二十歳へのエール

2024年1月15日

「はたちのつどい」と名を変えた「成人式」。法律上「成人」という語が指定する年齢が二十歳から引き下げられたにも関わらず、儀式としては二十歳の基準を保つ場合が多いからだ。
 
教会でも、協議した。そして、多くの自治体がそうであるように、二十歳の人の祝福の場を設ける従来のあり方を踏襲することとした。
 
しかし、教会によっては、二十歳の年齢を迎える該当者がいない。むしろいないのが当然であるという空気が覆っている。この教会では、それが十人以上を数えるというから、驚きである。もちろんそれは、教会関係者の部類であって、いわゆる教会員である必要はない。が、それにしてもなかなか多くの教会では、該当者を見出せないというのが実情ではないか。
 
青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。(コヘレト12:1)
 
若者に対するメッセージの代表格である。必ずしも若者に限らなくともよいのではないか、と私はふだん考えているが、だとしても、若き日に造り主を知れ、という言葉は大切に扱うべきだろうとは思う。
 
「お前の創造主に心を留めよ」がリフレインする。説教者は、ソロモン王の例を出した。このコヘレトは、伝統的に、ソロモンの言葉ではないか、と言われているためだ。イスラエル国の歴史の中で、繁栄の極みを築いたとされるソロモン王である。だが、その後半生は異教の偶像にまみれた人生だった。父ダビデは、人間的な過ちや失敗が多かったけれども、心は神と結びついていた。それに対してソロモンは、人間としての過ちを犯した記録はないのではあるが、心が神から背いてしまった。そのため、王国は次の代で分裂し、それぞれ過程は異なれど、滅亡へと突き進んでしまうのだった。
 
とはいえ、神は「わが僕ダビデのゆえに」イスラエルの民と国を愛した。そのダビデの子孫から、メシアが現れるという道を生んだのだ。
 
説教者はこのとき、ゴーギャンを話に連れてきた。例の「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」の問いである。人類はその答えを見いだしたとは言えないが、当然これは、哲学の問いとしては古来ありふれたものである。
 
キリスト者は、聖書という神から与えられた言葉の中に、それぞれの問いに対する態度を有しているということもあるだろうと思う。それが口先だけの場合もあれば、真摯に悩み続けるということもあるだろう。表向きの反応で決まりはしないので、やはりそれぞれの人がそれぞれに受け止めてゆくとよいのだろうと思う。
 
その疑問文のほうに、恐らくひとは注目するだろう。だが私は、そこに見過ごしてしまったものに着目すべきだと考えている。つまり、「我々」という主体である。ここで問いに引きずり出されている「我々」とは誰のことなのか、安易に前提として分かりきったものになっていないだろうか。
 
教会にいる者が「我々」と言うとき、キリスト教信者を指すことがあるだろう。もしかすると、その中で特定のグループだけを指していると決めつけている人々がいるかもしれない。全人類を含むものとして見て、ヒューマニズムに満ちた姿勢を示す人もいるだろう。しかし、そこから女性が除かれている、障害者が除かれている、そんなことがないか、考えなければならないと思う。この地震の災害のとき、音声情報が伝わらない聴覚障害者への配慮は、どれほどあっただろうか。配慮された、というニュースもあった。だが、それは「ニュース」になる価値のある程珍しかったのだ。介護の必要な方々、外国人、それは本当に「我々」に含まれていたのだろうか。
 
問わねばならないと思うのだ。
 
さて、二十歳のお祝いについてのそのコヘレト書に続いて、新約聖書からは、マタイによる福音書が開かれた。
 
あなたがたは地の塩である。(マタイ5:13)
あなたがたは世の光である。(マタイ5:14)
 
非常に有名な言葉、「地の塩」「世の光」が並ぶ箇所である。味わい深い言葉であるし、深い意味もあろう。当時の人々の生活文化や自然理解なども関係してこそ、意味を理解できる側面もあるだろうと思う。言葉の意味を解釈しよう、とする姿勢は大変重要である。
 
だが、説教者はその言葉を研究して発表する意図がなかった。それよりも、この言葉が発された現場に注目した。その現象が何を意味していたのかを、臨場感を体験することにより知ろうとしていた。
 
つまり、これが投げかけられた人々が、どんな人たちであったか、ということである。説教者はそれをこのように強調した。「いてもいなくてもよいかのような人々」に対して、これらの言葉が語られたのだ、と。
 
何の取り柄もない、優れたものをもっているわけでもない、そのような人々に向けて、イエスはこれらを語った、という様子を想像するのだ。この描写の時間が、かなり長かった。もちろん、地の塩とは何か、最低限のことは語る。世の光ということを頭に思い浮かべられるように取り上げる。しかし、たとえば自分は、そうした地の塩や世の光になれるだろうか、と自問すると、心許ないことを説教者は告白する。
 
だが、イエス・キリストはそうなることを求めているわけではない。「あなたがたは〜である」とただ言い切ったからである。「である」は、よく英語を学ぶときに「現在形」というが、過去や未来と切り離しただけの現在を意味するように誤解してはならない。それは時の変化を超越した言明である、と捉えたほうが妥当なのだ。
 
あなたがたは地の塩なのだ、世の光であるじゃないか。信じていないのか、気づけよ。――もちろん、それは自らの罪を知り、それを赦すのはイエス・キリストの十字架しかなく、その復活によって、新しい命に生かされるようになったのだ。
 
マタイ伝は、ここにイエスの説教を集めたと言われる。一応、山あるいは丘に登って話したという場面を設定したことによって、「山上の説教」とよく言われる説教集がここにできた。その最初は、八つの幸いを私たちに突きつけた。その直後に、この「地の塩」「世の光」がきたのであるから、重要なメッセージだと受け止めてよいだろう。語った対象は「弟子たち」である、とマタイは記している。
 
弟子たちとは誰か。十二弟子もいたはずだが、必ずしも優秀な生徒ではない。弟子たち自身も、自分が立派な弟子だなどとは考えていないはずである。だがイエスは、その弟子たちへ向けて、「地の塩である」「世の光である」とぶつけた。
 
ここに重きを置く受け取り方をする、ということは、説教者自身が、これを受けたが故であるはずである。そのイエスの力ある言葉を、何の善きものをももたない自分が、救いとして与えられたからこそ、その体験ができたのである。
 
これが、「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」という旧約聖書の言葉につながる。説教者は、この主に心を留めた、ということだ。心を留めるためには、自分がそのイエスの言葉を聞かなければならない。あのガリラヤの風かおる丘で、主の声を聞いたのである。主イエスと出会ったのだ。そして、方位磁針のように、ぴたりとイエスの方角に針が向き、もはやブレなくなった状態だったのだ。
 
この「役に立たぬような者」が、実のところ「地の塩」であり「世の光」である。そう言える根拠は、救いがあったことだ。イエスの十字架の救いがあったからだ。説教者は、この恵みの中に溺れかねないほどに、言葉を結んだ。
 
この後、成人の祝福の場が設けられた。数人の女性が出席していた。短いながら、この場にいたことによって、「愛」という言葉を身につけて帰ってほしい、という牧師の願いがよく伝わってきた。確かに「愛」は、いつまでも残ることだろう。それが、「ことば」としての神であることを知るには、まだこれからの人生経験が必要であるかもしれない。否、時の長さに依るのではないだろう。
 
二十歳の人たちが見た、東日本大震災、コロナ禍、いまもなお続く戦争の報、そして能登半島の地震被害。もっと大人の私たちも、それらを共有しているが、特にコロナ禍は、華やかなるべき高校生活を直撃している。それは確かに多くの犠牲を払ったものだったに違いないが、それがかけがえのない実を結ぶことへとつながってゆくことを、願わずにはいられない。



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