と言われたのだ。そう考えられるのではないでしょうか。
 
但し、気をつけねなければなりません。「あなたがたは、私たちが今日ここで行っているように、それぞれ自分が正しいと見なすことを行ってはならない」と言われているのです。
 
思い起こします。士師記に二度、これに似た、全く同じフレーズが登場するのです。
 
その頃、イスラエルには王がいなかった。そして、おのおのが自分の目に正しいと思うことを行っていた。(士師記17:6,21:25)
 
信仰的には実に様々な形が、士師記には描かれています。なんで神はこんな奴を選んで、リーダーにしたのだ、と文句を言いたくなるような話が幾つもあります。実に不道徳で、実に懐疑的で、実に残酷な話に出くわします。そういうときに、士師記の記者は、「おのおのが自分の目に正しいと思うことを行っていた」と溜息をつくのです。
 
8:あなたがたは、私たちが今日ここで行っているように、それぞれ自分が正しいと見なすことを行ってはならない。
 
そしていま、「それぞれ自分が正しいと見なすことを行ってはならない」と言われているのが、士師記を踏まえているかもしれない、ということは分かるのですが、士師記にはない言葉が、ここには添えられています。「私たちが今日ここで行っているように」です。私たちが、いまここでやらかしてしまっている、と突きつけているのです。この「私たち」に、現代の私たちが無縁であるのかどうか、そこが聖書の信仰ということに関わってくる、大切な点でしょう。
 
しかし主はその後、「主があなたがたに継がせる地」に、あなたがたを住まわせる、と約束していますし、しかも「あなたがたは安らかに住むことができる」とまでサービスしてくれています。なんとありがたいことでしょうか。
 
◆逃れられない思い
 
本当は、じっくり読みたい新約聖書の有名な箇所を、半分だけお開きしました。またどこかで、その全体についてお話すべきだろう、と考えています。今日は半分だけなので、もったいないことをしているような気もしますが、お付き合いください。ルカ18章からです。
 
9:自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
10:「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
11:ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でなく、また、この徴税人のような者でないことを感謝します。
12:私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
 
実際にそこにいたのではなく、たとえ話として、二人の人物を登場させています。「一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人」でした。ファリサイ派というのは、模範的な宗教者です。律法をすべて守っているか、守ろうと努めている立派な人です。他方徴税人というのは、ユダヤ人でありながらローマの手先となり、ユダヤ人からピンハネしているために、「罪人」としてユダヤ人からつまはじきにされている人です。
 
いま、ファリサイ派の人の祈りがどのようであったかを知らせました。イエスはこの先も話を続けています。当然、徴税人の祈りです。でも私は今日、敢えてここで切りました。
 
イエスは、その徴税人の祈りを、いわば褒めます。そこまで普通は当然読みます。そのとき私たちは、自分の祈りは徴税人の祈りの方であって、ファリサイ派のような祈りはしないぞ、という気持ちになります。自分もイエスに褒められるのだ、という気持ちにすっかり染まってしまいます。
 
だから、私はいま、ファリサイ派の祈りだけを取り上げました。それは、私たちの祈りはこちらの方だ、と知るためです。
 
もしかすると、奪い取ることをしている人がいたら、自分はファリサイ派ではない、とお怒りになるでしょう。不正なことに手を染めている人や、姦淫している人にとっては、自分をこのファリサイ派と一緒にするな、と文句を言うことでしょう。ファリサイ派のように断食もしていないし、十分の一を献げるなんてしていないよ、という人は、ファリサイ派と自分は関係がない、と言いたくなると思います。
 
でも、そういう単語の問題ではないのです。別の単語、別の内容にしてみたらどうでしょう。私たちは、同じ祈りをしていないでしょうか。
 
私は「あの人間」のような者ではないことを感謝しています。私は「これこれのこと」をちゃんとやっています。――いえ、もしかすると、単語を入れ替えなくても、そのまんま、ファリサイ派の祈りとぴったり重なるという人の方が、多いかもしれませんね。
 
ひとは、「自分が正しい」という思いから、離れることができないのです。それがなければ、一歩も歩けない、と最初に申しました。それが人間の姿なのです。善いとか悪いとか言う前に、人間はともかくもそうやって生きているのだし、そうやって生きてきたのです。これは開き直りではありません。事実としてそれを見るのです。
 
◆偶像といけにえ
 
再び申命記に戻ります。掟と法を守り行えと言った次に、偶像や祭壇を悉く破壊しなければならない、とモーセは告げていました。
 
3:彼らの祭壇を壊し、石柱を砕き、アシェラ像を火で焼き、神々の彫像を切り倒し、彼らの名をその場所から消し去りなさい。
 
先住民の偶像や祭壇を壊す。その偶像とは何でしょう。先住民という他人のもの、としてよいのでしょうか。自分の中にはないもの、自分とは関係のない他者のものでしょうか。それでしかないのであれば、悪いのは他者です。そして私は正しいのです。――それが争いの素なのだ、ということを、私たちは初めに、何のために考えてきたのでしょうか。
 
私たちは、偶像をもっていないのでしょうか。いえ、持っています。「私は正しい」という偶像をもっています。「私は正しい」ことを前提としなければ生きてゆけない偶像があります。そして主は、それを消し去れ、と命じるのです。
 
4:あなたがたの神、主には、同じようにしてはならない。
 
主は、偶像ではないのです。この神は、正しいのです。自分という偶像を破壊し、主をのみ神とすること。そうすれば、主は安らかに住むことができる地を与えてくださいます。「敵からの安らぎ」を与えてくださいます。
 
しかし、人は怖い存在です。この神をも、偶像にしてしまうことができます。神を信じている敬虔さを装っていながら、その神を信じている自分を、実は最高の神としている、というくらいに、とことん「自分が正しい」というところから離れることができないのです。さらに具合の悪いことに、「自分が正しい」を原理として置きながら、それに気づきもせず、それでもなお自分は神を信じている、と公言することさえできてしまうのです。
 
内なる人としては神の律法を喜んでいますが、私の五体には異なる法則があって、心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのです。(ローマ7:22-23)
 
でも、失望しないようにしましょう。「自分が正しい」という思いが先立つことのないように、自分の根柢に原理となることがないように、と願うのです。難しいにしても、それは無理だ、と決めつけず、神に願うのです。
 
今日の申命記の箇所で、わざと飛ばしたところがありました。それをいま開きます。二箇所に分かれて、それがありました。
 
6:あなたがたは、焼き尽くすいけにえ、会食のいけにえ、十分の一の献げ物、手ずからの献納物、誓願の献げ物、自発の献げ物、牛や羊の初子をそこに携えて行き、 7:あなたがたの神、主の前で、あなたがたも家族も共に食べ、あなたの神、主が祝福してくださったすべての手の業を楽しみなさい。
 
11:その時、あなたがたの神、主がその名を置くために選ぶ場所に、あなたがたは私が命じるすべてのもの、すなわち、焼き尽くすいけにえ、会食のいけにえ、十分の一の献げ物、手ずからの献納物、主に誓った最良の誓願の献げ物などをすべて携えて行き、
12:あなたがたの神、主の前で、あなたがたも、息子も娘も、男女の奴隷も、町の中にいるレビ人も、共に楽しみなさい。レビ人にはあなたがたのような割り当て地や相続地がないからである。
 
いけにえと献げ物の話です。そうして、主の祝福の業を「楽しみなさい」と繰り返されています。いけにえと献げ物が、イエス・キリストでなくて、何なのでしょう。そしてキリストの救いの喜びを楽しむほかに、何を楽しむというのでしょう。
 
人間の運命は「私は正しい」から逃れることができないが、イエス・キリストだけが、その救いを成し遂げることができる――私たちは新約聖書から、そう教えられたのではなかったのでしょうか。神がくださった、御子イエスの十字架を通してでであれば、それは実現することが希望できるのです。



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