文字と伝達

2024年1月20日

手書きの文字については、決して威張ることはできない。走り書きにすると、実に癖のある、読みにくい字を私は書く。ゆっくり書けば、それなりに見られるのだが、ちゃちゃっと書くと、読みづらいのだ。
 
だから、生徒の答案の文字について、ケチをつけることはできないのだが、しかし答案となると、他の文字にも読み得るような文字は、採点上正解と見なされないので、生徒に不利をもたらす。指導はしなければならない。
 
英字は特にひどい。テスト中に注意喚起のために板書するのだが、vとr、aとu、oとu、nとhあるいはb、aとd、fとtなど、枚挙に暇がない。これらは以前から慢性的に見られたものである。
 
だが最近、とみに目立つように思われる怪しい文字がある。カタカナの「ア」である。
 
活字として示せないため、言葉による曖昧な説明しかできないことをお許し願いたい。
 
たとえば、右斜め上に→を書いたようなものがある。カタカナというカテゴリーに気づかないならば、矢印があるようにしか見えない。
 
折れ曲がりの角度が0に近く、「イ」と殆ど同じように見えるものもある。戻す線が最初の線に重なると、「イ」との区別は殆どつかなくなる。「ア」と「イ」は選択肢として並ぶので、これは決定的にまずい。
 
縦に「フー」と書いたようなもの。完全に離れて、どう見ても「フー」としか呼べようにないものもある。
 
数字の「3」に見えるもの。右上が45度くらいの角度で角張っているものもあるが、全体が一画で続けられているので、「3」と読まれても不思議はない。中には、右上も丸くなっていて、誰がどう見ても「3」にしか見えないものもある。
 
まだバリエーションがありそうだ。「イ」については、最初の画が水平になって「T」と書かれたものもあるが、それほどバリエーションはない。せいぜいひらがなの「く」に近いものがあるくらいだろうか。それに比べると、「ア」は実に多い。もちろん、「エ」が「ユ」になったり、「オ」と「キ」が同じであったり、「ク」「ワ」「ケ」時に「カ」の区別がつかなかったりする例もあるが、それらは以前から見られた。「ア」は最近急に増えてきたように感じる。
 
そういえば、ひらがなの「や」も最近変なものが多くなっている。「か」にしか見えないのである。つまり「や」の2画目が右の外に飛び出しているのである。もしかすると、その点を3画目に書いているのかもしれない。それならば、「か」と同じ形になるのも理解できる。
 
書き順にこだわるのはナンセンスだ、という声がある。日本語に長けた外国人からの発言も昔あったが、このネットの時代には、書き順が違うから漢字が×だというのは意味がない、という声が大きくなり、国語学者の賛同も増えてきているようだ。
 
漢字の場合、楷書と草書とで書き順が違う、あるいは高校入試でよくあるのだが、画の省略が行われている、といった例も多々ある。が、書き順は、筆で書をなす場合には、大いに意味があったはずである。美しいつながりをもたせるには、別の順でつながりを帰ると、その文字として読まれない可能性が高くなる。活字どおりのものが書かれるならば、書き順が異なっても基本的に問題はないはずなのだが、崩し字やつなげ字となると、支障が起こるであろうと思われる。
 
漢字だと「方」の字が、書き順が異なると、かなり字形が変わってくる。他の様々な漢字にも「方」が部分的に用いられるため、誤認しそうになることもある。字形は、最後に「ノ」で整うようになっているが、「ノ」が3画目にくると、最後が不格好になるのだ。中には、3画目から続けて最後の部分を書いてしまう人がいて、何の文字だろう、と引っかかることは確実である。字形が変わってしまうのは、当人以外は引っかかってしまう可能性が高い。
 
古代の文献の解読は、人類文化を知るためにも重要な学問作業であった。案外、古代文字は誤解がないように書かれてあるものだ、と私は感じている。しかし日本の筆による文字は、字が流れるようにつながり、判読にはやはり玄人の目が必要になるのではないか。そのときには、書き順に基づく字形は重要な押さえどころとなるように思われる。
 
話を大袈裟にする必要はないだろう。いまはキーボードで電子処理された記号が、こうして文字として伝わってゆくことが多い。推理ドラマのトリックで、ダイイングメッセージの文字をどう読み解くか、が謎解きになることもあるが、手書きの文字がなくなることは、まさかあるまい。
 
大切なことは、「伝える」気持ちではないか、と私はぼんやり考えている。自分はちゃんと書いているんだ、読もうとしないおまえが悪い、という態度でいてよいのかどうか。これは、書く文字に限らず、話においても、近年増えてきている態度のようにも見える。自分はちゃんと言ったんだ、それを誤解したおまえが悪い、というのである。
 
だが、自分は伝えようとしただろうか。誤解されていないか確認するところまで、発言した自分が責任を負う気持ちをもっていただろうか。そのように反省する思いを常に抱くということを、誰もが心がけたならば、世界はもっと平和になるのではないか、と私は密かに考えている。



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