プロならば

2023年12月27日

勤務する塾の前に道路があるが、信号無視は決してするな、というお達しになっている。生徒や保護者の目があるかもしれないところで、教師らしからぬことをしてはならぬ、という意味である。
 
学習塾の職員による不祥事が、今年大きく話題になった。被害に遭った子どもたちやご家族には、ここからも申し訳ない気持ちが起こる。不祥事というより、犯罪であり、取り返しのつかない深い傷を遺すものであった。これを受けて、スマホは職員室に預けるシステムを徹底し、異性の生徒と二人きりになってはいけない、というコンプライアンスが、とくに厳しく言い渡され、念書まで書いている。
 
プロたる者、そのプロである意味内容において、本質的なことにおいて裏切ることをしてはならないのである。
 
ここのところ、政治の裏金の問題が世間を賑わせている。そもそものカネの問題をとやかく言うつもりはない。が、指摘すべきと私が考えることを、ワイドショーなどでは殆ど触れることがないのはどうか、と思っている。指摘すべきなのは、これが犯罪として、つまり法律違反として立件されようとしていることである。
 
お気づきのことと思う。問題は、国会議員がやった、という点である。国会は何をする機関であるか、中学生は皆公民の授業でたたき込まれる。立法機関である。法律をつくるというのが国会議員の仕事であることは、生徒は最初あまり知らない。国会は、法律をつくるところなのであって、議員はそのために、法律のプロフェッショナルなのである。
 
法律のプロが、法を犯している。これが最大の問題点であるはずである。
 
市民であれば、そんな法律は知らなかった、という場合もあるだろう。法律というものは、原則は限られていても、ケースバイケースの法が増えて、網の目のように張り巡らされている。素人が法に通じているはずがなく、職務上知らねばならないことのほかは、日頃そう意識することはない。また、できない。
 
だが、国会議員が、そんな法律があることは知りませんでした、と言うのは、恥である。法に触れるとは考えていませんでした、などと言うのも、プロとして失格である。プロ野球の選手が、野球のルールを知りませんでした、では、選手をやっていられないであろう。
 
法律のプロが、法を犯した。一番問題なのは、ここではないのか。
 
すると、教会では、牧師は信仰のプロであると言えよう。自分で、正しく生きるのです、などと毎週説教しておきながら、これまた恥ずべき法を犯した人が、大きく報道されただけで何人もいる。駐車違反などというレベルではない。故意であり、市民一般でも十分犯罪だと分かっていることである。正に、プロとして失格である。(こう言うと、人間だから牧師にも弱さがある、と弁護する声もあろうかと思う。私は、人間としてどうの、と言っているのではない。プロとしてダメだ、と言っているのである。)
 
ただ、それはごく少数である。しかし、信じましょう、と説教している当人が、実は信じてなどいない、ということは、どうだろうか。少数なのだろうか。神が救います、と説教している当人が、神に救われた体験がない、ということは、どうだろうか。これは決して立件されない。市民法では罰されないが、神の法においてはどうであるか、考えるべきではないか。
 
プロとして失格、どころの話ではない。そもそもプロの資格がないのである。ブラック・ジャックは医師免許をもたないモグリの医者だが、本物の医師よりもプロであるという見方はできる。だが、こちらは、ただのモグリに過ぎない。それでいて、仮面をかぶって演技をしているのだから、羊たちはそれに従ってはならないのである。自分の運命もかかっていることに、気づかねばならない。



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