マニュアル頼り

2024年1月22日

受験生のための仕事であるから、この時期、忙しいのはもちろん分かっていた。そして、それを幾度となく毎年繰り返してきた。けれども、今年は一段と与えられた負荷が大きく、仕事の持ち帰りを含めて、キャパオーバーになっているところがある。
 
それはありがたいことかもしれない。仕事があるからだ。だが受験生のために複数科目が宛がわれると、苦しいのは苦しい。さらに、推薦入試の作文指導となると、何十人もの作文を添削することになり、しんどいことこの上ない。
 
作文。私が偉そうに指導できるものではない。本部から、マニュアルが届いている。しかもずいぶん遅くに来た。講座が始まってから届いても、先に準備しておかなくてはならない以上、なんでいまごろ、と言いたくなる。とはいえ、経験のない教師には、マニュアルは必要だろう。
 
見ると、出来上がりの見事な模範作文が掲げられている。確かに、「さあ、書け」とした後に、その模範作文を見せて、こんなふうにするとよい、と指導するように考えられている。もちろん細かな点はいろいろ言及されているが、それにしても、何か本質的に、違うような気がする。
 
喩えて言うなら、料理教室で料理を作ることを教える現場だ。さあ料理つくってみよ。そう命じて作らせた後、これが模範料理だ、と完成品を見せて、ここがいい、など示す。そんなことをしているように見えてならないのだ。
 
それで作り方が分かるのか。作れるようになるのか。こういうふうにするのだ、とご立派な「書き方」が示してあるにしても、せいぜいレシピがマニュアル的に書かれてあるようなものだ。料理の基礎、段取り、一つひとつの具材の切り方、扱い方、火加減、陥りやすいミス、そうした細かな指導こそが、料理に素人である生徒には、必要なのではないだろうか。
 
作文について言うならば、ついやってしまいそうなことの注意がたんまり必要だろうし、書く側の心理に沿った形でのアドバイスがなければ、どうしてよいのか分からないのではないか。そもそも、メモをどのようにとるかとか、結論を先に決めてから書くとか、途中で浮かんだことを挟むなとか、基本的な文章形成のノウハウをスタートで示すことなしには、作文教室も何もないように思うのだ。
 
キリスト教会は、ある面では教育機関でもある。聖書を読めば分かるなどというはずはないし、あなた自身が感じることが大事だ、と言うことは、一部の人を除いては、冷たい放任でしかないに違いない。教会学校という言葉は、成人向けにも使われるが、そこにあるマニュアルも、近年なんだか芳しくないように思われる。
 
受験指導でも、心の教育でも、マニュアル頼りだとすれば、そのマニュアル自体が頼れるものかどうかが問われる。かといって個人技に任せるのも偏りがあり、危険だ。一定の方法の指導と、現場の個人の判断と、その両方が重なった効果が望ましい。何事も、実験的な過程が必要なのだろうが、生徒の側の現状とその変化に対応する眼差しも忘れることなく、マニュアルも常に改善されるものとして、共に良くしていきたいものである。
 
ともあれ、作文は、中学の国語の現場では、あまりうまくいっていないのではないかと思う。私などよりよほどたくさんの生徒を相手にするわけで、確かに指導はなされているが、一人ひとりにとことん突き刺さるような言葉を差し向けることは難しい。自己表現は、SNSで無造作に短文で吐き捨てる中で養われているようには見えない。もちろん、万人が文章の達人になるようにするべきだとは言わないが、コミュニケーションというものが危うい中で、私たちはせめて、混乱の中にいることの自覚から始めていかねばならないようだ。
 
そういえば、いわゆるキリスト教世界においても、コミュニケーションは不全になっているように、私には思えてならない。そもそも「罪」という自覚がないままに神学校を出て就職しているような人がいることが要因なのだが、「罪」という問題を意識しないままに、教案誌の言葉だけを拾い、「教会」や「信仰」をいくら喋っても、聖書から新しく生まれた経験をもっている信徒の魂にとっては、しらけたものとなりかねない。良い実を結ぶために心がけておくべきことは、マニュアル通りの言い回しではないし、「誰でも救われます」や「あなたはそのままでいい」などの、聞こえのよい言葉でもないのである。



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