【メッセージ】十戒を新しい光の中で

2024年1月21日

(出エジプト19:16-25,ルカ16:14-18)

モーセは民を神に出会わせるために宿営から連れ出した。彼らは山の麓に立った。(出エジプト19:17)
 
◆十戒に耳を傾けよう
 
  すぐに愛を口にするけど
  それじゃ 何も解決しない
 
  発破かけたげる さあカタつけてよ
  やわな生き方を 変えられないかぎり
  限界なんだわ 坊やイライラするわ
 
著作権上、拙いかもしれません。1984年の曲ですから、もう40年も前の歌なのですね。中森明菜の「十戒」の歌詞(作詞・売野雅勇)です。これで「十戒」の知名度が上がったのは確かでしょうが、聖書の「十戒」とどこがどう関係しているのか、私にはよく分かりません。だらしない男の子たちに十戒を授けているのか……いや、分かりません。
 
旧約聖書の、出エジプト記の20章にあるのが有名な「十戒」です。創世記から話せば長くなりますが、イスラエルの地の飢饉からエジプトに難を逃れた者たちがいました。アブラハムの血を引くヤコブやヨセフといった面々です。そこから出たイスラエル人は、エジプトの地で豊かな生活を送ることができましたが、そのうちエジプトにおいて、彼ら難民は、次第に奴隷の立場に置かれるようになりました。
 
モーセは、神に選ばれた、そのイスラエル民族のリーダーです。しかし、いろいろ経緯があって、必ずしもイスラエルの民に愛されたのではないように見えます。モーセは、ある日神に呼び出され、神と対話をすることができました。それで、イスラエルの土地に戻るようにと指令を受けます。そこは約束の地。アブラハムに、将来子孫に与えると約束した土地でした。そこへ何十万人という民族を連れて旅をするように、命じられたのでした。
 
こうしたイスラエル民族を引き連れるためには、秩序が必要でした。神はモーセを通じて、イスラエルの決まり事を与えます。法律ですが、これはどういうわけか固有名詞のように扱うために、昔から「律法」と順序を替えて表すようにしています。細々とした律法も、モーセが書いたものとして、旧約聖書の最初のほうに並べられています。ただ、モーセが最初に神から与えられたのは、まず幾つかの掟でした。それは、抽象的な言い方でまとめられた、根本的な命令でした。
 
それを後世の人は、十の項目に割り振りました。十の戒めということで、「十戒」と称しています。『讃美歌』のような本には、その十の項目が分かりやすく並べられているのですが、本当に十として数えてよいのでしょうか。というのも、プロテスタント教会の使うものにある十戒と、カトリック教会の使うものにある十戒とでは、中身が違うのです。その辺りの事情については、また後に取り上げることにしましょう。
 
そうです。私たちはこれから、この十戒について、しばらく神からの言葉を受けていきたいと考えています。次回から、その一つひとつについて追究していきますので、今回は、十戒全体を見渡して受け止めていこうと思います。
 
◆十戒の実際
 
先ほど、出エジプト記20章にある、と言いましたが、実は旧約聖書には、もう一箇所、この十戒が並べられているところがあります。申命記の5章です。申命記というのは、モーセがいろいろ記してきた民族の歴史や律法、そしてエジプトを出て約束の地に至るまでの旅の記録を、もう一度思い出すかのようにして、総括した書です。従って、エジプトを出たときの記事も含まれており、そこに十戒が紹介されている、というわけです。
 
実は、出エジプト記の十戒と、申命記の十戒とでは、微妙に異なるところがあります。とくに少し詳しく書かれている部分で、大きく食い違うものがあるのですが、そうした細かなことは、また後に一つひとつを取り上げるときに、考えることにしましょう。いまは、出エジプト記のほうでご紹介します。少し長くなりますが、聖書にあるそのままを引用します。
 
2:「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。
3:あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。
4:あなたは自分のために彫像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水にあるものの、いかなる形も造ってはならない。
5:それにひれ伏し、それに仕えてはならない。私は主、あなたの神、妬む神である。私を憎む者には、父の罪を子に、さらに、三代、四代までも問うが、
6:私を愛し、その戒めを守る者には、幾千代にわたって慈しみを示す。
7:あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。主はその名をみだりに唱える者を罰せずにはおかない。
8:安息日を覚えて、これを聖別しなさい。
9:六日間は働いて、あなたのすべての仕事をしなさい。
10:しかし、七日目はあなたの神、主の安息日であるから、どのような仕事もしてはならない。あなたも、息子も娘も、男女の奴隷も、家畜も、町の中にいるあなたの寄留者も同様である。
11:主は六日のうちに、天と地と海と、そこにあるすべてのものを造り、七日目に休息された。それゆえ、主は安息日を祝福して、これを聖別されたのである。
12:あなたの父と母を敬いなさい。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えてくださった土地で長く生きることができる。
13:殺してはならない。
14:姦淫してはならない。
15:盗んではならない。
16:隣人について偽りの証言をしてはならない。
17:隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛とろばなど、隣人のものを一切欲してはならない。」
 
そう言えば、昔、映画がありました。大スペクタクル・総天然色、といったふれこみがあったかもしれません。1956年、主役のモーセは、チャールトン・ヘストンが演じました。この十戒の板が渡されるシーンは神秘的でしたし、海が別れるシーンは、世界中をあっと言わせました。聖書の場面が、映像となって描かれたのです。CGのなかった時代に、どんなに工夫して撮影されたことでしょう。尤も、この映画は、かつて同じ監督が1923年に映画化したもののリメイクだったらしく、初めてではなかったはずですが、ものすごい費用をかけてつくったものは、確かに見応えのあるものでありました。
 
当時これを劇場で観た方は、もうそうとうベテランということになりましょう。私はさすがに、テレビでこれを観たに過ぎません。
 
◆経緯は不明だとしても
 
十戒は、どのようにして人間に手に渡ったのか。大まかに言うと、モーセが神に山へ登るように呼ばれ、2枚の板を神にもらいます。但し、麓ではそのとき、とんでもないことが起きていました。モーセがいないことで大騒ぎになり、早く神を作れ、と民衆の一部が騒ぎ立てます。モーセの兄アロンが、金属を集めて子牛の象をこしらえると、彼らはご機嫌になり、どんちゃん騒ぎと相成ります。
 
そこへ、十戒の2枚の板を手にしたモーセが降りてきて、これはなんだ、とキレてしまいます。感情的には義憤からか知れませんが、せっかくの板を叩き割ってしまいました。騒いだ者たちはその報いを受けますが、壊れた板は戻せません。後に改めてモーセが神から板をもらい直します。その板はイスラエルに大切に保存され、ダビデ王がエルサレムに安置しました。しかし、バビロン捕囚のときに、板などの宝物は、行方知らずになってしまいます。
 
これはあらましですが、肝腎の、最初の2枚の板を授ける過程というのが、実は私にはよく分かりません。記述が前後している様子があり、時系列が乱れているのかもしれません。単に私の理解力が足りないだけでもあるのでしょうが、果たして何がどのようにどこで起こり、そのときに誰がいたのか、などということが、頭に思い浮かべられないのです。山にはモーセだけが行ったかと思いきや、何人かが付き添っていたとか、食事をしたとか、私は混乱してしまいます。どなたか賢い方、教えて戴ければ幸いです。
 
今回お開きした聖書の箇所は、十戒が与えられてその内容が記された20章の直前、19章の後半です。ここにも、この事件のときに誰がどのようにいたのか、他の記述と併せて難しい部分もあります。が、ここはここだけでいまは読んでおくことにします。
 
要するに、モーセは民衆から離れ、シナイ山に登るのです。まず、神が雷鳴という形で面モーセに応えたため、モーセはシナイ山に登ります。民はこの山の上に近づかないようにと念を押されましたが、私の理解不能なところは、ご勘弁ください。この箇所の次が、神が告げた、いわゆる十戒となります。そこでも民との関係が、私にはよく分かりません。ただ、その後は、律法、つまりイスラエルの社会的な法律条文が、味気なく並んでいくものとなりますので、これはいわば私たちの六法全書のような記述なのだ、というふうに捉えておくべきなのか、と感じます。物語でありつつ、いつの間にか法律書になってゆくのです。
 
◆十戒と律法
 
出エジプト記において、十戒に続いて、直ちに細かな法律――律法という用語で日本語聖書は呼びますが、要するに法律です――が続くことをお知らせしました。宗教的儀式や、生活における決まり事が並びます。私たちの社会でも、法律として機能してよいような内容だと思います。
 
現代社会での法律は、憲法に基づいていると考えられています。憲法に反する法律は制定できません。また、制定してしまっていると見られたら、審査する制度があります。違憲立法審査権という語は、中学校で必ず学習することになっています。
 
すると、この十戒と呼ばれる根本的な法は、ただの一般の法律とは異なるように考えられて然るべきでしょう。つまり、十戒は、憲法のような役割を担っている、と捉えてみてはどうでしょうか。すべての律法は、この十戒に基づいている、と言えるかどうか、少し考えてみようかと思います。律法を機能させるための原則のようなものとして、十戒がまず掲げられる必要があったのではないか、と。
 
でも、それは本当でしょうか。旧約聖書の最初の五つの書、いわゆるモーセ五書には、物語に加えて、律法がひたすら並んでいるようなところもたくさんあります。まことに読んでいて味気ないものですが、くどい繰り返しも重ねながら、イスラエルの民が守るべき法律がちりばめられています。この五書は、旧約聖書の中でも特別に「律法の書」と称され、ユダヤ人にとっては信仰の根幹として、大切に考えられているのです。
 
その重要な律法は、モーセに特別に神が与えた十の戒め、これに基づいていると言えるのでしょうか。十戒は、それほどに根本的な、揺るぎないものとしてイスラエルに与えられた原理なのでしょうか。それだけの価値のある根本命題だったのでしょうか。
 
いま、述べる中で私は、「原理」「原則」「根本命題」などと、少し気取った言葉を交えました。特にこの後、「原理」や「原則」といった日本語について、立ち止まって見直す時間をもちたいと思います。
 
◆原理と原則
 
もとより、それらの厳格な唯一の定義といったものがあるわけではありません。私がいまから説明することを、唯一無二の意味だなどと、勘違いしないでください。
 
原理や原則というふうに訳された西欧の言葉は、もともと、動かされることのできない法則を意味しました。原理は、それに基づくすべての命題を支配する根本的な法則のことです。原則は、それをより規則という形で現実へもたらすための法則のことです。従って、原理はすべてに貫かれているはずのものであり、すべてのものがその法則の上に成り立っているものです。原則は、その原理を実際的に適用する場合に、必ず従うべき決まりを意味します。
 
ここで日本語だけでイメージをもつ人がもつ、歪みが混じることでしょう。「原則として」という日本語のことです。「原則として」という言葉は、「理屈としてはそうなんだが、実際には例外があるものだ」という前提で使うものです。しかし、西欧語の元来の意味では、そのように解釈する余地は全くありません。原則は百%従わねばならないものであり、原則に例外というものはありません。但し書きも必要ありません。
 
ここで、福音書のイエスのことに目を向けることとしましょう。今日は、ルカによる福音書の16章を開きました。16章というと、あの難解な「不正な管理人のたとえ」が登場する章です。が、本日はそれに続く場面を取り上げました。イエスがそのたとえを語ると、ファリサイ派の人々が、イエスを嘲笑いました。そこでイエスが言葉を返します。
 
15:そこで、イエスは言われた。「あなたがたは、人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたがたの心をご存じである。人々の間で尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。
16:律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、誰もが激しく攻め入っている。
17:しかし、律法の一画が落ちるよりは、天地の消えうせるほうが易しい。
18:妻を離縁して他の女と結婚する者は誰でも、姦淫の罪を犯すことになる。夫から離縁された女と結婚する者も、姦淫の罪を犯すことになる。」
 
「律法の一画が落ちるよりは、天地の消えうせるほうが易しい」というように、イエスも、この律法については、一画たりとも、つまり一字たりとも例外をつくらないのだ、というように見ているように窺えます。
 
ここでイエスは、ファリサイ派の人々と対立しています。イエスの目の上のこぶは、このファリサイ派の人々や、律法学者たちでした。どうしてそこまで、と思えるほどに、彼らを批判し、対立を煽りさえします。けれども、福音書をよく読めば、必ずしも犬猿の仲だとは言えないことが分かります。共に食事をしていたこともあるし、イエスに教えを乞う人も、その中にはいたのです。
 
個人的には、親しくする者もいたようです。けれども、愛を説くイエスからすれば、人々を厳しく裁く彼ら一般のやり方は、認めることのできないものでした。人が人を裁くというのは、ある意味で社会的には必要なことのように見えます。しかし、裁く側が権力ある立場であると、弱い人々が一方的に裁かれるばかりとなります。
 
ファリサイ派たちは、ともすれば、原則通りに指摘しすぎたのです。どんな事情があろうと、こう決まっていることにおまえたちは従えないからには、おまえたちには罪がある、と決めてしまうのです。穴に落ちた動物を、安息日に助けるおまえたちは罪人だ。安息日には何もしないで生活できる自分たちは、律法を守る偉い者なのだ――と。
 
それが、自分たちについてだけは、都合よく適用しているものだ、とイエスは見抜いていました。特にマタイによる福音書には、随所でその指摘が出てきます。原則通りに裁くのは他人に対してであって、自分に関わる問題については、原則に例外を設けるようなことさえしていたのです。
 
国会議員の不正な金の動かし方が、能登の震災の前には、ワイドショーをも賑わせていました。このとき、問題は彼らが国会議員であった、ということについて、世間はあまり言及していませんでした。国会議員は何をする人たちでしょうか。法律をつくるのが仕事です。法律をつくる唯一の機関に属するプロが、法律を平気で破り、自分たちに都合の好いように理解して、一般人のできないようなことを陰で行っていたのです。そして、できるだけ自分たちにはその法律が適用されないように、と振舞うのです。
 
国会議員に対する憤りが、私たちの内にあるのだとすれば、私たちはイエスの憤りに、改めて気づく機会が与えられるのではないか、と期待しています。
 
◆イエスが闘ったもの
 
十戒は、憲法のようなものではないか。数々の律法は、この十戒の規定を根拠として、憲法のようにその原則に基づいて、決められているのではないか。そのようなことを、先ほど問いました。
 
しかし残念ながら、そうではない、と私は思います。イスラエルの民は、十戒の最初のほうにある、この主なる神しかあってはならない、というものを幾度も破り続けました。偶像を造り続けました。十戒は、イスラエルの民の生活規定の根本において、全く守られていなかったことになります。イスラエルの歴史は、憲法違反のまま、長らく運営されていた、というのは、もはや法の体制を調えていないことになります。
 
けれども、それは人間の弱さなのであって、十戒自体が憲法ではない、という意味を表すものではない、そうご指摘なさる方もいるだろうと思います。では、第六戒はどうでしょう。「殺してはならない」です。特に旧約聖書では、なんと神自らが「殺せ」と盛んに叫んでいたのではなかったでしょうか。
 
そうすると、そんなことはない、と弁護する先生もいらっしゃいます。「殺してはならない」のは、同胞のことだ、敵について殺すことを、この規定は含んでいない、と説明なさるのです。デモそうでしょうか。イスラエルの民の中で、律法違犯があったら、「死ななければならない」と、死刑を認めていたのは神ではなかったのでしょうか。その後も、イスラエルの人々は、死刑を続けます。イエス自身、何度殺されようとしたことでしょうか。正義の名の下に、殺すことが正当化されることが、当たり前のように描かれてはいなかったでしょうか。
 
死刑制度。これは多大な問題を含みます。社会学的にも法学的にも、現代においてさえ、簡単に言えることではありません。この件については、今後第六戒をテーマとするときに、検討することとします。
 
日本国憲法に、いくら平和主義が記されていても、また戦力をもたないと宣言されていたとしても、これこれは戦力ではありません、平和主義のために必要なのです、と説明すれば、存在を万人が認めてしまう。そのようなからくりと、似通ったものを感じるのは、私だけでしょうか。
 
憲法は、本来の意味での「原則」とはなっていないのです。しかし、思うのです。イエスが律法の一点一画をも守ろうとしたのは、憲法のような十戒を、「殺すな」を含めて、徹底的に原則としようとしたのではないか、と。イエスは人間の身勝手なご都合主義、さらに言えば、自分こそ正しいとして神の言葉さえ手段にしてしまう過ちと、闘っていたのではないか、と思うのです。
 
もちろん、神が「殺せ」と告げていた点についての問題は残ります。私はそのことについても、いずれ、私見を語りたいと思います。
 
◆イエスの律法
 
どうも、イエスは十戒の真の意義を、人間に教えようとしていたのだ、というように見えて仕方がありません。自分の命を捨ててまでも、あるいは自分の命を捨てたからこそ、十戒のエッセンスが人間にもたらされたのだ、というように、私には見えるのです。
 
そのイエスの登場に至るまで、十戒は憲法にはなりえていませんでした。むしろ、それを憲法のように規定しようとしたファリサイ派の人々のやり方のほうが、神の意に適わないものとなりました。イエスの救いに至るまで、十戒の福音は、封じられていたのです。だからその間、十戒は憲法のような厳密な原則性を持ち得ませんでした。
 
イエスが現れるまで、十戒は、せいぜい「ガイドライン」のようなものとして機能して然るべきものだったように、私は思うのです。それは「推奨される」くらいの緩やかなものとして、人間に与えられていたはずだった、と読んでみたいと思います。無理な読み方かもしれません。けれども、現実に旧約聖書に記された記録は、十戒をさほど厳密に守っていたのではない様子に見えて仕方がないのです。
 
しかし、ファリサイ派などは、それを厳格に適用しようとしました。それも、他人に対して適用し、自分については逃げ道を作るようにしていたのです。イエスは、そのような倒錯した利用の仕方と闘っていたのではないか、と私は感じます。
 
16:律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、誰もが激しく攻め入っている。
 
誰もが激しく攻め入っている、というのは難しい表現だと思いますが、おそらく、人の目ばかり気にして、自分の力だけでなんとか律法を守り、神の国に入ろうとする様子を現しているのではないか、と考えられます。それが、自分本位の解釈、自己満足の律法主義となってしまいがちなのです。それよりは、むしろ「ガイドライン」程度に捉えていたほうが、まだ人に優しくできたのです。
 
私たちは、十戒を、イエスの言葉の下で読み直す旅に出ようとしています。私たちは、イエスを通して、神と出会いました。それまで自分が正しいと言い張って生きてきたことが、すべて間違いだったことを知る機会がありました。かつての私は、確かに死んだのです。罪の中にあったその自分の世界から連れ出されて、イエスの十字架の許に私たちは立ちました。そのとき、私たちは神の前に立ったのです。十字架のイエスの前に立つことによって、神の前に立つのです。そう、モーセと共にいたイスラエルの民のように。
 
モーセは民を神に出会わせるために宿営から連れ出した。
彼らは山の麓に立った。(出エジプト19:17)
 
モーセではなく、イエス・キリストが、私たちを連れ出しました。いま私たちは神の前に立っています。イエス・キリストの光の中で、これから十戒を読み始めます。そのとき、十戒の言葉が、新たな輝きを以て、私たちの心に注がれてくることを、私は信じています。



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