私が新しくする

2026年1月5日

『ローズンゲン(日々の聖句)』が、今年の聖句としたところから、教会の2026年は始まった。
 
見よ、私は万物を新しくする。(黙示録21:5)
 
これを聞くことのできる私たちは幸いである。気持ちが挫けても、悲しみが襲っても、神が新しくする、という約束をしており、その約束を握りしめることが、キリスト者にはできるからだ。
 
今年で296版であるといい、50もの言語で翻訳されている。世界中のキリスト者に及んでおり、その日にひとつの言葉と共に祈りを合わせることができる。これについての説明は説教者も省き、早速この黙示録の世界に入ってゆく。
 
甚だ評判のよくない「黙示録」である。近年、教会ではこの黙示録の連続講解説教を礼拝で続けてきた。難解であることは避けられなかったようだが、恵みの言葉はどういう聖書箇所からでも注がれてくる。説教者は謙遜していたが、なにも黙示録の神学を解説しようという場ではない。神の愛や摂理を、そして何よりも神が与えようとする命がそこから注がれて、神の言葉が聴く者と共に出来事になってゆけばよいのである。私は満喫した。それは黙示録の解釈に長けたなどという意味では決してないのである。
 
この黙示録の著者を、説教者はいつも「牧師」と呼ぶ。迫害を受け島流しに遭っている、ついうのが痛切だが、今回この著者が、教会の天使に七つの手紙を書けと言われて書いた、というところに注目するのだった。そうだ、この黙示録は「手紙」なのだ、と宣言する。「手紙」として読むならば、いろいろ思い当たるところ、納得できるところも多いのではないか、というのだ。
 
書かれたのは、教会にとり危機の時代であった。だが、この手紙を受け取った私たちも、実のところ危機の中にいる。アメリカがベネズエラを攻撃した報道に、狂喜したわけでもなければ、憤ったわけでもない。説教者はただ、私たちの中に不安があり、恐れがあることを指摘する。
 
だが、不安や恐れがあるからこそ、私たちは教会堂に集まるのだ。そこには、イエス・キリストが、両手を広げて待ち受けている。疵痕も生々しいその掌を向けて、私たちを迎えようと待っている。否、イエス・キリストはただ待っているだけではない。この世に来てくださったのではなかったか。
 
この礼拝説教のために、説教者が開いた聖書箇所は、このヨハネの黙示録21章の初めの部分と、後で一節引くが、哀歌3章であった。しかし、説教者はどうしても引用しなくてはいられない言葉があった。
 
すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。(マタイ11:28)
 
そしてここに、訳出していない重要な言い回しがあるのだという。それは、「私が」という言葉である。ギリシア語は、必ずしも主語の代名詞を必要としない構造をもつ。格変化で、主語が特定できるからだ。だが、ときにわざわざ「私が」のような語をつけることがある。それはまさに「わざわざ」なのであって、強調の意図が明らかにある場合である。「我在り」のときが有名だが、実はここにもその「私が」が原典にはちゃんと書かれている。「そして私は」という形だが、「私があなたがたを休ませてあげよう」という力強さと共に現れるのである。
 
このことも、後で説教者は触れ直す。
 
この黙示録21:5では、実のところ初めて神が直々に声を発しているらしい。これまでは天使の告げることが基本だった。いま、「玉座から語りかける大きな声」が響いた。その神が「万物を新しくする」と言うのだ。ただ、その前にコメントしておくべきことがある。説教者はそういう気持ちからか、少しばかり突っ込んだ説き明かしを見せた。
 
3:そして、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となる。神自ら人と共にいて、その神となり、
4:目から涙をことごとく拭い去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも嘆きも痛みもない。最初のものが過ぎ去ったからである。」
 
ここから三つの段階をピックアップした。「神の幕屋」が恐らく光輝いているであろうこと。神が人と共に住んでいる。その人々は神の民となる。このとき「目から涙をことごとく拭い去ってくださる」という点にも注目すべきであろう。涙は、感情の高まりにより流れることがあるのだが、悲しみの涙が当然あるだろう。しかし、神に救われて安心して涙することもあるだろう。説教者は、「拭う方」という点をしきりに強調していた。
 
それから、「もはや死もなく、悲しみも嘆きも痛みもない」状態が与えられる。それを「未来」と呼ぶことについて、加藤常昭先生が厳しかったエピソードを告げる。時折著書に見られるのだが、キリスト者は「未来」という言い方をするのはよくない、というのだ。神の国や神の救いの完成は、まだ来ないというようなものではない。将に来たらんとするものであり、そうでないと信仰とは呼べない、とするのである。
 
さあ、イエスの姿を思い浮かべよう。神が新しくする、と約束した。イエス・キリストが両手を広げて待っている。傷ついた掌が見えたとき、私はそれがただのお迎えでないことを知る。おまえのために、この疵痕を身に受けたのだ、とイエスが手を広げる。私たちが泣いていれば、涙を拭ってくださる。私たちはイエスとの出会いに涙する。それは絶望の涙ではない。拭い取る方がそこにいるという喜びと安心。
 
たとえそれが悲しみの道であっても、私たちは孤独ではない。説教者は、自分で自分の人生を完成させようという心のはたらきには警告を与える。そこにあるのは、自分が、自分が、というエゴイズムである。それとも、どうせできないという諦めにも似た境地で、神などいないと嘯いているこの世のニヒリズムだろうか。
 
説教者は強く告げる。神の国は近づいた。新しい世界が始まろうと――いな、すでに始まっている。そこで神が宣言している。説教者は、「私が」「あなたがたを休ませてあげよう」とマタイ伝を解したのだったが、ここでも、やはりダイナミックに告げるべきであろう。「私が」「万物を新しくするのである」と。
 
さあ、この新しい年であるが、私たちはこれまでの神の導きを思い返す。いったい神が、私に何をしてくださっただろうか。また、いま将に神が何をしようとしているのか、それも気にしてよい。しかしまた、これから神が何をするのか、それも信仰によって楽しみにして然るべきなのである。
 
最後に向けて、説教者はひとつの本を薦めた。『カール・バルト一日一章』である。その引用をここでは再現しないが、神の「手」についての叙述の一部が紹介されたのであった。神の「手」とは、釘付けされた痛みを示し続ける「手」であった。が、それは一切を包みこむことでもあった。私たちは自分の時を、すべてあなたの「手」の中にある、という信仰で染めたい。
 
私は万物を新しくする。(黙示録21:5)
 
就寝を前にして、時に大きな声で、時にささやくような言い方で、「私は万物を新しくする」と主に向かって言おうではないか。朝目覚めれば目覚めたで、この祈りを口にしよう。ただ、説教者はこの聖書協会共同訳の本文とは異なり、自分ならばここを次のような訳にして祈る、と言った。それは「見よ、私がすべてのものを新しくする」というものだった。どこが違うのか。「私が」である。先ほど知らせた、「私が」「万物を新しくするのである」とするのである。
 
だから安心して、神に委ねることができる。どんな失敗にも気後れする必要がない。たとえそこに罪があろうとも、私たちの道はそのことだけで決定されはしない。主は復活したではないか。命を棄てても、復活があったではないか。
 
こうして、開かれていた哀歌3章の一部が読まれる。
 
22:主の慈しみは絶えることがない。/その憐れみは尽きることがない。
23:それは朝ごとに新しい。/あなたの真実は尽きることがない。
 
ヨハネの預言は、万物を新しくする主の約束であったが、この預言者では、主の慈しみと憐れみとが終わらないことが告げられ、それが朝ごとに新しいことを知らせる。だからまた、「見よ、私がすべてのものを新しくする」と朝ごとに夕ごとに、祈るとよいのである。
 
クリスマスから歳晩礼拝、新年礼拝と、私は三週間連続で、世の仕事の中にあった。メンタル面での苦しさは、体調とも連動することがあった。だが、教会からは動画配信が知らされてくる。なんともありがたいものだった。とくにこの新年礼拝では、その日の内に、私の手許に夜通知がきた。その日の内に聴くことができた。神を礼拝するにはプログラム不足ではあるが、だが神の言葉を受けることができた。慰めと希望の言葉を受け取った。
 
この「新しくする」というように、なんでもチャラにするような約束であるが、これは、イエスの十字架が、罪の証書を悉く無効にしたことと比せられるべきであろう。救われて新生を喜ぶことと、重なるものがあると見てよいだろう。「新しくする」という手札は、何度でも何度でも使うことのできる、マイティなカードなのである。



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