説教を読む

2023年12月25日

礼拝説教は、語りの中にこそ意味がある。それが本筋であろう。その時、その場で語りを聞く。そこに、神の力が働く。古来、文字を読むというのは特別な能力であり特権であったのだから、言葉は本来聞くものであった、というのは本当だろう。
 
礼拝説教は、ユダヤ教がエルサレム神殿詣でがままならぬ事態になってからは、あるいは広い世界に散っていった民族の礼拝においてだからこそ、地域の会堂における礼拝の中で、浮かび上がってきた知恵である、とも言えよう。
 
後に印刷が進み、文字を読むということが多くの人に可能になってくると、礼拝説教は印刷され、読まれるということが起こってきた。否、古代においても、説教は書かれて遺されていたことには違いない。文字を読める人が代表して、それを読み上げ、人々が知識を得ると共に、生きる指針を受けていたことだろう。
 
パウロの手紙にしても、書かれたものが書き写されて、あちこちの信徒の集いで読まれたのである。ヘブライ人への手紙などは、手紙というよりは説教であったと見たほうが理解しやすいという。その他多くの文献が今に伝えられている。説教と呼べるものも、邦訳で読めるものが幾つもある。ありがたいことだ。
 
近代になると、名説教を聞きに、多くの人が教会に集まることもあったらしい。その場に行かねば聞かれない声を求めるのは、いまもライブ演奏を聞きに行く私たちの心境と重なると言えるだろう。しかし、物理的にそれが適わない人が多数派である。すると、印刷して説教内容を伝えるということも始まる。ニーズがあれば、それはビジネスにもなるのだ。
 
19世紀イギリスのスポルジョンの説教は、毎週争って印刷されたともいう。飛ぶように売れたのだ。説教集という形の本だけでも数十冊発行されたというから、その説教は、よほど人々が知りたかったのだろう。
 
その説教を読んでみたくて、私は英語に取り組んだこともあった。19世紀の英語は、いまと文法的にはそう大きく変わらないが、いまの英和辞典では調べられない単語が多い。三省堂の『エクシード英和辞典』を知って、重宝した。コンサイスよりも小さいほどだが、語彙力は絶大である。スポルジョンが読めるのだ。いま古書でかなり安く手に入るので、もしお手元になく、スポルジョンを読んでみたいという方にはお薦めである。
 
さて、説教を読むということのみならず、毎日の黙想のために、年間を通して読む手引きというものが、数多く発行されている。そのスポルジョンのものもあり、この2年間開いてきた。朝と夕と、1日二つの文章があるが、なかなかそれぞれしっかり分量があり、しばし浸ることができる。毎年正月から一冊決めて、1年間通すことにしているから、来年は何にしようかと思案中である。加藤常昭氏のも何年間か用いたが、もう一度そこに戻ってもよいかもしれない。最近売り出しているものの中には、見本を見ると、あまりに浅い見聞しか書かれていないものもあり、いまは取り立てて買うつもりはない。何度用いても新鮮であると思えるものは、やはりよいと思う。
 
説教集も、毎日一つずつ読めるように考えている。忙しいときには難しいが、なるべく1日一つの説教を読むように努めている。いま現在は、及川信牧師のものを読んでいるが、今年中にそれを終えると、もうひとつ同じ牧師の未読のものを準備している。実にいい。教会のありきたりの姿に、批判的な眼差しを忘れないのが私好みである。それでいて、受けるものが多々あり、人を生かすという説教のあり方からしても優れていると思う。
 
加藤常昭氏のものも新しいのがあるので、しばらく困ることはない。また、新しいものでなくても、以前読んだものも読むようにすると、経済的にも、置き場としても、よい方法であるが、一つひとつが、初めて出会った説教であるかのように、その都度恵みを受けるのも本当である。忘れてしまっている、というのも事実なのだが。
 
加藤常昭氏といえば、その主催する「説教塾」が発行している、塾生の説教集もある。これも、複数回開いて味わうことがあったが、その度に心揺さぶられる。昔交流のあった牧師が、塾生になっていることも知ったが、かつての説教よりも洗練されていたように思う。説教を磨くというのは、やはり可能なのだ。
 
礼拝説教は、その時その場での礼拝の言葉である。だから、ライブこそ本当のものだ、ということも私は受け容れる。だが、ただ一度数十人だけが聞くというのも、もったいない説教というものがある。コロナ禍以降、動画配信ができるのは大きい。多くの人が触れて、心変えられるとよいと願う。だが、礼拝の中では、教会員のプライバシーに関することも語られることがある。せっかく万人に広めたい説教であっても、プライバシーの関係で、内輪に制限されているものもある。やむを得ないが、もったいないと思う。
 
その意味では、やはり印刷された説教は、よいものだと考えられる。確かに読むというのは、声色も口調も分からないので、本来の説教を体験することにはならないかもしれない。しかし、時間の中で流れていく声とは異なり、読み返すこともできるというのは魅力的である。読む説教というものがあってもいい。
 
私も、拙いものではあるが、そうしたメッセージを発信している。それは最初から、書かれた説教であり、読むための説教である。それをもし語るとなると、その原稿をそのまま読み上げるのではないことになる。その場の人々の様子に合わせて、口調も変え、繰り返しを用い、またライブでは必要のないことは喋らず、いわばその場の「霊の流れ」に従うことになる。このとき、書かれたものは、読むためには適しており、語るものはまた別物ということになる。
 
そう言えば新約聖書の中で、「聖書」と訳されたものは、もちろん旧約聖書のことではあるが、ギリシア語で「書かれたもの」という表現の語である。預言者もまたかつて人々に語ったのであろうが、遺された旧約聖書は、正に「書かれたもの」であったのだ。
 
せっかく書かれたものであるのだから、本として恵まれた時代にいる私たちは、もっと書かれたものに親しむことが許されている。ありがたいことだ。



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