悪い奴はみんな死ねばいい

2023年12月31日

「悪い奴はみんな死ねばいい」
 
息子がそんなことを言っている。反抗期でもあり、頭ごなしに言ってやれないのではあるが、そんな考えで生きていってほしくない。どうしたらよいか。――
 
母親として、どうしてよいか分からず戸惑っている悩みを放送で聞いた。そのまま大人になってゆくとは限らないものの、何か歪んだ考え方に傾いていかないか、心配させられるものではあるだろう。
 
何人かの人がアドバイスをしていた。アドバイスというよりは、意見というふうでもあった。ひとつの正義感であることは認めてよいのかもしれない。しかし確かに、そういう思い込みは、たとえばいま振りかざすことにより、非難を浴びるかもしれないし、逆に危険な目に遭うことになるかもしれない。
 
ただ、誰もがそんなことを考えるのではないだろうか。中には、弱い者を標的にして、「死ねばいい」と思うこともあるし、それを事もあろうに教育者が口に出したというような事件も報道された。また、いじめられていて自分など「死ねばいい」と書いたノートに花丸をつけた教師のことも報道された。これは、自分へ向けての子どもの苦悩ではあったが、問題の解決に死を持ち出すということは、問題の大きさを表すと共に、極端な結論を持ち出す危うさをも考えさせた。その子の心の傷がなんとか癒えるようにと願うばかりである。
 
それにしても、憎むべき事件の報道が毎日のようにある中で、「悪い奴はみんな死ねばいい」という思いは、人々の間で日々積み重なっていっているような気もする。重い声もあれば、至って軽々しくそう思うということもあるのだから、それが当たり前になっていくとなると、少々怖い気がする。
 
だが、聖書のような、宗教的あるいは道徳的指針の基準となりうるものでさえ、単純にそういう原理で片付けようと思えば、片付けることもできるかもしれない。そう見る人がいても、おかしくない。
 
だが、聖書はそのようなことを告げてはいないはずである。「死ねばいい」のほうではなく、「悪い奴は」のほうを真摯に受け止めなければならない。いったい、そう言っている本人は、その「悪い奴」の外にいるのだろうか。自分は悪くないから、「あの」悪い奴が死ねばいい、と言うのだろうか。
 
神は「悪」ではない、とする。その神が「悪い奴」を、自分でない者、ずばりいえば人間なのだが、そこに見いだし、当てはめて呼んだとしても、それは理に適っていると言えるだろうか。
 
彼らに言いなさい。私は生きている――主なる神の仰せ。私は悪しき者の死を決して喜ばない。むしろ、悪しき者がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、悪の道から立ち帰れ。イスラエルの家よ、あなたがたがどうして死んでよいだろうか。(エゼキエル33:11)
 
自身が悪ではない神でさえこのように言うのであれば、自身が悪である人間は、「悪い奴は死ねばいい」とは言えないのではないか。
 
私は悪い奴の一人である。パウロに倣うわけではないが、その中の筆頭である。聖書はそれを人に教える。悪いからこそ、立ち帰るという道が現れる。それだけで平和が訪れるとは思わないが、少なくともそれを欠いては、平和もありえないのではないだろうか。
 
「ひと」の罪ばかり見てきた一年であったとしても、「自分」の罪を知ること、そこに希望があるのだ、ということを伝えるのが、キリスト者の重要な役割である。そう信じて疑わない。



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