何事も愛をもって

2024年1月8日

年頭の礼拝では、新たな年の抱負のようなものを含む説教が語られることもある。だが1月と4月と、ダブルスタンダードで暦が走る日本では、どちらがメインなのか、分からないものである。
 
ローズンゲンを頼りに、コリント一16:13-14が開かれた。
 
16:13 目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。
16:14 何事も愛をもって行いなさい。
 
特に、この14節がこの礼拝で強烈に刻まれた言葉であった。
 
「何事も愛をもって行いなさい」、これを説教中何度リフレインされたか知れない、この一言。会衆の心の中に、強烈に刻まれたことだろう。これは、ただの命令ではない。「何事も」なのである。強調されたように、これは私たちの思いを厳しく取り締まる。私たちは「何事も」できるわけではない。だから、言い訳をする。これこれの理由でできなかった、こういうことが起こったのでできなかった、と先ず前置きしてから、小さな声で「できなかった」と零すのである。
 
そのために、予防線すら張る。「ここまではできる」「ここから先はできない」と、予め線を引いて生きている。説教者はそのように指摘した。だが本物の愛は、それを乗りこえる。乗りこえるからこそ、愛なのだ。私たちが打算の上で、自分に有利なように一瞬打ちに計算して愛を演ずるようなこととは違う。イエス・キリストの愛は、私たち人間にできるすべてのことを超えていた。
 
同じコリント書第一には、13章に有名な「愛の章」がある。私は最初に、ここに出会って泣き崩れた。聖書にある美しい教えには、感動したものの、それだけでは自分を変えるには至らなかった。しかし、「愛の章」で、自分がすべての真逆であることに気づかされ、脳天を殴られたと感じたのだった。
 
この章があったからこそ、自分に愛がないことを知った。説教者もそのような意味での大切な役割を、この13章に覚えていた。凡そ愛という述語に完全に似合わない自分という主語がであることが、痛切に感じられることがあって、神の愛が強く及んでくるのである。
 
この手紙は、「愛の章」に続いて、愛を追い求めよ、と促し、求めることが許されていることを告げる。立ち直れないと思われた精神状態が、これで起き上がるように仕向けられる。
 
英語の助動詞canには、分析すると、いくつかの意味があるという。能力・可能・許可・依頼・可能性などともいう。「愛の章」で打ちのめされたひとの前には、このcanが待ち受けているような気がする。そうやって自分に死んだからこそ、愛する能力を戴くのだ。可能であるとの希望が与えられるのであるし、神がその未知を赦してくださるのである。さあ、ではおまえはどうするか、と問いかけるのも事実だし、これから自分がどう生きていくか、可能性が開けているはずである。
 
もし、私がここで立ち尽くして、あるいは目指して進むことを渋っていたとしても、神はCan you? と問い尋ねてくる。おまえはそれをしてくれるのかい?と迫ってくる。説教者は、神は諦めずに問いかけ求めてくるのだ、と教えた。そして「憧れ」の心を呼び覚まそうとするのだ、と言った。「憧れ」が「信仰」のひとつの側面であることに気づかせるためだった。
 
カトリックの方の信仰には、しばしば敬服の思いを覚える。高橋たか子さんの『神の飛び火』という本を今日読み終わったところだが、キリストを求め神を感じるその信仰の姿勢には、たいへん驚かされる。私は訳あって、カトリック的な環境にいたことがあるため、高橋たか子さんの心の向きや見ている風景について、感じるところがある。だが、私自身にそれができているかというと、ダメである。特にプロテスタント生活が長くなり、非常に世俗的な教会に足を踏み入れていると、霊操的な領域のことがどんどんいい加減になってゆくのを覚える。
 
カトリックの真摯な信仰者の姿のひとつに、この「憧れ」があるように私は思えるのである。それは、定番の対比となった「アガペーとエロース」という安易な対立で説明できるほど、単純なものではない。イエスも繰り返し、「神を愛しなさい」という点を強調していたではないか。
 
ただ、説教者は憧れる方向性を誤らないように、印象的な事実を語った。イエスはどこにいるか。上を見上げればそこにいるのではないのだ、と。そう、イエスはいま、私の足元にうずくまっているではないか。私の足を洗っているし、どうかすると、私がこの足でイエスの顔を踏みにじっているかもしれないではないか。
 
このイエスが下から支えてくださっているからこそ、いまの私がここにあるのだ。主によってこそ、私はなんとか立っているのであり、立たせてもらっているのである。英語で「実体」や「本質」を substance というが、これはラテン語に由来し、「下に・立つ」という語を組み合わせてできている。私の本質は、下に立つイエス・キリストにある。キリストが下から支えていてくださるという本質があるからこそ、私は生きている。生かされている。これを忘れてはならない。
 
この後、説教は、能登の地震の話題に移った。悲痛な思いが滲み出ていた。もちろん、感情的に語ることはしないが、私とはまた違った切実さを以て、絞り出すように言葉を送った。神の言葉でありつつ、苦しい人間の言葉でもあった。だからこそまた、聴く者にとっても、胸に詰まるものが伝わってきた。説教者は、かつて20年以上前にではあるが、石川県金沢市で8年間牧会していたことがあるのだ。
 
近隣で、教会員は多い部類に入るこの教会ではあっても、決して財政的には豊かではない。しかし、パウロも大きな教会へ、あるいは小さな教会へ、強く働きかけ、献金を募っていた。えてして小さな教会の人々が、全力で献金するものである。都市部で富裕層が集まっているような教会に対して、内心そんな姿勢は恥ずかしくないのか、と叫びたい思いで、献金するよう働きかけている場面もあると思う。だからこのコリント教会へも、「何事も愛をもって行いなさい」と告げたのである。自分で自分にできることについて線を引いてしまうのではなくて、その線を超える働きを、また信仰を、パウロは求めたのであった。
 
だから、目先の財政がどうであろうと、献げる思い、とくに人々の命と生活のために献げる思いは、いまこの教会に必要なことなのだ、と言いたかったのではないかと思う。「何事も愛をもって行いなさい」との繰り返しは、この能登にあるいくつかの教会への援助のための言葉であったと思うのだ。もちろん、金銭的なものがすべてではない。祈ること、そうして神の助けを求めること、まずはそこからである。「何事も」なすときに愛がそこにあれば、よいのである。その「愛」とは、実のところイエス・キリストご自身のことであるに違いない。
 
突然愛するものを奪われることの辛さは、実は傍から見て思う心を遙かに超えるものがある。詳しくはいま述べないが、それを最近思い知らされたからだ。私の場合は、まだ小さな出来事でしかないだろう。能登を始め被災された方々の、経済的な被害もさることながら、また健康的な被害もさることながら、精神的なダメージは、想像を絶するものがあるはずだ。「心の救い」はなまっちょろい、と言われることがあるが、決してそんなことはないと思う。
 
説教者はまた、能登の教会の牧師から学んだことがあった、とも話した。東京にいると、恐らく自分の教会のことしか考えられなくなるのではないか、それは疲れることだろう。しかし、地方にいると、違う。日本全国が見えてくるのだという。地方で育てた若い世代のキリスト者が、やがて全国へ散っていく。いつも人員を送り出すばかりだ。しかし、彼らが全国各地で働いていることを見つめ、祈ることができる、というのだ。
 
似たようなことを、京都の牧師がよく言っていた。京都には多くの大学があり、全国各地から学生がくる。金はなくとも時間のある学生は、教会にとり大きな力となる。しかし、卒業すると、たいていは故郷へ、あるいはさらなる大都市へ移り住んでゆく。それでも、京都で信仰を育むことができたら、気持ちよく送り出す、そういう役割をここは担っているのだ、というのである。
 
目先のことがどうであっても、その先を主はご存じである。希望を以て、いまこのときにできる「何事も愛をもって行いなさい」との言葉が、私たち一人ひとりに送られている。漠然と「何事も」と聞こえているうちは、私たちはぼうっとしているものである。だが、そのうちにその「何事も」が具体的な像を結んで目の前に現れるようになる。「世界が平和でありますように」ではなく「自分と隣人とが平和でありますように」と祈るようになることによって、祈りは研ぎ澄まされてゆくだろう。何かを為すように仕向けられるだろう。いま、自分にとり「何事」というのが何であるか、それはさしあたり、ひとつはあるはずである。
 
念を押すが、忘れてはならないことがある。「何事も愛をもって行いなさい」と言われた中央に、「愛をもって」があることだ。「愛」とは私自身から出てくるものではない。「神は愛である」を刻んでおかねばならない。私が神と共にいるか、問い直したい。しかしまた、神は私と共にいる、という真実を信仰する者でありたい。十字架を仰ぎ、神を仰ぎ、イエスに憧れつつ。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります