【メッセージ】新生のゆえに

2024年1月7日

(エゼキエル33:1-9, エフェソ4:17-24)

人の子よ、私はあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたは私の口から言葉を聞き、私の警告を彼らに伝えなければならない。(エゼキエル33:7)
 
◆恩義
 
中学校で、生徒会役員を務めたことがありました。文化祭で、役員で劇をすることになりました。木下順二の『夕鶴』です。文学好きな先輩の発案だったと思います。私は知らなかったのですが、「つるのおんがえし」の芸術版だということを知って、それならできるかも、と思いました。私は村の子ども役。
 
じやんにきせる ふとぬうの
ばやんにきせる ふとぬうの
ちんからかんから とんとんとん
 
まだ覚えています。戯曲も何度も読みました。もちろんその先輩は「つう」の役でした。迫真の演技は好評を博しました。
 
「つるのおんがえし」の物語のご紹介は遠慮します。命を助けられた鶴が、女房となって男を助ける物語です。「鶴女房」とも言われます。
 
このように、動物が助けられた恩義を果たし、人間に恩返しをする、というのは、昔話のひとつのパターンのようで、いろいろな動物の例があります。タヌキやカメや、ネズミやコイなど、実に沢山の動物が、人間に恩返しをしています。人間は、よほど動物たちに善いことをしたと思っていたようです。あるいは逆に、動物たちを虐げていたことの裏返しであるのかもしれません。
 
ところで「犬は三日の恩を三年忘れず、猫は三年の恩を三日で忘れる」などという言葉があるのだとか。私は猫派ですが、猫はちゃんと人を見分ける力をもっていますから、少々不満です。でも、律儀に恩を返すということは、確かにしないかもしれない、という気がします。
 
逆に、猫の立場からすると、「恩に着せる」ようなことはしないよ、というふうに、逆の言い方を提案するかもしれません。
 
◆善行
 
教会が教えていることの根本は、イエス・キリストが人を救う、ということです。これを信じた人が毎週教会に集まります。しかし、それに対して「恩返し」をするべきだ、というように考える信徒はいないと思います。聖書もそのようには告げていません。
 
神と人とでは、桁が違うのです。否、桁どころの話ではありません。そもそも無限と有限とでは、比較の対象にはならないのです。神からは価なしに何もかも与えられます。これを「恵み」と言います。人が何かをしたからではなく、神は無償で救いの命を与えるというのです。
 
ですから、「救い」において、「人が何か善いことをしたから救われる」という方向性は完全に否定されます。そうではなくて、「神から救われたから、人は善いことをする」という方向性が、クリスチャンの生き方である、ということになります。ある意味で、今日のこのメッセージの要点の一つは、このことです。これをどうかよく心に押さえておいてください。
 
ただ、クリスチャンという言葉からは、何か善いことを行う、というイメージが社会にはあるかもしれません。しかし、二千年前の世の中では、クリスチャンは狂った異常者と見られていましたし、日本では江戸時代には「切死丹」「鬼理死丹」などとさえ書かれ、社会を揺るがす大罪人として処刑されました。
 
「耶蘇」と罵られ石を投げていた人々が、太平洋戦争後、手のひらを返したようにアメリカ文化を受け容れ、キリスト教ブームすら起こります。一時的なそのブームが去った後も、なんとなくクリスチャンは、「敬虔なクリスチャン」というイメージがずっと残っているように見えます。これは、どうにもキリスト者にはプレッシャーです。
 
「敬虔なクリスチャン」と言われたときには、「とんでもない」と返すのが礼儀であるようですが、さて、それが謙遜ということなのかどうか、一考の余地はあると言えるでしょう。「はい」と威張っているのは高慢だ、ということで否定するのが社交儀礼なのでしょうが、そのように呼ばれるに相応しい自分になりたい、という気持ちをもつことも、必要ではないかと思うことがあります。
 
◆罪と恵み
 
その「クリスチャン」とは、イエス・キリストに救われたことを信じる人々のことです。救われるというプロセスは、自分が罪人であることを、痛感することから始まります。先ず自分の罪を神の前に知ることが、どうしても必要です。
 
だから、罪というのは救いのために大切だ、というところにだけ目を留めると、とんでもない勘違いが起こることを、パウロは見聞きしていたようです。ローマの信徒への手紙において、有名な議論を展開しています。
 
パウロは、律法の意義について触れ、それは罪を知るためだった、というようなことを言います。但し、罪を深く知ることによって、恵みも分かってくるのです。私たちが自分には罪があるということが心底分かると、神の救いを体験します。ああ、恵みなのだ、と分かります。それは、イエス・キリストによる救いです。その救いは、私たちに永遠の命をもたらすのです(ローマ5:20-21)。
 
こうなると、もはや私たちは罪に支配されることがなく、神の恵みの中に浸っているはずです。ところが、中にはそのことの意味が分からない人がいます。屁理屈を言うのです。恵みがあるから、罪を犯したほうがよいのだ、などと論理遊びを始めるのです。罪があるほうが恵まれ、救われるのだから、さあ、罪を犯そう、ということになります。
 
ルターが、「大胆に罪を犯せ」と言ったのだとか。キリスト者がちまちまと縮こまっている必要はない、と知らせるために、それこそ大胆なものの言い方をしたのでしょう。しかしひとつ間違えると、これも奇妙な言い分に利用される可能性があります。それはパウロの論法からヒントを得たのかもしれません。
 
もちろん、パウロも、そんな屁理屈は通らない、と一蹴します。それは罪の奴隷になることだ、罪に支配されてしまう道となる、と言うのです。救われてキリストの道に導かれたあなたがたは、確かにかつては罪の支配の中にいたが、キリストの言葉、使徒たちの言葉に聞き従うことによって、その罪の言いなりになることは、もうありません。神の恵みに生きることで、罪からの解放を得ることができるのです(ローマ6:14-18)。
 
ここも実に含蓄深いテクストであるのですが、今日はそれを取り上げようとはしておりません。罪と恵みとのメカニズムを、これ以上いま検討することは避けることにします。その代わり、もう少し具体的に、生き方についての知恵を与えられようと求めてみます。
 
◆不安
 
私には経験があります。聖書の言葉に打ちのめされ、神の前に引きずり出されたとき、教会に行きたい、という願いが起こされました。けれども、ブレーキがかかったのです。一度教会の門を潜ったら、もう二度とこの世界に戻れないのではないか、という不安に襲われたのです。それは、家族の反対などの心配ではありませんでした。
 
しかし、キリスト者になったら、「清く正しく」生きなければならないはずだ。聖書はそれなりに読んでいましたから、そうしたことが書かれてあるのはよく分かっていました。自分にはそんなふうにはできない、という思いもありましたが、言うなれば「悪いこと」ができない、ということを、窮屈で不自由なように思えて仕方がなかったのです。
 
あれもできない、これもできない。クリスチャンの生き方は、イメージからすると、ずいぶんと厳しい生き方のように見えていたのです。
 
結局、大胆に一歩を踏み出すことになりますが、それが人生の岐路であったことは間違いありません。但し、心配した不自由や束縛ではなく、むしろ自由と解放であったということが、後に振り返るとよく分かります。
 
さらに、私のように、クリスチャンになったら不自由になる、と心配する人が、私だけではないことも、後に知りました。いろいろな人の救いの証しの中にも、そうしたことが出てくることがあるのを見聞きしたのです。私だけではないのだ、と知って、少し安心しました。
 
それでもともかく、信仰生活に入るには、何か相当な覚悟が必要になるように思われます。ただ抽象的に「信じる」ことは、それなりにできるのだとしても、実生活の中で、クリスチャンの生活というのが、狭い縛りのようなものではないか、という不安が人には起こるようです。
 
教会に住み慣れた人は、臆病なこういう人の心理を分かってあげられなくなってきます。気軽に誘う言葉が、かなりの重荷になるということを、察して戴けないか、と思います。人によっては、教会堂に入るということだけで、結構な覚悟が必要になることがあるのです。
 
◆変化
 
さて、決死の覚悟で教会に足を踏み入れたとします。そこから、「信じる」ということへの、目に見えない壁を乗り越える旅が始まります。そのとき、礼拝説教を真剣に聴くことになるのですが、その中で私が少しばかり気になる言葉が出てくることがあります。「キリストに学ぶ」とか「聖書に学ぶ」とかいう表現です。
 
「学ぶ」は、元々「真似る」に由来する、という説明があります。お手本を模倣することに、最初の「学ぶ」意義を見いだすのは、故無きことではありません。ただ、「聖書から学ぶ」のように言われたとき、それは決して「真似る」のことではないはずです。「キリストに学ぶ」でも、キリストの真似をしましょう、の意味では使っていません。キリストの真似をする云々というのは、かなり信仰に熱の入った状態で言うのなら分かりますが、初めて教会に来た人に向ける言葉ではありません。従って「キリストに学ぶ」という表現は、私には、「聖書のお勉強をしましょう」にしか聞こえないのです。
 
説教は、聖書の授業ではありません。説教者が調べたことの研究発表でもないし、それよりもレベルが下がるものとしての、聖書講演会でもありません。決してそこは、「お勉強」の場ではないのです。「聖書には〜とあります。これは〜という意味です」の繰り返しで時間を稼ぎ、最後に「私たちも〜しましょう」で結べば説教だとでも思っている人の話を聞いたことがあります。毎週その調子です。時に政治の悪口でも入れておけば、共感も得られるようです。
 
こういう話に慣れてしまうと、明らかに栄養失調になります。ちゃんと生活できています、と自分では思っていますが、体は内部から蝕まれていきます。その意味では、説教を語り受け取るということの内には、いくらかの神秘的な体験が必要なのだ、とつくづく思います。「神秘的」というのは、超常現象を経験することを意味するのではありません。腕組みして理屈を聞いてなるほどそうだ、と肯くだけでは済まない、ということです。
 
聖書の言葉、馴染みのない方に対しても私はそれを敢えて「神の言葉」と言いますが、神の言葉が私の外から響いてきて、私の中の何かが激しく突き動かされます。それは、ただの感動ではありません。私自身が変わるのです。自分が変わる何かを感じるのです。そして実際、そこから私の考え方が変わります。私から見える世界が変わります。
 
長子が産まれたときの朝の風景を、私は忘れることがありません。自分が人生で初めて、父親となった日です。朝方産まれたので、見届けて帰る道は、出勤する人の波に逆らうように歩くのでしたが、見上げた青空が、これまで見たどの空とも違うことを覚えました。冷たい風が、嗅いだことのない香りを放っていました。見える世界が、変わりました。
 
尤も、母親というものは、それまで半年余り、自分の中にいる子と共に生きてきましたから、産まれた日のことを特別には思わないのだそうです。父親とは、単純なものです。
 
◆新生
 
信仰には、ふむふむと理解する「お勉強」ではない、何かが必要だ、という指摘をしました。では、どうすればそれが体験できるのでしょうか。そのようなノウハウを求めることは、間違っていると私は思います。それは神の選びである、などという人もいます。神がイニシアチブをとっての出来事なのだから、人間の側での準備や方法があるというわけではないはずです。
 
だから、「救われるためにはどうすべきでしょうか」と尋ねる必要はありません。「人が何か善いことをしたから救われる」のではない、と最初の方でも申しました。そこで、この事態を考えるためには、すでに体験がなされたときの方から飛び込んでみるべきだろうと思います。今日お開きしたエフェソ書の4章の、その一部を取り上げます。
 
22:ですから、以前のような生き方をしていた古い人、すなわち、情欲に惑わされ堕落している人を脱ぎ捨て、
23:心の霊において新たにされ、
24:真理に基づく義と清さの内に、神にかたどって造られた新しい人を着なさい。
 
これは、救われるためにこれこれをしなさい、という文脈ではありません。すでにイエス・キリストを信じている人に対する書簡です。その人に対して、このように命令口調で述べているということは、救いの条件を挙げているのではなくて、すでに信じた人へのアドバイスです。あなたたちにはこれができるのだよ、という前提で話す、単なる指示のようなものです。基礎を教えた教師が、生徒に、ではこれをやってごらん、と練習問題を示すようなものなのです。
 
古い自分を脱ぎ捨てよ。そして、新しい人を着よ。要約すれば、こういうことになるでしょう。かつての生き方を捨てて、新しい生き方をしなさい、という忠告です。私が、元の生き方ができなくなるのではないか、と恐れていた話をしましたが、そのような恐れがあること自体が、まだ救いを得ていない証拠のようなものなのでしょう。救いの確信があるならば、もうこれができるはず、練習問題だよ、と渡されたのが、この「古い自分を捨てて、新しい生き方をしなさい」ということだったのです。分かりました、先生、と素直に生徒が問題に挑むように、キリストの名の故に救いを受けた者は、ただ「はい」と言って、やってみることができるはずなのです。
 
新しい人を着る、ということは、「キリストを着る」というようにも言い換えられます。
 
キリストにあずかる洗礼(バプテスマ)を受けたあなたがたは皆、キリストを着たのです。(ガラテヤ3:27)
 
キリスト者が、新しい命に生きるということは、キリストを着る、ということでもあるわけです。つまり、そのときすでに、古い自分は死んでいるということになります。それは、同じガラテヤ書に書かれていることです。
 
私は神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の真実によるものです。(ガラテヤ2:19-20)
 
◆警告
 
さて、これまでお伝えしたことは、聖書のもたらす命の福音であると私は信じています。もっと追究しなければならない話題です。救いの根幹として、いくら強調してもしすぎることのないメッセージである、と私は理解しています。
 
しかし、その根幹を前提として、この2024年、ひとつの新たな扉をいまから開こうと思います。救いを与えられた。古い自分に死に、新たな命を与えられた。キリストが共にいる。では、それから今年、私たちは何をしましょうか。救われたという「状態」から、どんな「行動」を実現していくことが望ましいのでしょうか。新しい年です。新たなチャレンジを与えられたいではありませんか。
 
旧約聖書から、エゼキエル書33章をお読み致しました。
 
エゼキエルは、バビロン捕囚に関わった預言者の一人です。エレミヤは正に捕囚されるその事件の中にいましたが、エゼキエルの使命はむしろ、捕囚の憂き目に遭い、バビロンで精神的に惨めな生活をしていたイスラエルの民に、希望をもたらすことでした。この33章は、エゼキエル書のターニングポイントだとも見られています。裁きから、回復へと移るその橋渡しをしているように見えるからです。
 
その初めのところが特に有名です。ここは、預言者としてのエゼキエルの務めが強い自覚と共に描かれています。もちろん、神のお告げにより、それは語られます。
 
一人の見張りが選ばれます。エゼキエルのことです。この見張りというのは、敵が来襲したことをいち早く発見し、民に警告を鳴らす役割を担っています。ここに、非常に明晰な議論が展開します。
 
見張りが職務通り、警告を発したとします。これに対する人々の反応には2種類あります。この警告を聞いて戦いに備えるのがひとつ。これは規定のシナリオです。もうひとつは、警告を聞いても反応しない人の場合です。警告に従わない故に、その人は敵に殺されることでしょう。しかし、敵に殺されたのは、自分が警告に従わなかったせいです。いわば自業自得です。あまり響きのよくない意味がついてまわることになった言葉としては、「自己責任」ということです。
 
では、見張りが警告を発しなかったとしたら、どうなるでしょうか。今度は、人々が対応することはできなくなるでしょう。悲惨な事態となります。そこで、神の示唆には厳しいものがあります。
 
6:しかし、見張りが剣の臨むのを見ても角笛を吹き鳴らさず、民が警告を受けないで、剣が臨み、民のうちの一人の命が討ち取られるなら、見張りは自分の過ちのために討ち取られ、私はその血の責任を見張りに求める。
 
お気づきでしょうか。「民のうちの一人の命」が問題なのです。たった一人でも死者が出たら、警告を発しなかったその見張りの責任だ、と神は突きつけるのです。
 
だから、預言者は語らなければなりません。些細なことでも、神から示されたならば、黙って隠しているわけにはゆきません。黙っていた故に、そのせいで誰かの魂が滅びたならば、その一人のために、預言者が責めを負うことになるからです。
 
私たちが、その預言者であるかどうか、それは当人が決めることではないかもしれません。しかし旧約の預言者は、しばしば神が突如として召し上げて預言者として使命します。神が選ぶということが多々あります。あなた自身に対して、神が選んでいない、という決めつけはできないのです。
 
あなたは、新しいこの年に、新しい命に生きています。あなたは、キリストを着て、命を受けました。それはただ、自分のものにして満足するためだったのでしょうか。それを問いたいと思います。
 
最初に「恩義」についてお話ししました。キリストに恩義を覚える、というのは確かにおかしなことです。神には、いくらお返しをしようにも、できるものではないからです。神はただ一方的に、人に命を与えたいと願っているかのようです。私もそれを戴きました。新しい人生を始めました。キリストと共に十字架につけられる体験をし、キリストと共に復活する幻を見ました。
 
これを自分だけのものにして土の中に隠しておくようなことをすべきではない、と聖書は迫ります。身近な人の命が、失われないように、語るべきことはないでしょうか。あなたとつながりのある人のために、警告することがないでしょうか。自分だけは安全だというふうに考えるのではなく、警告なしに失われた命については、語らなかった者の命が奪われねばならない、という厳しい言葉がありました。これを真摯に受け止めたいと願います。
 
それは、生かされた者に任された、大切な務めなのです。



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