殺す言葉ではなく

2024年1月12日

そのラジオのパーソナリティは、たいへん物知りである。多彩な趣味もさることながら、どんな話題にでも、蘊蓄と経験がその口から溢れるばかりにこぼれてくる。性格的にも嫌味がないので、リスナーはもちろんのこと、アシスタントのアナウンサーも、とても感心しているようだ。
 
あるとき、どうしてそんなに物知りなんですか、という根本的なことを尋ねている会話が、ラジオから流れてきた。このパーソナリティは、誠実な人である。この問いに、正直にこんなふうに答えていた。それは、何でも知っているのではなく、知っていることを話しているのだ、ということであった。
 
つまり、自分の知っていることを、自分から話し始めるのである。自分の得意なことを自分から次々と話していれば、話のタネは尽きない。知っていることを、自分のほうからばんばん言っているだけだ、というのだ。すると、傍からそれを聞けば、何でも知っているように聞こえる。物知りのような顔ができてしまうことになる、というわけである。
 
知らないことを話しているのではなく、知っていることをただ話しているだけ。実に簡単な原理である。
 
しかし、このパーソナリティとは違い、このことを暴力的に用いる人がいる。愚かな言葉であるが、「論破」という言葉がもてはやされているように見える。哲学を少しでも知る者としては、「論破」などいうことは原理的にありえないことなのであるが、勢いよく自分が言い張ることによって、相手が反論できなくなったとたんに、自分が勝った、と威張るわけである。
 
これも妙な言い方だが、「マウントを取る」という言葉もよく聞かれる。いろいろな場合がある可能性を踏まえて深く考えるような人に対して、自分の意見をひたすらすべてであるかのように強気で押し通せば、相手より上に立ち、議論に勝った、という顔をすることができる世相がある。
 
無理も道理となる、というわけだろうか。そして、ネット上では、それが偉いことのように錯覚するのか、ひとたびそのような空気ができると、あるいは何らかの考えが烏合の衆のように重なれば、それが真理であるかのようにのさばり始める。多くの追随者が集まれば、デマもまた、真実であるかのように振舞うことになる。
 
それが、日常的に起きている。この、災いの中で苦しむ人々がいる中でも、そうした人や誠実な人々を食い物にしてでも、言葉の暴力がまかり通っている、悲しい現状がある。
 
言葉は、人を生かすものになることもできれば、人を殺すものにもなり得る。「文字は人を殺す」という戒めも、聞く耳をもたない者には、何も働くことがない。人を生かす言葉が、聖書にはたくさんある。しかし、時にその聖書の言葉でさえも、人を殺すために用いる者たちがいる。あるいはまた、人をちっとも生かすことのない言葉をまき散らす者たちもいる。
 
自分の知っていることを、惜しみなく語ること。それは決して自分が優位に立つためではなく、人を生かすためであること。言葉の使い方について、勝負とは関係なく、じっくり考えていく世相であってほしいと願うばかりである。



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