成人と世代の懸念

2024年1月8日

成人式には出席しなかった。確か花園にラグビーの試合を見に行ったのがその日だったような気がするが、記憶違いかもしれない。ずいぶん昔のことである。
 
2000年から、現今のように、祝日としての成人の日は移動祝祭日となったが、それまでは1月15日と固定されていた。それは、母の誕生日であった。そのため、母の誕生日は毎年祝日で休みがとれ、実家を訪ねるのが普通だった。子どもたちもまだ大きくなかったし、孫の顔を見せに行くようなものでもあった。
 
実家が同じ福岡であるというのは、その意味でもありがたい。私たちが二親とも仕事で留守のときには、私の父に子どもたちの面倒をみてもらうこともできた。しばらくは京都にいたが、福岡に来てからは、妻の実家は遠く離れてしまい、申し訳ない思いであることはずっと変わらない。
 
こういうわけで、成人式の体験がないので、その後報道で、「荒れる成人式」などと言われても、それがどういうことを意味しているのか、よく分からないというのが正直なところである。私の時代には、派手なパフォーマンスはなかったのだろう、とは思うが、出席していないので、なんとも言えない。
 
成人という言葉は、かつての元服のバリエーションなのだろうか。「人と成る」のように理解すると、それまでは人ではなかったかのようにさえ聞こえかねない。「つ」のつくうちは神の子、だなどと言われ、子どもの短命が当たり前だった時代では、大人になるまで無事だった子どもについては、うれしさも一入だったことだろう。それを承知で、なるべく多く産み育てるというのが常識であったのかもしれない。
 
自分が若いころには、自分のような者が、また自分と同じ世代が、大人になれるのだろうか、と訝しく思ったものだった。さらに、自分たちが社会をリードしていく世代になるなどとは、夢にも思えなかった。果たして、それを乗りこえ、自分たちは社会で責任を果たして来たのだろうか。なんとも頼りない気がする。
 
その自分たちが育てた世代が大人となっているのだが、若い世代の頑張りを見守ると共に、とんでもなく子育てができていないのでは、と案ずる向きもある。自分のことは差し置いて厚かましいこと甚だしいのだが、とても大人になれていないままに親になっている、というふうに見えることも度々ある。
 
親としての教育を果たせなかったのが、自分たちの世代なのか、というふうにも思える。くれぐれも、そうした自分たちが上からそう見られていたことは十分想像した上での溜息であることは、ご理解戴きたい。常に人間たちは、こうした世代においては、同じような感想をもちながら、変遷していったのではないか、とは思っている。
 
だが、感覚が違うのは、育てられ方、教育環境など、やはり影響が甚大である。いまはそうした世代のことを「Z世代」などと呼んでいるが、かつても「新人類」などと呼ばれていたわけだから、構造自体は普遍的であるのかもしれない。ただ、その内容が異なる。デジタル思考が根柢にあるとなると、さて、「心」というものを考える基盤がどうなるのか、分からない。文学によって育むものであったかつての世代から、マンガやアニメでどんどん映像でぶつけられた中で「心」を考えていくこととなった世代となり、いまや自由操作の中で、オンデマンドが当たり前の仕組みが、どう「心」を変えてゆくのか、未知そのものである。
 
「打たれ弱い」などとも言われる。実にソフトに対しなければならない若者たち。わずかな叱咤激励が、即ハラスメントとなり、犯罪立件されかねないことは、人権に対する過剰な反応と言えるのではないか、と警鐘を鳴らす人もいる。その一方で、人権を踏みにじることが平気でなされることもあるために、いびつな感情の形成があるのか、と懸念する人もいる。
 
世代がどうなるのか、技術がどう人を変えるのか。そして、そもそもエネルギーが今後どうなるのか。平和というものがどう崩れるのか、災害の原因を人間が造ったとも考えられる中で、自然とのつきあいが破綻するようなことはないのか。また、少子高齢化社会が経済をはじめ医療や福祉などについて、何をもたらすのか。必ずしも明るい見通しだけが立てられないのが難点だが、今年もまた「成人」が増える。ひとが「生きる」ことについて、焦点を当てた議論が、適切に行われるようであってほしいと願う。



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