【メッセージ】神の国の門

2023年12月31日

(マタイ16:15-19, 創世記28:10-17)

私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上で結ぶことは、天でも結ばれ、地上で解くことは、天でも解かれる。(マタイ16:19)
 
◆天国に行くのか
 
日本人の「あるある」かもしれませんが、疲れたときに気持ちよく風呂に浸かると、「あー、極楽、極楽」と口から出てくることがあります。はて、キリスト者も言うのでしょうか。この「極楽」は、仏教の言葉でしょう。もちろん、仏教も宗派が沢山あるので、そういう語を使わないところもあると思われます。むしろ、極楽とは阿弥陀仏の浄土のこと、という説明もあります。これを「西方浄土」ともいうわけですが、それこそ正に「極楽浄土」と呼ぶものだ、などとも言うようです。
 
仏教だから、と一括りにして何もかも決めつけるのは失礼です。キリスト教にしても、一口に決めつけられると嫌だろうと思います。だとしても、釈迦がそういうことを説いたのかどうか、詳しい方に尋ねてみたい気もします。
 
もちろん、私は門外漢です。勝手なことを言っているわけであって、どうか知識のある方やその道の本に、お尋ねくださいますように。「死んでから行くところ」と言ってよいのかどうか、それさえも私はよく分かりません。死後の世界を語らないのが、元来の仏教であったような気もします。そういう議論も、きっとあることでしょう。聖書にも似たような議論があるようですから。
 
亡くなった人について、「天国に行く」という言葉がよく使われます。いつからなのでしょうか。私の小さなころも、その表現があったように思います。調べてみても、よく分かりません。中には、百年前の文献にある、となどという人もいました。西洋からすでに聖書が入っているのですから、教会で「天国」という言い方をしていたかもしれません。
 
このように、宗教用語の由来や歴史というものは、興味深いものです。人間は、言葉によつて思考しますから、言葉の使われ方を調査することで、思考する概念がどうであったか、探る道が拓かれると思うからです。
 
人が死んだら、「天国に行く」という言葉がいつから使われた、あるいは一般に広まったのか、ご存じの方はお教えくださるとありがたく思います。ただ、それは聖書にある天国の話とどう違うか、関心はそこにあります。私たちは「天の国のことを学んだ学者」の研究を期待したいと思います。
 
◆天は神
 
一般的な語彙として、「天国」は市民権を得ているとは思います。「死んだら行くところ」というのがその理解なのでしょう。邦訳聖書には「天国」とはいま訳されていないのですが、「天の国」はあります。旧約聖書にはありません。旧約聖書続編にはひとつありますが、聖書協会共同訳では「天の王国」となりました。新約聖書には20の節に「天の国」が出てきますが、悉くマタイ伝です。
 
どうして新約聖書ではマタイ伝にしか「天の国」という言葉が出てこないのか。理由ははっきりしています。これは他の誰もが「神の国」というような言葉で表現するものですが、マタイはその中の「神」という言葉を避けたというのです。神の名をみだりに口にするべからず、という規定が、律法の根幹の十戒にあるからです。「ヤハウェ」と推定される神の名は、そう呼ぶことを禁忌として、ふりがなのようなものとして別の語を付けておいたのを、正直にそのまま呼んで「エホバ」がその名だ、と誤解していた時代もありました。
 
マタイが「神」と呼びたくないから「天」の語を用いた、というのはいまや常識のようになっています。本当にそうなのかどうか、私は判定する能力を持ちません。しかしともかく、マタイ伝に現れる「天の国」という言葉は、間違いなく「神の国」のことです。
 
日本基督教団の及川信牧師が2017年に『神の国―説教』という説教集を発刊しています。ルカ伝を連続して取り上げ、特に「神の国」というキーワードだけを取り上げるという特異な方法で、福音を語っています。確かな聖書の理解と、自分の心と突きつけながらの真摯な問いかけに心動かされます。そう、ルカ伝では「神の国」なのです。
 
英語にも、「Heaven」という使い方があります。もちろん訳語は基本的に「天」です。しかし、明らかに「神」という意味でこの語を使う場合があります。「Heaven helps those who help themselves.」の「Heaven」は「God」に置き換えて用いることもあるようです。個々でもやはり、「神」という語をあからさまに呼ばないための、ひとつの知恵であるような気がします。
 
「天」という訳語は、中国思想によるのではないかと思います。あちらでは「天」という言葉が大きな意味をもちます。「神」という訳にするかどうかで、「天帝」とずいぶん迷ったという話もあるほどです。
 
このように、洋の東西を問わず、「神」を直接呼ぶのが憚られる場合には、人は「天」という言葉で神を指し示していた模様です。
 
しかし、言葉の分析や調査は、やはり「学者」たちにお任せしておくことにしましょう。「天の国」は「神の国」と基本的に同じと捉えてよいのだ、ということだけ、確認しておきました。
 
◆天国の鍵
 
さて、いよいよ本題に近づきます。この「神の国」の「国」というのは、土地を指し示すだけではなく、むしろ神の支配権の及ぶ領域のようなものをイメージしているであろうことは、すでによく指摘されているために、皆さまご存じのことだろうと思います。あるいはまた、もっと抽象的に、「神が支配する」というありさまさえも意味している、とも言われます。マタイは、この「神の国」を「天の国」として書いただけですから、「天の国」というのは「神の支配」と読み替えてみることも、価値ある試みだと思います。
 
そうなると、本日お開きしました、有名な「天国の鍵」と呼ばれる箇所も、味わい方が変わってくるかもしれません。マタイ伝の16章です。
 
19:私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上で結ぶことは、天でも結ばれ、地上で解くことは、天でも解かれる。
 
これは、イエスがペトロに向けて言った言葉とされています。イエスはペトロに、「天の国の鍵を授ける」と言いました。これは、カトリック教会にとり、大きな基盤となりました。カトリック教会は、最初の教会の伝統を受け継ぐものとして、いまもなお世界中に拡がる組織です。代々の教皇を掲げていますが、その初代教皇を、このペトロだとしています。カトリック教会の初代教皇が、「天の国の鍵」をイエスから与えられた。従って、いまもなおカトリック教会は、この「天の国の鍵」を守り伝えている、という誇りと使命をもっていると思うのです。
 
この場面では、ペトロがイエスのことを、正鵠を射るように、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告げたところでした。イエスが、弟子たちにまず尋ねます。「人々は、人の子を何者だと言っているか」(13)、と。口々に弟子たちは、ヨハネだとかエリヤ、エレミヤなどの名を出しますが、ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」(16)と答えたために、「天の国の鍵」を授けたのでした。

「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」(15)と、改めてイエスは尋ねています。不思議です。そもそも弟子たちに尋ねたとして、ヨハネやエリヤなどの名が出てきたはずなのに、「それでは、あなたがたは」と問い直しているのです。イエスが恐らく中心的な使徒たちの方を向き直ってそう問うたように思われますが、それでも不自然な展開です。私はこれを、読者たる私に向けてイエスが尋ねた構図を感じるべきだ、と理解します。そして、読者はこのペトロのように答えるに違いない、答えなければならない、という意図をもたせていると考えます。
 
だから、それは人間の思いから言ったのではなく、神がそのことを教えたのだ、というようなことにも触れた上で、そして、ペトロという岩の上に教会を建てること、そしてそこに「天の国の鍵」を授けること、を話したのだと多くの人々が考えているように思います。
 
こうして、教会の権威が定められたというように見られています。が、この「天の国の鍵」を授けた場面で、気にかかる言葉がありました。
 
◆結ぶ・解く
 
19:私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上で結ぶことは、天でも結ばれ、地上で解くことは、天でも解かれる。
 
この「結ぶ」と「解く」というのは、何のことなのでしょうか。偉い先生が、きっと理由をよくご存じなのだろうと思います。私は勝手に読んでいるので、聖書学からすると間違いかもしれませんが、私に与えられた光の中で読んでみます。神学的に正しいとはお考えにならず、自由な気持ちでお聞きください。
 
旧約・新約という名前の「約」は、ご存じのとおり「契約」のことです。契約を「結ぶ」ということは、旧約では特に神との間で大切なことです。新約の方では、実を「結ぶ」ことが祝福となり、あるいはカトリック的ではありますが、キリストに「結ばれる」という訳が、新共同訳では必要以上に使われていました。よいイメージがある言葉です。
 
しかし、私はこの「結ぶ」が、同時に「縛る」というニュアンスももっていることを重く見ようと思いました。「つなぐ」という読み方で、文語訳は「凡そ汝が地にて縛ぐ所は天にても縛ぎ」と訳しています。そして、後に知ったのですが、前田護郎訳は「あなたが地で縛ることは天でも縛られ」と特色のある訳出をしていました。
 
「縛る」となると、穏やかではありません。それは私には悪いイメージです。私たちが縛られるのは、罪に縛られる場面がまず浮かびます。日本人なら、世の柵に縛られるなどと思うかもしれませんが、聖書からすれば、罪に縛られ、自由を失うことを思い浮かべます。それは「絆し」です。家畜を杭に繋ぎとめるための紐です。人は、罪に縛られていて、自由ではない、という人間観がそこにあります。
 
反対に「解く」のほうはどうでしょう。これは「解放」に直結する言葉ですから、自由になることを私は考えます。罪の束縛から解放されて、自由の身になるのです。そしてこのことを訳の上ではっきり示していたのが、先ほどの前田護郎訳でした。「あなたが地で縛ることは天でも縛られ、あなたが地でゆるすことは天でもゆるされよう」と、唯一人、思い切った訳を示していたのです。この人は、私が思っていた意味を、訳語の上でも強く打ち出したというふうにも言えると思います。
 
ペトロなり弟子なりが、地上で、神にある意味で成り代わり、罪を見定める必要があり、また罪から解放されることの喜びを伝える役割を担っている、そのように私は捉えてみたいと考えています。特にマタイならば、教会がようやく形になり、イエスの直接の弟子ではないにしろ、キリストの弟子と称する教会員が、イエスの権威を掲げて福音を伝道しなければならない、と考えていたことでしょう。そのため、教会や弟子のことを、マタイは悪く書きません。マルコは、弟子たちを無理解でイエスをがっかりさせるような存在として描き続けていますが、マタイは、尊敬すべき偉大な弟子たちを示そうと努めているように見えます。
 
この場面の直前のことを、少し知る必要があります。ペトロが、イエスこそメシアである、と口に出して褒められたことが書かれてあるのです。イエスは、それを神がそのように言わせたのだ、と言いながらも、ペトロがその名が示すように「岩」であって、これからの教会の礎になるのだ、と評価します。そのために、天の国の鍵を授ける、というように流れてくるのです。
 
天の国の鍵を授ける。あなたが結ぶ・解く、と続いたのでした。が、この後すぐに、イエスは弟子たちに箝口令を敷きます。メシアであるということを決して口外しないように、と強く命じたのです。それは伝道の妨げとなるのでしょうか。あるいは、それは当局からイエスを狙わせる口実になるため、刺激しないように、ということなのでしょうか。皆さんもいろいろお考えください。
 
◆門
 
さらに次の記事では、ショッキングな出来事があります。ペトロが散々に叱責されるのです。そのときイエスは、自分がエルサレムで殺され、それから復活する、とはっきりと弟子たちに打ち明けていました。するとペトロが、殺されるなどと聞いて黙ってはいられないらしく、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」などと、イエスを諫めることまでします。
 
これに対して、イエスはペトロを振り向いて過激な叱り方をします。「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者だ」(23)と言うのです。いくらなんでも、弟子のトップをサタン呼ばわりするとは、よほどのことだったのでしょう。尤も、ペトロがサタンである、とイエスは言ったわけではないと思います。まさにペトロに作用していたであろう、陰のサタンに神の権威で立ち向かった、と理解しておくというように、ペトロの名誉回復をしておきましょう。マタイにしても、そのようなつもりで描いたのではないかと推測します。
 
それからイエスは、弟子たち皆に告げます。「私に付いて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」(24)と。このように見てくると、この場面はかなり大きな出来事が詰まっていると言えます。イエスがメシアであることがはっきりし、教会を建てることが千軒され、天の国の鍵まで与えられます。そして死と復活が予告され、自分の十字架を負って従えと誘います。
 
このマタイ16章は、事ある毎に、読み直したいものです。読むと新たなことに気づかせてくれるような気がするからです。ペトロにしてみれば、サタンと呼ばれたときはずいぶんショックだったことでしょうが、つい先般、「天の国の鍵」を授けるなどと信頼されたところなのに、「邪魔をする者」とまで厳しく言われました。
 
もう少し焦点を絞りましょう。ペトロが教会の礎となったような言い方があったとき、カトリックかどうか分かりませんが、とにかく教会がここに成り立つということが宣言されました。教会の権威がそこに保証されたようにも読めます。その教会は、「陰府の門もこれに打ち勝つことはない」(18)と付け加えられていました。
 
唐突ですが、その「門」の描写が、イザヤ書にあることをお知らせします。
 
病気であったユダの王ヒゼキヤが、その病気から回復して記したもの。
私は言った。
人生の半ばで私は行かなければならない。
陰府の門に、残りの年月を引き渡して。(イザヤ38:9-10)
 
ヒゼキヤ王は、預言者イザヤに願って、重病を一旦癒やしてもらいます。病気は神に見放された出来事と感じたのでしょう、このままでは「陰府の門」に直行する、と怯えています。
 
彼らの喉はどの食べ物も忌み嫌い
彼らは死の門に近づいた。(詩編107:18)
 
イスラエルを苦しめる敵のことを呪っています。彼らは滅亡するのだ、と信仰の中で吠えて居ますが、ここにも「死の門」という描写があります。
 
入口として、「門」は強いイメージを与える言葉です。城壁都市に入るには、門を通らねばなりませんでした。門番がいて、勝手には入れません。夜は閉ざされます。門は町の入口として機能し、そこにある広場では、商業や裁判などが公的に行われていました。同じマタイ伝に、「狭い門」のことが言われていたのを思い出す人もいるでしょう。
 
ならば、天の国に入るにも、「門」があるのではないでしょうか。黙示録によると、終末に天の都エルサレムが現れるとき、そこには12の門があるのだそうです。天の国の鍵には、その天の国の門の開閉が想像されていたのかもしれません。
 
もちろん、私の中では、「結ぶ」または「縛る」は、門が閉ざされることです。「解く」とは、門が開かれ、そこに入ることが許されることです。
 
そう言えば、イエスが、自分は門である、と言っていたことがありました。
 
私は門である。私を通って入る者は救われ、また出入りして牧草を見つける。(ヨハネ10:9)
 
◆天の門
 
さて、今度は聖書の舞台を、創世記に置きます。あのやんちゃなヤコブの物語です。実はヤコブが、「ここは天の門だ」と言い放つ場面があるのです。そこで、ここで取り上げることとしました。
 
ヤコブには、双子の兄エサウがいました。ヤコブは狡猾でしたが、さらに母ラケルはこのヤコブを溺愛しました。本来なら、兄が家督を相続するべきところでした。しかしラケルが入れ知恵をして、父イサクの晩年に、相続の祝福を、エサウでなくヤコブに全部受けさせてしまうのです。怒り狂ったエサウは、ヤコブを殺そうと狙います。ラケルは、自分の故郷にヤコブを逃がすことを決め、危機一髪で家を逃れます。その途中での出来事が、この場面でした。すでに、創世記28章をお開きしました。
 
ヤコブは孤独でした。せっかく父の祝福を受けたにも拘わらず、現実には命からがらの逃亡生活です。見捨てられた悲しみと孤独感の中で、夜に寝るとき、石を枕にしました。すると、夢だったようですが、天への階段が見えました。あるいは昔は「梯子」と訳されていましたから、「ヤコブの梯子」として有名になりました。雲間から射す光が筋状になって美しい光景を放つことがありますが、それのことです。
 
天への階段を、「神の使いたちが昇り降りして」いるのが見えました。そこへ声をかけたのは主ご自身だとヤコブは思いました。主は、ヤコブの神であることを名乗り、この土地を子孫に与えること約祖します。ヤコブの子孫は世界に拡がり、全人類が祝福を受ける、とまで言われます。また、主がヤコブと共にいることを告げ、ヤコブを守ること、この土地に連れ戻すことを告げます。そして「私はあなたに約束したことを果たすまで、決してあなたを見捨てない」(15)とまで言いますから、これは最高級の祝福です。
 
ヤコブは眠りから覚めたと言いますから、これは夢だったのでしょう。私はなんだか、夢か現か知れないと思うのですが、ヤコブは意識が戻ってから、「本当に、主がこの場所におられるのに、私はそれを知らなかった」(16)と驚きを示します。それから、ヤコブは怖くなった、とされていますが、恐怖というよりも、神への畏れのようなものを私は感じてなりません。偉大な創造主の声を聞いたのです。神の前にひれ伏すような思いに満たされたのではないでしょうか。そしてヤコブは感嘆を漏らします。
 
17:「この場所はなんと恐ろしい所だろう。ここはまさに神の家ではないか。ここは天の門だ。」
 
この「神の家」と訳されたのは、後にこの土地に付けられた名前「ベテル」のことです。このように旧約聖書には、土地の名を、旧約の物語によって付けられた、とする曰く話が多々あります。ベテルは、旧約聖書の様々な事件の舞台になります。
 
また、ヤコブはこの神の家を「天の門」だと言いました。ヤコブは、神に出会いました。それは、光の階段でしたが、そこには天の門がある、と感じました。天とは神のことでもありますから神と通じる門があるのだ、と知ったに違いありません。ヤコブはこのような幻を与えられました。
 
不安と情けなさに満ちた中で、ヤコブは、神から祝福を約束されました。それは、ヤコブ自らが神に求めたというのではなく、神からの介入によって、助けが与えられたということです。ヤコブは神とこうして出会い、この後、ヤコブは変わります。ずる賢さが、誠実な努力に基づく知恵へと変化していきます。これまでのヤコブがまるで死んだかのようです。そういえば、ここでヤコブが石を枕にしましたが、これは本来、死者を葬るときにそうした、という人がいます。それなら益々、古いヤコブはこのときに死に、新しいヤコブが生まれたことになります。
 
ヤコブは天の門を見て、地上だけではなく、上を見たことになります。つまり、天を見上げることを知ったのです。そこに天があります。神とのつながりが与えられます。人間が造り替えられます。聖書の登場人物の体験は、実は私たち現代人でも、自分の体験として知ることができます。そうした証しが、たくさんあります。私には、それらの証しの真実であることが分かります。私も、そうだったからです。
 
◆あなたの鍵と門
 
ヤコブは確かに、神との直接的な出会いによって、天の門を見ました。それは現代人でも、信仰者には分かることがある、と申しました。しかし、それはどうしても必要なのでしょうか。ヤコブのように神の声を聞かなければならないのだ、とすると、少し窮屈な気がします。それよりもむしろ、ペトロが「天の国の鍵」を与えられた、ということを重んじて、そこに信仰の縁を見るとしたほうが、聖書の世界に近づきやすくはないでしょうか。
 
旧約と新約。イエスは、旧約の律法規定や、人々の生活や精神を支配していたある種の思い込みから、人々が解放される道を伝えたように見受けられます。但しそれは、旧約の律法を否定することではありませんでした。それよりも、律法に対する人々の固まった思いを乗りこえるものであり、神が与えた律法の真意に沿った形で、それを完成するものでした。キリスト教は、そういう理解をしています。ペトロが「天の国の鍵」を手にしたことは、イエスが拓いた、なにか新しい救いの道に導くものであるのかもしれません。
 
けれども、そもそも果たしてペトロ一人がその鍵を握る、としてよいのでしょうか。いや、たからそれはペトロが初代教皇となったが故に、カトリック教会に委ねられたのだ、とする考え方も尤もです。カトリックに限らず、教会というものが受け継いだのだ、と理解するのもあり得るでしょう。
 
しかし、それでは今以て「教会」という組織が、「天の国の鍵」をもつ特権を有する、として、それでよいのでしょうか。その「教会」とは建物ではなく、キリストを信じてキリストに連なる人々の集まりをも意味する、という理解に立つならば、もしかすると、「天の国の鍵」は、キリストを信ずる者、キリスト者にも与えられている、としてはいけないでしょうか。
 
ペトロは一人の代表に過ぎません。イエスは「私はあなたに」と言って、「天の国の鍵」を授けました。「あなた」は、もうペトロだけに限られてしまうのですか。読者が、自分への使命だとして、それを受けてはならないでしょうか。もちろん、そうしろ、と言っているのではありません。それをしてはならないのでしょうか、と問うているだけです。
 
確かに、イエスがすべてのキリスト者に、救いへの鍵を委任した、と言ってしまうのは、言い過ぎかもしれません。でも、信仰により、私がそれを受けたとするのはどうでしょうか。私はひとを裁くことはできません。しかし、ひとに助言をすることはできると思うのです。神はこう思っておられないか、と人と相談してはならない、ということはないと思うのです。あなたはそのままでは罪に縛られたままですよ、罪から解放される道がありますよ、イエスを見てください――そのように声をかけることはできると思うのです。
 
ヤコブのように、個人的に直接神と出会うのもよいものです。しかし、キリストにある者がこの世で出会う様々な人に対して、とくに自分の罪を知りその罪を嘆き、そのことで苦しむ人に対して、その罪にもう縛られなくてよい、というニュースを運ぶことは、きっとできると思うのです。罪への固着から解放されるように、イエス・キリストという鍵を用いることは、できると思うのです。
 
この地上で、あなたもまた、信じるならば、そのように天の国に人を結ぶことも、解くこともできるのです。あなたが、隣人に語る一言には、もっと重みが加わるのです。言葉は軽んじることができません。その言葉が、「天の国の鍵」となっているかもしれないからです。かといって、これは言ってよい言葉であるかどうか、などと過剰に思い悩む必要はないと思います。語るべき言葉は、必要なときに必要に応じて、その都度与えられるものだ、とイエスが教えていたことを思い起こします。
 
あなたもまた、「天の国の鍵」が託されているかもしれません。あなた自身が、誰かが神の国に入るための門となるかもしれません。あなたはそこにいるだけで、その使命を受け、果たすことになるかもしれません。そんなことがあったかどうか、年の瀬ならずとも、少しばかり振り返ってみましょう。あなたにしかできない、何かが、そこにあったことに気づくでしょう。気づかなかったことに気づかせてもらえることは、大きな恵みです。私たちは、昨日も今日も、その恵に取り囲まれています。



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