教会献金のはなし

2024年1月2日

京都の教会は、私が洗礼を受けた頃、献金は記名式だった。つまり、自分の名前を書いた献金袋に額を記入し、献金することになる。礼拝の終わりのほうで献金を集めるとき、籠がまわってきたら、それに入れる。それとは別に、普通その礼拝における礼拝献金を入れるということにもなる。
 
教会では、月の収入からいくらいくらという形で献金をするものである。だから、月定献金と呼ぶその袋は、月の最初の礼拝で籠に入れる、ということが多い。もちろん、ひとにより様々ではあった。
 
教会の会計係には、誰がいくら献金したか、が見える。信用の置ける人が担当するので、そこはまず信用してよい。世間ではごく稀に、事件を起こした人もいるが、極めて例外的である。しかし、人に見られている、というのは、心理的に抵抗がある場合があるかもしれない。
 
そこで、というわけではないかもしれないが、あるとき方針が変更された。無記名で、自由に献金箱に入れる、という形になったのである。
 
たとえば記名式であると、収入がかなりあるのに献金がひどく少ない、といったことも明らかになるし、毎月の額がそう大きく変わらないのが普通であろう。もし無記名にすると、いわばいくら少なく入れても誰にも分からないわけである。人間社会の理屈で考えると、教会への献金総額は低くなる可能性がある、ということになる。
 
さて、方式が変更されてから、どうなったか。そう、お察しの通り、献金額は増えたのである。
 
むしろ、神だけがご存じだ、という形で、人には知られないようにすると、右手のすることを左手にも知らせない、というわけではないだろうが、むしろそれまで以上に献金をしよう、という心理が働くのが、どうやらキリスト者というものらしい。
 
否、それを心理学的に説明するつもりは、私にはない。人々に募ったら神の前に喜んで献金をした、という記事が旧約聖書にも新約聖書にも見られるが、やはりそこが信仰というものであるようだ。
 
人が多かった時期に、経費のかかるものを導入し、そのメンテナンスもなんとかなるだろうと構えた教会があろうかと思う。しかし、その後礼拝出席者が、あるいは教会員が減っていく一方となって、今度は教会の資産を売却しなければ維持できなくなる事態に直面しているかもしれない。
 
そういうとき、役員会で話し合うことが、毎回その教会の予算のことばかりになってしまっていたら、どうだろう。議事録を見直してみるとよい。どこを見ても、カネ・カネ・カネ、ということになっていないだろうか。その他、お決まりの教会行事をどうするか、という話し合いはなされていたとしても、救霊(神を信じる人のために活動すること)の話題が、何か月も少しも出てこない、ということはないだろうか。
 
もしそういうことがあれば、教会というものが、ただの社会組織になっている証拠となるだろう。
 
するとその原因が話し合われる。少子高齢化のせいにするのは簡単だが、恐らくそうではない、ということに気づかず、社会のせいにしているならば、それはもうなるべくしてなった、と言わざるを得ないだろう。
 
世の組織と同じならば、いっそそれに徹底して、原因を考えるとよい。無価値なものに多額の費用を用いていないだろうか。もちろん、この場合は、キリストの教会のために価値があるかどうか、という信仰的な意味である。世の価値のことではない。



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