悔い改めが始まり

2023年12月11日

マルコ伝は、「神の子イエス・キリストの福音の初め」で始まる。なにしろ、それまでになかった文学形式としての「福音書」の書き出しである。作家ならずとも、神経を尖らし、何を以て冒頭とするか、思案の極みがあったことだろう。それは、旧約聖書創世記の冒頭、「初めに、神は天地を創造された」をも彷彿とさせる。後に、ヨハネ伝もこれをモチーフとして書き始めている。
 
ところが、研究者は、この節は、元のオリジナルとしてのマルコ伝にはなかった、と言うことがある。少なくとも、そこには「神の子」という語句はなく、定冠詞の付け方からしても、イエス・キリストを殊更に強調した形にはなっていない、と理解している。そればかりか、「福音」という言葉も、イエス本人に基づくというよりは、編集者マルコによって構成された考えではないか、とさえ考えられているという。
 
だから「神の子」などという呼称は、後の時代の飾り付けなのであって、イエス・キリストを神格化するための工作だ――そのような神学者がいることは事実である。だが、講演会ならばともかく、それを主日礼拝の説教の場で主張する、というのはどうだろうか。もはや「礼拝」ではなくなった場に居合わせた信徒は、硬直するのではないだろうか。あるいは、もはや礼拝説教など、馬耳東風が当然の世界のBGMに過ぎなくなったために、誰も気にしない、ということになるのだろうか。
 
だが、マルコ伝の第一稿がどうであれ、むしろ改訂版のほうが優れているということが普通の理解なのであって、新約聖書は「神の子」という理解で形成されたことは押さえるべきである。文献研究はひとつの道だが、それはそれだけのものに過ぎない。そこから別の理解をしたことを、真実だと示すことは、「礼拝」の場ですることではない。
 
今回の説教者は、もちろんこの「神の子」にあって「福音」を告げる。ひとつの打ち開きは、「福音」という熟語を、そのギリシア語本来の語の構成によって「良い知らせ」と訳し直すことである。用語は、その世界の人にはむしろ便利な言葉となるが、門外漢には意味が伝わらない。また、使い慣れた人も、妙な思い込みで偏った理解の渦に巻き込まれることもある。常に原点に還り、意義を問い直す姿勢は貴重である。だから、「福音」は「良い知らせ」として懐に温めるということについて、私は大いに賛同する。
 
それは、神から与えられる、人にとり最良のニュースである……はずである。だが、万人がそれを良いと思うわけではない。まことに、神の思いは人の思いと異なるからである。それとも、戦時中の「大本営発表」のように、これは良いニュースだ、とばかりに、事実とは違うことを、人々を乗せるために叫び続けているのが、聖書や教会が告げていることなのだろうか。
 
確かに、それは良い知らせであるかのようには聞こえない。キリスト教徒は、死刑にされた死刑囚を礼拝しているのだ。それが正義であるならば、死刑執行されたカルト宗教の教祖をいまなお慕う人々を、キリスト者は悪く言うことができないだろう。そうした事情を引き受けながらも、それでも、あの十字架に架けられたイエス・キリストを、私たちは崇めている。その言葉を神の言葉として受け容れ、信じている。それが良い知らせのはじめであった、というふうに公言しているのである。
 
説教者は、マルコ伝の最初の部分を開いていた。そこにはイエスは登場しない。描かれるのは、洗礼者ヨハネである。イエスの先導者とされている。また、イエスが偉大であるということを人々に理解させるために、この洗礼者ヨハネの名が、度々持ち出されている。それはつまり、当時洗礼者ヨハネが有名だったということであり、あのヨハネが敬うのだから、イエスはひとかどの者だろう、というふうに受け取られることが望ましかったというわけだ。
 
そしてその背景となる場所は、「荒れ野」である。これは象徴的である面もあるだろう。説教者は、イエスがサタンの試みに遭ったのが荒れ野であったこと、イスラエルの民が出エジプトの旅で多く歩んだことを重ねて、私たちの脳裏にその姿を再現させた。そこは、水が豊富ではない。生命維持に難を有する場所である。そして、荒れているし、人間の自由な生き方を拒む環境である。私たちの生きている、荒んだ世の中を現すにも適している。潤った幸福な環境ではなく、甚だ生きるのに難儀な環境であったことによって、私たちは神と出会ったのではなかったか。
 
否、恵まれた環境の中にいた、という人であっても、神に出会うとき、自分の心の中が荒れ果てた状態であったはずである。心が正に荒れ野であったに違いない。あるいはまた、誰の心も荒れ野であるのに、多くの人は気づくこともなく、潤っていると錯覚しているのであるが、実は荒れ野であるということに気づいて、そこから神と出会ったのが、キリスト者である、ということなのかもしれない。
 
洗礼者ヨハネは、荒れ野で、人々に「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」と福音書は記す。これは面白い表現だ。説教者は、ここに、洗礼を通じて、罪の赦しを神が与えることを伝えていたのだ、と解していた。洗礼を施していたのは確かのようだが、そういう形だけのもので、ヨハネの活動は終わりはしなかったのだ。
 
私たちの教会制度の中で、洗礼というものは、そのように「罪の赦し」を伴うことを必要としているように思われる。だが、牧師の任命については、それを伴うようにはあまり見えない気がする。牧師となるなどというならば、「罪の赦し」を受けているのは当然だ、というのがその理由であろうか。私は、果たしてそうだろうか、と思う。
 
もちろん中には厳しい審査をする神学校もある。「救い」の条件が適切に見出されないということで、「仮入学」扱いを受けた人がいるのを、私は知っている。結局1年待機してなんとか入学できたのではあるが、確かにその人はその後どうにも怪しかったのは確かだ。しかしまた、そうした条件を必要としない神学校も実際、ある。形だけ神学校に通い、形だけレポートを出せば、神学校の卒業証書がもらえる。あとは牧師不足に喘いでいる教会から声がかかれば、晴れて牧師である。未経験でも、主任牧師待遇でそうした人を雇う、大胆な教会もある。
 
だが、聖書ははっきり告げる。罪の赦しの道への入口は、「悔い改め」である。語義からすれば、方向転換をすることである。具体的な行為としては、それは自分の「罪を告白」することである。自分中心の生き方から、神への生き方に向きを換えることである。そうして、その証しとして「洗礼を受け」るのだ。
 
先ず以て、「悔い改め」が必要である。説教者は、これを「大掃除」に見立てた。何も、洗礼者ヨハネが大掃除をしたとかしないとか言っているのではない。私たちがクリスマスを迎えようと、教会を掃除することがあるだろう。だが、私たちの心の掃除を怠っていないかどうか、問うたのである。心が「その道筋をまっすぐにせよ」の言葉に沿って伸びているか。邪で曲がった心でいるのではないか。凹んだり、傷がついたりしてはいないか。否、心が苦しんでいてもよいのである。ただ、そこにはピュアな信頼が神に寄せられていなければなるまい。不純であってはならないはずだ。
 
洗礼者ヨハネは、「悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」のだという。少し不思議な表現だが、ここにある「悔い改め」は、人口に膾炙した言葉ではあるだろう。だがその内実は何か、本質はどこにあるか、そうそう知られているわけではない。説教者は、「神へ向きを換える」だとこのメッセージでは定義した。「向きを換える」ことが決定的に重要なのである。
 
それは、ただの反省ではない。神との関係がつくりかえられることである。あるいは、神との適切な関係が結ばれる、ということと言うほうがよいかもしれない。だから、世で癒やしソングの歌詞によくあるように、「そのままでいい」「ありのままでよい」という感傷的な合言葉とは、訳が違うのである。だからまた、難の罪も犯さない、立派な人物になることを求める必要もない。私たちは罪があるのだ。だから、「罪のあるそのままでいい」というのは、ある意味で本当である。だが、そのことをイエス・キリストの十字架と自分との間に関係づけ、明確な「救われる体験」を必要とする点が、ただの「ありまままで」とは違うわけである。
 
説教者はこうして、救いの祝福や恵みに満ちた言葉を続けて、希望へと導かれるようにメッセージをつないでいった。私はもはやそれを繰り返す必要はない。だから、私の中に浮かんだ風景を、もう少しだけご紹介しようと思う。
 
洗礼者ヨハネの警告を聞くために、人々は荒れ野へ出て行った。自らの罪を、深刻な問題として捉えることが、ある意味ですでにできていたのだ。それは、もしやこのヨハネが、待望のメシアであるのではないか、という評判があったせいであろう、と私は推測する。荒れ野で古の預言者の風体をし、世に警告を発していたようであるから、この人こそしばらく途絶えていた、預言者の再来ではないか、と期待されていたと思うのだ。
 
イエスは、ヨハネの弟子たちの訪問の後に、人々に向けて尋ねた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ出て行ったのか。風にそよぐ葦か。」これはマルコ伝にはない場面だから、直接マルコ伝のこの冒頭との関係はない、と言えるであろう。しかし、福音書の読者である私たちは、洗礼者ヨハネとイエスとの関係を思うとき、ふと浮かんでくる箇所のひとつだと言えるだろう。
 
風が吹けば、必ずそちらを向くように回るものがある。風見鶏である。いまはペットボトルで風車を付けたものが多く、畑に立てられ、鳥避けに使われていることが多い。風向きにより、絶えず向きを換える。自分の都合の好い方向を向いて、世の流れに従おうとする。処世術として優れているかもしれないが、政治権力に容易に操られる危険がある。風にそよぐ葦は、ただ風に靡いているだけかもしれない。しかし、風の吹いてくる方にくるくる顔を向け直すのは、信仰という意味からすれば、いかにも節操のない話である。
 
「悔い改め」というのは、方向転換をすることである。神の方に向き直ることである。罪あるままに向く。だが神の方に向くことで、その罪は赦されることを知る。ダビデ王は、あれほどだらしない人生を送ったにも拘わらず、絶大な祝福を神から受け、メシアの家系とまで信じられ、イスラエルの民に慕われた。それは、ダビデが神の方を常に向いており、自分の失態のときのほかは、決して向きを換えることがなかった、ということによるのではないか、と私は捉えている。
 
だから、そこに倣おうとするからには、私は祈るとき、神と「差し向かい」になっていることを疑わない。サシで向き合うのである。決して長い時間ぶつぶつ言うわけではない。美辞麗句を重ねるわけでもないし、礼拝などのプログラムの中で公祷の立場になったとしても、決して予め考えた原稿を読み上げるようなことはしない。「いまここで」神の前に出て、神とサシで向き合うときに、さあ自分はここにいます、とばかりにただぶつかるしかないのである。
 
「悔い改め」、どうもそれは、「懺悔」のイメージで彩られているような気もする。少なくとも私は、当初そう思いこんでいた。そういう誤解をしている人は、教会の内外問わず、いるかもしれない、と思う。だが、「悔い改め」は、信仰の始まりとして、向きを知ることである。東に100m進むべきなのに、同じ100mでも方向を間違えて西へ進んでしまえば、目的の場所には、行くことができないのである。



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