冒険の始まり

2023年12月26日

さあ、冒険の旅に出よう。
 
それは、自ら望んでいなかった冒険であった。しかし、何ものかに導かれ、促されて、ついに立ち上がる。
 
これだけでも、ワクワクする。こうして少女は、ダンジョンに飛び込んで行くのだ、などと暴走するのはやめておくが、マリアへの受胎告知が、こんなドラマのスタートだった、というのは、実に新鮮なクリスマス・メッセージであった。
 
2003年のクリスマスは、仕事漬けだった。泣きたい気持ちであったが、日頃も日曜日は出社しないというお願いをしていることもあり、この書き入れ時にはやむを得ないといえば、やむを得ないのであった。
 
こういうとき、配信というのは、バンザイしたいくらいにありがたい。後から録画のリンクを届けてくれる。24日の深夜にそれは連絡されてきた。私は翌朝早くからの仕事も放り出すかのように、夜中に礼拝メッセージに聞き入った。それが、マリアの冒険の話である。
 
テーマになる言葉は、おそらく「神の言葉は不可能とはならない」という言葉であったと言えよう。天使ガブリエルがマリアに告げたのは、「神にできないことは何一つない」であるように訳されている。しかし、ギリシア語原文のニュアンスからすると、たぶん「神の言葉は不可能とはならない」の方が適切であるのだという。
 
もちろん、それは普通に言う「言葉」ではない。「こと」と訳しても問題のない語ではある。しかし、「言われたこと」を意味する場合があり、それを「言葉」ととっても差し支えない、という理解なのだろうと思う。
 
この冒険が、クリスマスとなる。マリアはクリスマスへと冒険の旅に出たのだ。ただ、このクリスマスは、外から訪れるものではない、という点も、メッセージから伝わってきた。クリスマスと言いながら、馬鹿騒ぎをするのは論外であるが、教会でクリスマス、と言っても、それはしょせん「いいお話」でしかないのだとすると、それは事態を外から眺めているのに過ぎない。しょせん、他人事なのである。
 
イエス・キリストは二千年前に生まれたのだが、今日もあなたの中に生まれます。そんなメッセージが、クリスマスに語られることがある。まさにその通りた。あなたの中に、私の中に、いまキリストが生まれる。私はキリストを宿し、そしてまたキリストを着る。
 
マリアは「黙想の母」と呼ばれる、との言及があった。マリアが、目撃した出来事を心に留めていたことを重んじてのことであろう。私たちは、見たもの、聞いたことを、直ちにすべて理解するわけではない。できるのは神だけであろう。人間は、分からないことだらけだ。だが、それは実は見逃している、ということである。実は心に留めてもいないのだ。何かの出来事に出会って、それでハッと気づくということのためには、そのことをかつてどこかで見聞きしており、それと結びつけることができるという能力が必要だ。心に留めておくということだ。だから、マリアはそれができる人であった、ということなのだろう。
 
ただ、ネット検索では、マリアについて「黙想の母」という表現があることは殆どヒットしない(皆無なのではない)。果たしてこの語がポピュラーになりうるのだろうか。プロテスタントでは、マリアを神格化することに対してかなり警戒するものである。
 
ルカはこのイエスの誕生にまつわるところで、多くのキャラクターを鏤めている。ザカリアとエリサベト、羊飼いたちは名前がないにしても、シメオンとアンナという名前も見られる。特に、このアンナという女預言者については、やたら情報が詳しい。シメオンはあっさりとしているのに、アンナは家柄から年齢、夫との生活期間や彼女の信仰生活の細かなことまでが、わずかな文字数の中に圧縮されている。こうしたキャラクターが言行については、もっと大きく取り上げて然るべきではないか、と私は考えている。まして、マリアの言葉は、なおさらである。
 
説教者が、神はマリアに賭けたのだ、と話したのは、かなり面白かった。もしマリアが受胎を拒否したら、救い主がこの世に生まれないままになっていたというのだ。マリアにしてみれば、自分の人生を台無しにするような、酷い運命を引き受けるということになるわけで、すんなり受け容れることができるか、分からないではないか。神はそのマリアに賭けたのだ、というのである。
 
もちろん、一種の戯れのフレーズであったのではないかと思う。私たちが神に賭けたほうが有利であることは、パスカルが計算した知恵であったが、神のほうが人間に賭けをする、というのは、俄には信じがたい。だが、それほどに人間の自由意志というものについて、神は承認し、また信頼していたのかもしれないと思うと、それを仮定することによって、益々私たちが神を信頼すべきであることの、有力な根拠になるような気もするのだった。
 
マリアは、その期待に応えた。そこに、マリアの心意気があった。なんでもかんでも「信仰」と表現しておけば、神との関係が分かるような錯覚を、私たちはしていないだろうか。「信仰」と言えばさも聖書を正しく理解できた、と思いこんでいないだろうか。
 
「信仰」以外の言葉で、胸が空くような神との交流を覚えたいものである。そのために、「冒険」という表現はとてもよかった。英語だと、それは「adventure」であろう。この語は、元来、何かが起ころうとする様子を表すと言われている。特に、思いがけない出来事を示すのに都合がよいらしい。そういえば、クリスマスの出来事はもちろん、私たちへの神の介入、私たちから見れば神が現れる出来事、こうしたものは、私たちが予期して、あるいは私たちが計算高く創作したようなものではない。
 
「冒険」は、やはりワクワクするものだ。これからどんな人に会えるのか、どんな出来事に出会うのか、どんな世界が拡がっているのか。自分の知らない大いなることへの期待に溢れている。マリアは「小さな冒険」に出かけた、と説教者は言ったが、決して小さくはないように捉えたい。そして、「adventure」は「advent」と無関係ではないだろう。アドベント、それは「到来」を意味する。他の英単語でいうと「come to」の感覚に近いかもしれない。キリストを待つ、という「待つ」に力点が置かれて理解されがちだが、「キリストが来る」のだ。そのキリストに出会う、マリアの、そして私たちの、大きな「冒険」が、いまここから始まろうとしている。否、もうすでに始まっている。決して不可能に終わらない聖書の言葉が、約束のアイテムとして、私たちの手に握られている。
 
ワクワクするではないか。



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