倒し、立ち上がらせる福音

2023年12月31日

大晦日だろうが元日だろうが、主の日は主の日である。長時間労働だとか2日連続では説教ができないとか、ビジネスライクで主日礼拝を設定する教会もあるらしい。12月25日にはもうクリスマス・ツリーを片付けている、などと聞くと、やりきれなくなる。
 
しかし、クリスマス期間は、まだ始まったばかりである。待降節が終わったから、次は松飾り、などという「教会」のないことを願うばかりである。
 
歳晩礼拝は、2023年はまさに主日礼拝となった。一年を、少しばかり振り返るのもよいだろう。時代の空気を、どのように吸っているか。毎年、何かおかしい、とは感じつつも、実のところ毎回身辺がそれなりに平穏であると、まあいつもそうなのだろう、とぬるま湯気分で自分を許すことにもなる。だが、世の中は一気に変わることがある。多数決が正義であるからには、社会が一変する可能性を常に警戒していなければなるまい。その兆候や可能性については、私も度々触れて言葉を発している。
 
この礼拝で取り上げられた聖書は、詩編とルカ伝であった。ルカ伝は、イエス誕生の後の、シメオンとアンナの箇所である。ルカは、多くの「賛歌」を特にこのイエス降誕の記事に関して掲載している。シメオンの場合も、概ね「賛歌」だと理解されているが、祈りと言えば祈りである。
 
「歌う」ということの意義を、改めて考えさせられる。絵画と比較すると、音楽は時間的な芸術と見られるし、より感情に響くものがあると言われる。教会の礼拝プログラムには、賛美という形で音楽が鏤められている。それはただの歌ではない。神を称える歌である。それが、言葉だけの祈りによるのではなくて、心を揺らすメロディにのせて、理性も感性もすべてを含む人格全体で、神への信仰を表明することになる。また、それにより歌う自身もまた、神からの恵みを受けるという構造にもなっていると言えるだろう。
 
このシメオン、かなり謎の人物である。そもそも名前のほかの情報がない。誰それの子、という通常の紹介がないのだ。それは登場人物としては軽い小さな者であれば普通かもしれないが、シメオンはここにイエスについて預言を語っている。少々ミステリアスなままに登場する。特にその年齢については、聖書は何も告げていない。それなのに、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます」(2:29)などと口にしているから、憶測が飛び交うことになる。
 
この言葉からして、伝統的にはシメオンを老人と決めつけていた。だが、このシメオンの年齢問題を、説教者は詳しく解説した。いろいろ説明した末、もちろん確定はできないのではあるが、障害者や病人であっても、そのような言い方をしたかもしれない、という視点を提供した。こうした自由な視点は、私たちに聖書の言葉についての、より詳細な読み方というものを教えてくれる。勝手な思い込みだけで暴走してはならない、ということを私たちは学ぶ。
 
私は、シメオンとアンナの扱いの違いをずっと気にしている。シメオンは謎の人物であるが、記事は長い。アンナは記事としては短く、少しも具体的なことは述べた様子がない。しかし、アンナの人生については、シメオンと比較にならないくらいに詳しい、84歳という年齢、結婚して7年後に夫が死んだこと、その後独り身のままで、神殿に住んでいるのかと思われるほどに、神に仕えていたのだという。断食と祈りの生活で、恐らく当時としては長寿の極みであるような、84歳という年齢になっていた。このアンナだったら、「今こそ……去らせてくださいます」と言ったとしても、すんなりと肯けるはずなのだ。
 
それにしても、84歳というのは、他に例を見ない詳しさだ。私はそこに、12×7の意味を見ているが、そうであろうとなかろうと、アンナという女預言者については、ルカがこれだけの背景を記しているということは、当時何らかの意味で有名であったか、その実在性を含み、重要人物であったことを意味しているのではないか、と推測される。
 
ところで、このシメオンの言葉の中に「万民のために整えてくださった救い」という表現があった。アンナの描写の中にも「エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に」、イエスのことを話した、というものがあった。すべての人に、救いの道が敷かれていることが分かる。
 
その中で説教者は、シメオンの賛歌の中で、イエスが「イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりする」ことに目を留めた。「倒す」というのは聞き捨てならないが、ここには説教者独特の解釈があったものと思われる。私は単純に、倒れるべき者と立ち上がることになる者とがある、と思った。だが、「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています」ということ全体を見ると、「反対を受ける」というほうで、イエスが権力者と群衆により殺される道を捉えたならば、「倒したり立ち上がらせたり」というのを、一連の出来事のように読むこともできるのではないか、と感じた。
 
つまり、私たちは自らの罪を知り、打ちのめされるのだが、それがあってこそ、救われて立ち上がることができるのだ。さらに、この「立ち上がらせる」と訳された動詞は、よく知られているように「復活させる」というときにも使われる語である。また「倒す」は、日本語でもそうだが「滅ぼす」という意味での使われ方がある。私たちは、自分の罪を通して、一度死ぬのだ。しかし、それがあって後、神により復活させられるのだ。
 
キリストと出会う者は、罪に死に、神に生かされる。キリストが死んで復活させられたように、キリストを信じる者は、自分の罪により死んだことを経て、神により命を与えられることになるのである。
 
説教者は、それなのに他人を赦すことができない者がいることを嘆く。相手にのみ反省を求め、自らはいつの間にか神の立場に身を置いてしまう。否、それは自分の腹を神とし、自分が神として振舞うことを、意味する。この「すりかえ」は、実に巧妙な悪魔の仕掛けにより、容易に私たちを襲い、支配してしまうのだ。立ち上がらされる恵みを排し、自分だけで立つことができるかのように錯覚することになる。繰り返すが、この罠は巧妙である。
 
前年から続く戦争に加え、理不尽な戦争がこの年も始まった。信徒の祈りの中で、そのように大きく報道されなくても、世界各地で紛争や戦いがあり、命が軽く扱われていることに胸を痛めるものがあった。子どもたちが、簡単に殺されてゆく。兵士ではなく、民間の、しかも子どもたちが殺される。たとえ命は助かっても、その親が殺され、住む家が破壊される。戦争は憎むべきものである。
 
だが、私は思う。私たちも、もちろんこの私も、子どもたちを殺し、住む家を破壊しているのだ、と。COP(Conference of the Parties ; 締約国会議)が、気候変動枠組のために開かれ続けている。2023年では、環境活動家のローティーンの子が壇上に現れるハプニングもあった。大人たちは暖かな目で見守っていたが、少女の主張を受け容れたわけではなかった。
 
言いたいことがお分かりだろうか。大人たちは、子どもたちの将来を奪っているのだ。現在の経済優先の制度と生活が、子どもたちの未来を壊しているのだ。その命を奪い、その住むところを破壊することになるのだ。
 
戦争を支持している指導者や国家だけが、そのようなことをしているわけではない。及川信牧師は、私たちの中にもヘロデがいる、と説教の中で言った。まことに、その通りである。これに気づかず、あるいは気づこうともしないで、クリスチャンは悪政に抵抗し善いことをしている、と自己義認してしまっているとしたら、これほど酷い悪はない。私はそこまで考えている。
 
私たちには何ができるか。痛みを忘れてはいけない。私たちは、聖書の言葉により、イエスの言葉により、本当の意味で倒されねばならない。そして、自分の良心や腹によって、自分を正当化してはならない。まして、神をそのための道具として利用して、自分の正義を主張するようなことがあってはならない。
 
説教者は、そこまでは言わなかった。ただ、慰めにかかった。説教は、それでよいと思う。年配の方が多い中、いつでも安らかに世を去ることができるように、シメオンから学べばいい。神に生かされている恵みに感謝すればいい。ここに光があることを喜び、それを受けて今日は過ごせばいい。そして、その光なるイエスを指し示せばよい。ここに神の真実がある、ここに愛がある、と指さして、共に生きる世の人々に、証しをすればいい。
 
そのために、高らかに歌うのだ。主への賛美を、止めないのだ。だがそれは、本当に倒された自分というものについて、洞察するものであってほしいと願う。自分の十字架を背負ってこそ、イエスに従うことができたはずだった。自分は死なねばならなかったのだ。そして、確かに死んだのだ。生かすのは、自分ではないし、自分の信仰でもない。ひたすらに、神が生かすのだ。その生かす神を、ただ信じているだけだ。これが、喜びのニュースである。福音なのである。



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