【メッセージ】歓迎

2023年12月24日

(マタイ21:1-11, 列王記下20:12-19)

群衆は、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
「ダビデの子にホサナ。
 主の名によって来られる方に
 祝福があるように。
 いと高き所にホサナ。」(マタイ21:9)
 
◆与えること
 
イエス・キリストがこの世に来たことを記念する礼拝となりました。何らかの記念の日を設けることそのものが、悪かろうはずがありません。しかしまた、その日だけキリストの訪れを思い出す、というのも心許ない話です。
 
いわゆる「クリスマス」には、プレゼントがつきものです。子どもたちは、サンタクロースを待ち焦がれます。普通、大人にはなかなか来てくれませんから、自分がサンタクロースになって、誰か大切に人に、プレゼントを贈ることも多いでしょう。
 
教会でクリスマス会が行われるときにも、「プレゼント交換」というプログラムが入ることがあります。互いに持ち寄ったプレゼントが、誰かほかの人の手に渡るようにします。しばしば、誰が贈ったか分からない形にするので、貰った方はまるで天からプレゼントをもらったかのような気持ちになります。
 
「受けるよりは与えるほうが幸いである」(使徒20:35)という言葉を、イエスからの言葉だと言っているのはパウロだけなのですが、広く知られています。どんなに多くの人の心に響いたことでしょう。欧米のチャリティーの精神も、こうしたところから生まれているのかもしれません。
 
イギリスとその関係諸国では、クリスマスの翌日を「ボクシング・デー」と称して、25日まで忙しかった使用人に休暇を与え、また贈り物をする習慣があるそうです。あるいは、貧しい人々に施すお金を箱で集めたことに由来する、という話もあります。もちろん、この「ボクシング」は「箱に詰める」という意味であり、「拳闘」とは関係がありません。
 
ディケンズの『クリスマス・キャロル』では、守銭奴として登場するスクルージが、亡霊たちに自分の将来を警告され、施す人にすっかり変わってゆきました。与えることについて、子どもにも分かりやすいお話だと言えそうですが、さて、大人たちにも、この亡霊たちが現れることはないのでしょうか。
 
与えることに慎重な文化もあります。京都では、家の前の塵を掃くとき、隣の家の前には手を出さないのが常識だと言われています。親切心でも、やってはいけないのです。それは相手に借りをつくらせるからです。「頼みもせんことをしてもろたら」、心に負担をもつことになります。だから互いに相手に負担をもたせぬよう、無用な手出しはしないのが礼儀なのです。
 
与えないことが、相手の心地よさを邪魔しないことになります。これは貴族文化にも基づくのでしょうが、京の庶民もまた、互いに露骨に言葉をぶつけずに、互いに察することで品位を保ち続けてきた歴史をもつのです。そもそも日本語にも、そうした配慮や心づくしというものがあるのだ、とも見られています。冗長になるのでいまこれ以上深入りはしませんが。
 
文化は、単純に割り切れるものではありません。人の心も、単純に決めつけることはできません。当然、西欧の心理学の分析が、人の心の真理として普遍的であろうはずがありません。聖書の解釈も、西欧の伝統がすべてではないに違いない、と思います。
 
◆イエスを歓迎しよう
 
しかし、キリスト教を最初に受け容れていった地域として、西アジアからヨーロッパという地域は、やはり敬服すべき伝統をもつはずです。プレゼントという考え方は、神が独り子を惜しまずに与えたことを、大切にしていると理解します。まことに、イエスこそ、神が人間に贈った、最大のプレゼントである、と言ってもよいと思うのです。
 
教会に来た子どもたちにも、しばしばそのようにお話しします。なにせ神が与えたものですから、隣の家の前の掃除のように、貸し借りの心をもつような必要はありません。神は絶大です。人間とギブアンドテイクのような関係をもつはずがないのです。与えられたということ、それを「恵み」と言いますが、恵みを精一杯受けるとよいのです。
 
私たちは、太陽の光を受けて、太陽を拝む必要はありません。雨が水を注いだからといって、空に手を合わせる必要はありません。太陽も雨も風も、全てをもたらす創造主おひとりで十分です。天地万物の一つひとつを拝むよりは、ずっと簡単であり、的を射ています。少なくとも聖書の文化を知る人々は、そのように受け止めています。
 
ある意味で、厚かましいかもしれません。人間が何もしないのに、何もかもが与えられて幸せだ、というような顔をするのです。お返しをしなければならないような心が、私たち日本人にはどうしても生まれてきますが、その必要もない、というのです。
 
クリスマスは、神がイエスを世に贈ったこと、あるいは送ったことを、確かなこととして受け止めた人間が、感謝するひとときです。お返しをする必要はありませんが、せめて心を神に向けるということが、精一杯のお返しとなるでしょうか。そのためには、イエスをまず迎え入れなければなりません。イエスを歓迎することが、私たちのいまの礼拝となるのです。
 
◆エルサレム入城の場面
 
イエスを歓迎する。それは当時、癒やしてほしいという病人の願いとしては当然のことでしょう。パンを恵んでくださることで歓迎した人もいたかもしれません。イスラエル王国の復興を願う人々の願いを叶える方として、歓迎した人々もいたことでしょう。そのクラスマックスとして、城壁の町エルサレムへの入城の場面が思い起こされます。マタイはこのようにその場面を描きます。
 
8:大勢の群衆が自分の上着を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。
9:群衆は、前を行く者も後に従う者も叫んだ。/「ダビデの子にホサナ。/主の名によって来られる方に/祝福があるように。/いと高き所にホサナ。」
 
群衆は、イスラエル王国の復活を期待して、イエスを歓迎します。かねてから大帝国の脅威と支配とを受け続けてきた小国イスラエルでしたが、一時期繁栄したことがあったのです。しかしいまは、歴史的大帝国ローマ帝国の一部となっています。人々は、誇りを踏みにじられたような気持ちになっていたことでしょう。
 
このイエスは、ただならぬ人物だ。メシア、即ち救世主かもしれない。否、メシアに違いない。病も癒やした。パンを増やした。不思議な業を見せた。聖書に記された、イスラエルの救いの時代に現れるメシアではないのか。民衆からすれば、鼻持ちならないエリート指導者たちを、イエスがやりこめたというのも、人気の理由であったかもしれません。
 
イエスがローマ人とやりあったという話は聞きませんが、ローマの支配にも決して負けない毅然とした態度をとっていたではありませんか。ローマの手先となったユダヤの王や役人たちにへつらうようなところは、少しも見られませんでした。
 
このとき、イエスはろばに乗っていました。イエスが村に二人の弟子を遣わして、「主がお入り用なのです」と言って渡されたろばと子ろばです。ろばは、新約聖書では、このイエスの場面に出てくるほかは、ルカがあのサマリア人の譬の中で登場させたのと、第二ペトロ書で、ろばが口を利いた民数記の物語の引用をしただけです。が、旧約聖書でゼカリヤ書9章が預言した場面が、いまここでイエスによって実現された、と考えられたのです。
 
9:娘シオンよ、大いに喜べ。/娘エルサレムよ、喜び叫べ。/あなたの王があなたのところに来る。/彼は正しき者であって、勝利を得る者。/へりくだって、ろばに乗って来る/雌ろばの子、子ろばに乗って。
 
これは、将来の主の救いの日に、イスラエルが勝利する幻を描いた中ですが、福音書はこの場面を、イエスのエルサレム登場に相応しいものとして用いました。ろばです。勇猛果敢な馬ではありません。見劣りがするかもしれませんが、平和の道具たるに相応しい演出です。人々は、聖書をよく知っていました。だから、イエスをダビデの再来のように称えたのです。「ダビデの子にホサナ。/主の名によって来られる方に/祝福があるように。/いと高き所にホサナ。」と。
 
◆歓迎の反転
 
群衆は、上着を道に敷、あるいは木の枝を切って道に敷きました。王の入城を歓迎するための行為です。人々は歌います。偉大な王である「ダビデの子」だ、「主の名によってこられる方」だと呼び、神の祝福を願っています。もちろん、それは民衆がまた、イエスを祝福することでもあり、イエスを歓迎したことを意味します。
 
「ホサナ」、それは、ヘブライ語の「ホーシーアー・ナー」を新約聖書のギリシア語表記にしたものでありましょう。「どうか救ってください」という意味の言葉です。ちょうど「ありがとう」という意味をカタカナで「サンキュー」と書くようなものです。
 
「どうか救ってください」、メシアと思しき方が、ついに神の都エルサレムに現れたということで、群衆の熱狂は最高潮に達します。地方で有名になったスターが、待ちに待った東京公演を行うようなものです。エルサレムに現れたとあっては、いよいよイスラエルの栄光が近づいた、いまこそここに復興を、という期待が盛り上がります。ローマ帝国の支配の中で、政治的に、あるいは宗教的に圧力を覚えていた民衆が、その抑圧から「救ってください」と大合唱するのです。人々はイエスを、熱烈歓迎しました。
 
しかし、この歓迎が、ほんの数日で手のひらを返したように、イエスに対する怒号に変わります。「十字架につけろ」「殺せ」とのシュプレヒコールが、多分に同じ口から発せられるのです。歓迎したことが嘘のように、まさかの展開になるのです。
 
歓迎したことが、逆に不幸を呼ぶ。政治的な場面では、いくらでもありそうです。旧約聖書の記事でも、体のよい誘いで歓迎し、暗殺するというような場面がありました。にこやかな顔で歓迎しておいて、相手を罠に陥らせ、自分の恣に扱うということも、よくありました。人間社会では、そういう騙しは日常茶飯事であり、むしろ引っかかるほうが悪いかのようにさえ言われることがあります。
 
ヒゼキヤ王は、信仰的には、優れた王だと描かれています。しかし、死の病から一時的に回復した後、ほっと安心したのか、バビロンからの使者が見舞いに来たとき、すっかり気を好くして歓迎したために、相手の頼み通りに、宝物庫の中身をすっかり見せてしまうという失態を犯しました。預言者イザヤがその後にこのことを尋ね知ると、それはバビロンに占領されこの宝物がすべて奪われるということを意味しているのだ、と諫めました。否、諫めると言っても、なされてしまったことは、もう時既に遅し、でした。
 
何事も、鵜呑みにしてはならない、という戒めになるでしょうか。偽物は、教会にもいくらでもやってきます。ひとを信じることと、間違いを見抜くこととは、判別が難しいのは事実です。しかし、やはり見抜く目をもっていないと、取り返しのつかないことになりかねません。
 
◆自己義認の罠
 
さて、群衆はイエスを歓迎しました。あれも、よくなかったのでしょうか。あの歓迎は、間違いだったのでしょうか。それを責めるのは酷だな、と私は思います。決して間違っていたとまでは言えないだろう、と思うのです。人々は、預言の成就に一役買ったのでした。もちろん、褒められたものではありませんでした。人がそのとき熱狂することについては、よくよく用心しなければならないのです。
 
人々は、どうかすると簡単に熱狂します。プロ・スポーツで、それまで低迷していたチームが、連勝して首位に出ると、にわかファンが増えることがあります。弱小チームだった頃から応援している根っからのファンから見れば、不愉快なところがあるかもしませんが、優勝を盛り上げるために、にわかファンも役立つかもしれません。尤も、またチームが弱くなったら簡単に離れていくのも、そうしたファンにありがちなことではあります。
 
安直な大喜びは、ころころと態度を変えることがあるものです。戦争反対、と平和な時代に口にしていた人々が、いざ戦争が始まると、戦争バンザイと叫び始め、多数派を形成するようにさえなります。そして戦争反対を貫く人々を虐げることも、平気で行うようになります。自分の立場が安全なところから、偉そうに物を言う評論家たちを、警戒しなければなりません。もちろん、私もそうならないように、戒めておきたいと思います。
 
ネットの世界では、それが大変なスピードで展開します。数分間で何万人という人が同じSNSに反応することもある時代です。誰か刺激的な発言をすると、一気に攻撃を仕掛けてきます。炎上などとも言いますが、ひとたび「正義」を自認する者たちに見つかると、誹謗と嘲笑のターゲットになってしまうのです。その誹謗中傷すらも、「正義」となるのです。
 
すでに19世紀末、群衆心理について指摘したル・ボンの著作は、いまも訴える力をもっていると言われます。逆に、20世紀の独裁者たちがこれを読んでいた、とも言われており、人間が集団になったときの怖さというものを覚えます。でも、やはり百年前とはいまは様相が異なります。情報のスピードと、人々の意識が違います。得られる情報の量も格段に違うのです。
 
しかし、根本的な問題は、そこではないような気がします。人々は、かつてはテレビ画面から、いまはディスプレイ画面から、世界を覗き見しているだけなのに、世界のすべてを知っているような錯覚に陥ります。世界を俯瞰して、自分の判断がいつでも正しいように考え始めます。こいつは間違っている。こいつは馬鹿だ。そう思うばかりでなく、SNSで呟きます。おまえは死ね。軽々しく言葉をぶつけます。それが万人の目に触れると、同じような言葉を積み重ねる者の現れます。
 
自分にとって、自分は常に正義です。そして、正義は悪を倒す使命がある、と勘違いして、悪者に対しては何をしてもよい、と思い込み、実行するのです。昔だったら、正義感に燃えた者が「天誅」と私的に成敗する話もありましたが、たいていは独り善がりに過ぎませんでした。いま、その「独り善がり」という観念すら働かず、端的に自分が正しい者となっているように見えます。つまり、自分が絶対者となるのです。自分を神とするのです。
 
◆誰を歓迎するのか
 
けれども、キリスト者とは、自分の中に根拠を置かない者のことをいいます。もはや自分をベースになど、できなくなった者のことです。自分を信じることはできない。自分を頼りになどできない。それを痛感しています。それができない似非信者は、「神はこう言っている」と、自分の思いを神の権威を笠に着て、恰も唯一の真理であるかのように押しつけます。宗教を利用して人心を操ろうとするグループも、そのひとつです。
 
しかしキリスト者は、自分の思想を神の思いのようには語りません。自分に根拠を置かないからです。自分が正義である、という前提をいつでも外す準備ができているのです。究極的なことは神に聞くしかない、とするのです。神からしか、真理は出てこないことを弁えています。自分の都合のよいように神を規定したがることがあるとすると、それこそ人間の根本的な罪ではありますまいか。自分の思い込みを、無条件で正しいものとして原理に置きます。するとやがて、それはいつの間にか神がそう決めた、というように思いこんでゆくことになるのです。
 
そのとき、イエスを歓迎するクリスマスの出来事は、どうなるでしょうか。歓迎しているものは、イエスではなくて、自分自身になりはしないでしょうか。自分で自分を歓迎して、どうなるのでしょう。私たちはかくも、愚かな勘違いをしやすい者なのです。なまじ教育を受けて賢くなり、自分は何でもできると自負するようになると、人間は自分で自分を誇ります。そんな性格を、常に弁えておくことはできないのでしょうか。
 
そう、いつでも修正を試みる準備をしなければなりません。いや待てよ、これは違う、と首を横に振り、この歓迎の相手は神であるのだ、と目を上げるようにします。月も星も眺めない現代人は、上からくる恵み、神から注がれる愛を、忘れていやしないでしょうか。恵みや愛を、受け取ることを拒んでいるのではないでしょうか。
 
イエスが来たことを、私たちは歓迎する日のです。イエスが来たことを喜び、イエスを迎えるのです。心に自分が自分がという思いが満ちていると、イエスを迎えることはできません。自己を誇る気持ちをすっぽりと流し去って、イエスを心に迎える備えをすることが、いま必要なのです。
 
◆救ってください
 
9:群衆は、前を行く者も後に従う者も叫んだ。/「ダビデの子にホサナ。/主の名によって来られる方に/祝福があるように。/いと高き所にホサナ。
 
この群衆がこの先どうするか、いまはそこを非難しないようにします。誰かを悪く言いたくなったら、自分は正しいのだ、と言いたいときの誘惑だと気づきましょう。むしろここで、私は一緒に叫ぼうと思います。イエスに「ホサナ」と叫びたい。主の名によって来られる方が、ここにいます。実際、二千年ほど前に、確かにいたのです。イエスはこの世界に、確かに足跡を刻んだのです。人が抽象的な考えた存在ではありません。クリスマスは、イエスが実際にこの世界に来たことを、はっきりと胸に刻む時です。
 
共に叫びませんか。この喜びの叫びに、加わりませんか。「ホサナ」「ホサナ」と、聖書にある言葉を重ねませんか。それは「救ってください」の意味でした。私たちは、叫び続けなければなりません。「救ってください」と。ええ、すでにイエス・キリストは救ってくださったではないか、というような理屈は要りません。まだ神の救いの物語は、完成したわけではないのです。
 
いつそこから振り落とされるか分かりません。自分から落ちてゆくかも分かりません。イエスの十字架と復活が私を救った、という告白は、適切です。それでこそ、教会に集まるに相応しい信仰です。けれども、私たちはあくまでも、救われる立場です。私が私の救いを自分で決めているわけではありません。私が思うように、神が動くのではないのです。私が、神の思いを決めることはできないのです。
 
私たちは、救われるべき立場です。能動態にすると、神が救う、となります。聖書はしばしば、神がなさることを、敢えて表に出さないということがあります。私たちが「風が吹く」と言うことにも、実は「神が風を吹かせる」という理解が背景にあると考えられます。
 
神が救うのです。イエスが、救い主としてこの世界に来たのです。この子が十字架に架けられる、それを神は定めました。また、イエスを復活させました。それも神のなさったことでした。じっと寝ていたイエス自らが復活した、というような書き方を聖書はしていないように見えます。イエスは、復活されました。神がイエスを復活させました。そこに、救いが明らかにされました。
 
この神を、私たちは見上げます。この神の方に、視線を向けなければなりません。いえ、視線と共に、からだを神の方に向け、神と向き合い、神からの恵みを全身で浴びたいと願います。私たちの心の向きを、完全に神のほうに向ける必要があります。そして顔を上げる度に、叫ぶのです。「救ってください」と、信頼を込めて叫ぶのです。
 
それは、どうかこれからよろしく、ではありません。すでに神がイエスを通して成し遂げたその救いの業を、信頼しているからです。ただ、どうかその神の言葉が真実として実現することを待ち望んで、期待して、叫びたいと思います。「救ってください」と。



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