年齢を重ねた人への福音

2024年1月28日

いろいろ困難な生活もあったが、なるがままに、ここまで来た。自分は十分に生きた。思い残すことはない。あとは、自然の懐に静かに眠るだけ。自然に還るのだ。
 
年を重ねるということは、そのような境地になることだ。日本人にとり、こうした思いは、比較的分かりやすいものだろう。先人たちも、そのようなことを言ってきたし、自分もそう思えるようになってきた。こうした方も多いだろうと思う。
 
年齢の数字が、容赦なく増える。一年が、あっという間に過ぎてゆく。心は、そんなに年を取ったようには思えない。記憶力は、少し衰えたかな、と感じることはある。言葉がうまく出てこないような気もしてくる。判断が誤った、という後悔を覚えることもあるだろう。でも、心そのものが、老人になってしまった、という自覚は、普通、あまりない。
 
しかし、体にガタがくるのは、否応なく認識させられる。若いところには、とくに病気で苦しんだという記憶がないのに、そして健康診断でも、さして問題がなかったのに、近年は、あれが悪い、ここがおかしい、という指摘が集まってくる。そのために呑む薬がひとつ、またひとつと増えてゆく。
 
まるで、本当にガタがきた機械のようだ。車だって、ここが悪くなった、劣化している、部品を取り替えなければ、と車検のときに指摘される。健康診断という車検で問題になることが、年々多くなる。
 
本当に、心は老いていないのだろうか。心が老いている、ということを認識するのも、正に当事者たる自分の心である。自分が自分を判断するというのは、たいへん難しい。ただ、客観的に、ほかの人の例などを見るにつけ、自分だけが例外であるはずはないと認め始めるのは事実だ。いずれ自分もああなるのであろうし、実際そうなりかけている、との思いが、諦めのように支配してくるのを感じるようになる。
 
いずれお迎えがくる。そんなふうにちょっと笑って見せる。生まれる前に戻るだけだから、死を必要以上に恐れはしない、という人も少なくない。なるに任せる、という「おまかせ」の境地は、案外平安であるのかもしれない。それとも、じたばたと抵抗するのがみっともないから、そんな素振りを見せているだけなのだろうか。
 
果たして、それでよいのか。自分がやがて、どこへ行くのか、分からないままなのだ。「やがて」のその後の時間を認識することがないのであるが、そうなると、そもそも「時間」とは何か、ということも、ふだん感じているものとは違っているのだろうか、とさえ思えてくる。行く先は、無であるのか、闇であるのか。それとも、そこに光がある、と考えてみるのはどうだろうか。
 
この世でも明かりを灯す人がいる。そこから発される光を知ることがある。真理の光が言葉によって運ばれることもある。いまなお何十億という世界の人々を支え続けてきた、豊かな愛の力がそこにある。
 
人を生かしてきたものだ。救いを与えてきたものだ。確かな言葉によって、この方が、あるいは神が、人々に呼びかけてきた。その声は、あなたも呼びかけている。あなたにも、届くように、発されている。



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